第43話:北天の咆哮(フミン)と、命(ラマッ)を解く理
第2部「アイヌ集落編」の開幕です!
舞台はアイヌの集落に移り、新たな主人公・セタリと、
相変わらず理で人を丸め込む勘太との出会いから、物語は再び動き出します。
野生の力と現代の知恵がどう交錯するのか、お楽しみください。
宝暦十二年(一七六二年) (仲春) 蝦夷地・宗谷川上流
果てしなく続く丘陵が波打ち、その谷間を雪解けの急流が噛む、最果ての地。
春の訪れを告げる水音が、凍てついた空気を震わせていた。
俺――セタリは、吹きさらしの原野と、
風にひれ伏すような背の低い木々が重なる丘の斜面に同化していた。
この地には、本州のような「深い森」など存在しない。
視界を遮るもののない広大な波状の丘陵。
獲物からもこちらが丸見えになるこの場所で、唯一の味方は、
絶えず吹きつける強風と、丘の起伏が作るわずかな死角だけだ。
「セタリ(犬)」の名に相応しく、俺の嗅覚は風に乗った獣の脂の匂いを鋭く捉えている。
(……来た)
丘のうねりの向こう側、風に歪んだダケカンバの低木の陰から、
立派な角を持つエゾシカが姿を現した。
俺は音もなく、使い込まれたク(弓)を引き絞った。
遮る大木がないこの大地では、距離感が狂う。
普通なら、この距離で仕留めるのは至難の業だ。
だが、俺の瞳には、遥か先の丘に立つ鹿の、風に逆立つ毛並みの一本一本までが止まって見えた。
「――行け」
放たれた矢は、丘を駆け抜ける猛烈な風を切り裂き、その音すら置き去りにして鹿の頸椎を貫いた。
巨体が崩れ落ちる。
俺はすぐさま駆け寄り、腰のマキリ(小刀)を抜いて、
獲物の魂をカムイ(神)の国へ送る祈りを捧げた。
三十貫(約112kg)はある大物だ。
だが、俺はそれを子どもでも担ぐかのように軽々と肩に担ぎ上げた。
踏み出した足が、雪解けの泥濘を深く沈ませる。
常人なら膝が砕ける重みだが、俺の異常に発達した筋肉には、むしろ心地よい刺激でしかない。
ふと、着込んだアトゥシの襟元から、白く濃い湯気が立ち上った。
獲物をしとめた後はいつもこうなる。
吹きさらしの丘の上、氷のような風に晒されているというのに、
内側から焼け付くような熱さが全身を駆け巡り、
厚い防寒着を通り抜けて汗が蒸気となって噴き出していく。
命を強引に燃やして力を引き出しているかのような、得体の知れない高揚感。
「……これで十日は、みんなを腹一杯にさせてやれるな」
ぐうう、と腹が鳴る。
(……いかんな、腹が減って動けなくなる前に帰らないと)
独りごちて、俺は家族の待つコタンへの帰路を急いだ。
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チセ(家)の入り口を潜ると、いつもとは違う匂いが鼻を突いた。
乾燥した魚や燻りだされた薪の匂いに混じって、「海」を感じさせる独特の香りだ。
「じいちゃん、戻ったぞ」
鹿を土間に下ろし、奥へ視線を向けて俺は硬直した。
そこには、俺の祖父と、そして一人の和人の子どもが座っていた。
三十貫の獲物を担いできた俺の体からは、今も湯気が立ち上り、アトゥシを白く包んでいる。
だが、その霧の向こうに座るガキの周りだけは、まるで冬の湖面のように静まり返っていた。
(……なんだ、このガキは)
年は七歳ほどだろうか。
アトゥシを纏っているが、その佇まいはコタンの子どもとは明らかに違う。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、揺るぎない眼光を放つその姿は、
小さな身体に老練な魂を閉じ込めたかのような異質さを放っていた。
その妙なガキは俺の肩の獲物を見て、感嘆する代わりにその傷口を鋭く凝視した。
まるで、肉の重さではなく「殺し方の精度」を測っているかのような、嫌な目だ。
「おお、セタリか。いい獲物だ」
コタンの長老格である祖父が、穏やかに笑う。
その隣では、祖母が、勘太が持ってきたらしい「妙な粉」を小さな木皿に盛り、
神妙な顔で眺めていた。
「この子は勘太。徳蔵の紹介で、しばらくうちで預かることになった」
「和人の子どもを……? 宗谷からここまで、一人で来たのか?」
俺が疑念を隠さずに問うと、炉のそばで山刀を研いでいたリラの父が手を止めた。
この家で最も厳しい目を持つ猟師である叔父貴が、勘太を険しい目で見据えながらも、
どこか測りかねるような沈黙を保っている。
対照的に、リラの母はすでに勘太を家族のように扱い、
大きな木鉢に盛られたオハウ(汁物)を、その小さな客へと差し出していた。
俺が理解できずにいると、傍らにいた十歳のいとこ、リラが身を乗り出してきた。
