第44話:アイヌの仁王とパイカㇼ(春)の修練
春の宗谷は、雪解けと泥濘が入り混じる厄介な季節。
そんな中でも、セタリはいつも通り己の身体を鍛え続けています。
宝暦十二年(一七六二年) (仲春) 蝦夷地・宗谷コタン
目が覚めると、チセ(家)の中にリラとあの和人のガキの姿はなかった。
叔母の話では、朝早くから薬草を摘みに出かけたという。
いつもなら俺が付き添い役に駆り出されるところだが、今日はあのガキを連れて行ったらしい。
(……ふん。和人のガキが、あの吹きさらしの丘を歩き回れるわけなかろうに)
昨日の大物の解体による疲れが肩に重く残っていたが、
不意に訪れた一人きりの静寂は、案外悪くない。
胸の奥に燻る少しばかりの「面白くなさ」を追い払うように、俺は表へ出た。
まずは、川から水を汲んでくる。
雪解け水で増水した宗谷川の谷底から、重い水桶を担いで丘の上のチセまで何度も往復する。
泥濘に足を取られぬよう、一歩一歩に全神経を集中させる。
これだけで、下手な修練よりもよほど足腰が練り上げられる。
次に待っているのは薪割りだ。
ただ力任せに振るのではない。
寒風に耐えて硬く締まった木の目を読み、一撃で芯を断つ。
パァン、と乾いた音が響き、木材が左右に弾け飛ぶ。
繰り返すうちに、昨日の疲れが残る筋繊維が熱を帯び、汗が滲み始める。
だが、その痛みこそが俺にとっては真実だった。
それから、少し離れた場所に的を置き、弓を引いた。
頭、胴、足。追い込んだ後の腕は細かく震えたが、それを強引にねじ伏せて矢を放つ。
十本射って、三本を外した。
(……ちっ、まずまずだな)
弓を下ろした頃には、アトゥシ(防寒着)の下は汗でぐっしょりと濡れていた。
俺は的を見据えたまま、一度、深く、長く呼吸を吐き出す。
「……ふぅ」
決意とともに、俺はアトゥシの襟元に手をかけた。
冷たい春風が吹き抜ける中、構わずアトゥシを脱ぎ捨て、上半身をはだける。
冷気と接触した瞬間、鍛え上げられた褐色の肉体から、一気に白い湯気が立ち上った。
浮き上がった広背筋、幾重にも重なる腹筋、そして丸太のような上腕。
流れる汗が筋肉の溝を這い、朝日に濡れて輝く。
冷たさが肌を刺すが、俺の内側にある「熱」は、それよりも遥かに熱かった。
この手に残る弓のしなり、泥を噛む足の感触。
そして、この焼け付くような筋肉の鼓動。
それだけが俺のすべてだ。
和人の「理」など、ここに立ち入る隙はない。
俺は、太い木の棒を手に取った。
向かう先は、二本の支柱の間に渡された頑丈な横木だ。
はだけた上半身を冷風に晒したまま、俺は全身のバネを一点に集中させ、
その横木に渾身の力で打ち込んだ。
ガァン!
重い衝撃が掌を抜け、骨の芯まで響く。
一打、また一打。
木の棒が横木を叩くたび、周囲の木々に積もった僅かな残雪が、振動でハラハラと舞い落ちる。
コタンの静寂を破るその音は、まるで俺の鼓動そのもののようだった。
(俺の力は、俺が鍛え上げたものだ。俺だけが、俺を完成させる)
打ち込むたびに、立ち上る湯気が白く染まり、視界を塞ぐ。
構わず、限界まで打ち続けた。
ようやく棒を下ろしたとき、俺の呼吸は荒く、
全身から湯気を立てながら、冷たい春風に体を晒していた。
汗ばんだ肌を冷やす風が、心地よかった。
言葉も理屈も、ここでは風に流されるだけのものだ。
この手に残る衝撃、そしてこの焼け付くような肉体。
それだけがあれば、俺は生きていける――。
---
「……帰ったか。早かったな」
打ち込みを終え、全身から白く濃い湯気を立てる俺の前に、二人が姿を現した。
リラは相変わらず元気だが、その隣にいる和人のガキ
――勘太は、今にも地面に溶け落ちそうなほど顔色を失い、膝をガクガクと震わせてふらついている。
リラが足元の悪い泥濘を嫌うように、背負い籠をドサリと地面に下ろした。
覗き込んだ籠の底には、泥のついたプクサ(行者ニンニク)の芽がようやく一層、
重なり合っている程度だった。
朝から出てこの時間なら、リラ一人であればもっと嵩があったはずだ。
(……ふん。和人のガキを連れて行ったせいで、まともに歩けなかったか)
雪解けの原野を歩き回る過酷さを知らない素人を連れ回した結果が、この物足りない収穫量だ。
猟師としての俺の目から見れば、それは「仕事」と呼ぶにはあまりに中途半端なものに映った。
「勘太がへばっちゃったから、切り上げてきたのよ」
リラが呆れたように笑いながら、勘太の背中を叩いた。
「それより、セタリ、そんな格好してると風邪ひくわよ。早く着なさいって」
リラが母親のような小言をいう。
俺は、見せつけるように力こぶを作って力を込めた。
盛り上がった二の腕の筋肉が、はち切れんばかりに膨らむ。
「……心配無用だ。毎日こうして鍛え上げているからな。風邪など、俺の体に入る隙もない」
俺が誇らしげにしていると、勘太は疲れも忘れたように、
ぽかんと口を半開きにしてその筋肉を眺めていた。
「……セタリさん。……見事な身体ですね」
荒い息をつきながら、勘太が俺の体をまじまじと見上げた。
「……筋肉の付き方、皮膚の張り。……まるで仁王像のようだ」
におう? わけのわからぬ言葉だが、その瞳に宿る純粋な感嘆は、嫌でも伝わってきた。
喉の奥がむず痒くなるような、奇妙な高揚感。
俺はそれを振り払うように、乱暴にアトゥシを羽織った。
「……何を言っている。飯にするぞ」
俺は逃げるようにチセ(家)の中へと足早に向かった。
---
昼食の最中、俺は鼻で笑いながら、へばりきったガキに問いかけた。
「薬草はどうした。リラに付いていくだけで精一杯だったそうじゃないか」
「……足腰には自信があったんだけど。
浜と丘じゃ、地面の『質』がまるで違いますね。肺が焼けるかと思ったよ」
「そりゃそうだ。お前の脚じゃ鹿の子にも負ける」
俺が嘲笑を投げると、それまで黙って飯を食っていたリラが、こちらを見てカチリと箸を置いた。
「……何が可笑しいのよ、セタリ。勘太は、あなたが知らないことをたくさん知ってるんだから!」
「リラ、いいんだ……。俺が体力不足なのは事実だから」
「……それはそうね。じゃあ、明日からも私に付き合いなさい。みっちり鍛えてあげる」
リラはそう宣言すると、また飯に集中しだした。
この年の離れた従妹の気まぐれさには時々辟易する。
俺は、震える手で懸命に食事を進めるガキを横目に、ふと気になっていたことを口にした。
「ところで、お前は何しにこんなところに来たんだ。
物見遊山なら和人の町にでも行った方がいいんじゃないのか?」
「……一言でいうのは難しいですね。ただ、物見遊山ではないです。
しいて言うなら、宝を探しに来たんですよ」
「宝?そんなもの、ここにはないぞ。
あるなら、役人がとうに持って行ってるはずだ」
勘太は少しだけ顔を上げ、口角を微かに上げた。
「ああ、宝というのは比喩です。
……そうですね、いいかえると『皆がその価値に気付いていないもの』です。」
(『皆がその価値に気付いていないもの』?)
考えていることは分からなくもないが……そんなものがあれば、それこそ皆が放っておかないだろう。
だが、あいつの目は笑っていなかった。
俺たちが毎日踏みつけている泥や、網を破るだけで厄介者扱いされているあのカニ。
浜に打ち捨てられ、腐るのを待つだけの海草。
まさか、そんな「無価値なもの」の中に宝があるというのか。
いや、だからこそ『皆が気付いていない』ところが重要だと言いたいのか。
「それで、そいつを見つけてどうする。和人の軍勢でも連れてきて奪おうとでもいうのか?」
勘太は困ったような顔をして、首を横に振った。
「いや、それは無理ですね。
俺が探している宝は、力で奪って持ち出せるようなものではないので」
「……意味が分からん。お前と話してると頭が痛くなる」
俺は吐き捨てるように言った。だが、不思議と不快ではなかった。
(……ちっ、知らぬ間にあいつの土俵に引き摺り込まれている気がする)
獲物を狙う熊の目とも違う、かといって商人の卑屈な目とも違う。
あいつの放つ言葉は、こちらの警戒心を内側から解きほぐし、
いつの間にか思考を誘導していく不気味な引力があった。
「まあ、せいぜい頑張るんだな。
ただし、コタンを荒らすような真似をしたらただじゃ置かんからな」
「ええ、わかってますよ。カムイへの敬意も忘れないつもりです」
「下手糞なアイヌ語だ。まずは言葉から覚えるんだな」
俺は逃げるように立ち上がると、日課の見回りに出かける準備を整えた。
日は頂点をすぎ、少しずつ傾きかけていた。
少し喋りすぎたか。
あいつの「理」に毒されたのか、
自分の声がいつもより少しだけ浮ついている気がして、
俺は雪解けの道を急いだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「セタリの凄まじい肉体の活躍が見たい」「誰も価値に気付いていない宝が気になる!」
と思っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援いただけると、
執筆の大きな励みになります!