リラは頬を紅潮させ、目の前の勘太というガキを食い入るように見つめている。
「ねえセタリ、聞いて! この勘太って子、すごいのよ。
私が今まで勘で混ぜていた薬をね、この子は和人の難しい言葉
……『理』で、全部紐解いてみせたの。
この子の言葉は、薬草の神様が囁く言葉みたい。何もかもがはっきり分かるのよ!」
リラは息を弾ませ、取り憑かれたような目で勘太を見つめている。
彼女がこれほど興奮するのは、新しい毒の調合に成功した時くらいだ。
「セタリさん、ですね。あなたの話、聞いていました。若いのに凄腕の猟師だとか」
その落ち着き払った声に、少しだけ癪に障るものを感じた。
リラと、俺には理解できない『理』とやらで、盛り上がっているのも気に入らない。
俺が命懸けで持ち帰った鹿よりも、このガキが吐く言葉の方が、
この家では価値があると言われているようだった。
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「……飯にしよう。鹿をさばく」
俺は逃げるように土間に戻り、手際よく鹿を解体した。
日持ちする背肉や腿肉は、血抜きをしてから外の寒気に晒し、保存に回す。
今夜食うのは、真っ先に取り出した内臓――心臓と肝臓、そして脂の乗ったハラミだ。
炉の火が赤々と燃え、切り分けられた厚切りのハツとレバーが串に刺されて焼かれていく。
滴り落ちる脂が爆ぜる音が、空腹を刺激する。
本来なら、ここに塩を振るか、あるいは生のまま肝を食らうのが我が家の流儀だ。
だが、内臓が焼き上がる直前、勘太が懐から小さな革の袋を取り出した。
「これを使ってみてください。もっとうまくなりますよ」
「粉……? 薬か何かか?」
俺が警戒してリラを見ると、彼女は「毒じゃないわよ、たぶん」と期待に満ちた目で頷いた。
勘太が差し出した指先にあったのは、淡い褐色をした不思議な粉末だった。
それを焼きたての肉にパラパラと振りかける。
その瞬間。
立ち上る湯気が、劇的に変化した。
内臓特有の血生臭さが消え、海の深淵を感じさせる濃厚な芳香と、香ばしい何かが混ざり合い、
脳の奥を直接揺さぶるような香りに変わったのだ。
和人のまじないに屈するなど、アイヌの誇りが許さない。
だが、鼻腔を焼く香りに、胃袋が悲鳴を上げていた
俺は一口、焼き上がったハツを口に運んだ。
「――――ッ!?」
衝撃が走った。
鹿の内臓が持つ野性味あふれる鉄分と旨味が、その粉末によって何倍にも増幅されている。
いや、増幅ではない。
内臓の中に眠っていた、俺すら知らなかった「宝」を、この粉末が強引に引きずり出しているのだ。
舌の上で爆発するような強烈な旨味。
塩気だけではない、複雑に絡み合う深いコク。
それは、命を燃やして戦い、飢えきっていた俺の身体に、
かつてない速さで「力」として溶け込んでいく。
火照っていた筋繊維が、極上の水を吸うように静まっていくのが分かった。
「な……なんだ、これは。お前、肉に何をかけた」
「カニを特殊な工程で乾燥させ、粉末にしたものです。
和人の間では『隠し味』と呼んでいますが、要は旨味成分の相乗効果。
内臓の癖を消しつつ、コクを補うんです」
勘太は淡々と解説するが、祖父もリラも、一心不乱に肉を頬張っている。
「おいしい……。こんなにおいしい肝は、生まれて初めてだわ!」
リラが叫ぶ中、それまで沈黙を守っていたリラの父(叔父貴)が、重い腰を上げて串を手に取った。
叔父貴は勘太を射抜くような鋭い目で見据えたまま、肉を一口、ゆっくりと咀嚼する。
チセの中が静まり返った。
「……うまいな。だが、肉の減りが進みそうだ......。」
そう言いながら、叔父貴の手は、無意識のうちに次の肉へと伸びていた。
家族全員の胃袋をつかまれてしまった。
「……飯がうまいのは、いいことだ」
俺は最後の一片を飲み込み、溜息とともに認めた。
この和人の子どもを受け入れることに。
元々、俺に決定権などないのだが、この「味」を知ってしまった後では、
追い出すという選択肢は胃袋が拒否していた。
そして、俺の直感が囁いていた。このガキと一緒にいれば、
俺のこの「命を燃やすような力」を、正しく制御できるようになるのではないか、と。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「湯気を吐くセタリの身体能力が異次元すぎる!」
「カニ粉末を振った鹿のモツ焼きが反則級に旨そう!」
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