第36話:伊勢屋の招状(まねき) ――凍てつく野望と、大人の打算――
松前から戻った徳蔵が持ち帰ったのは、伊勢屋九兵衛の証文。
カニ殻の粉末は、ついに大店の目に留まりました。
ですが同時に、宗谷の小さな商売の裏にいる
「若者」の存在にも気づかれてしまいます。
宝暦十一年(一七六一年) (初冬) 蝦夷地・宗谷
その日は、朝から地吹雪が荒れ狂っていた。
視界は、わずか数歩先まで白く塗りつぶされている。
雪の礫が小屋の壁を叩く音だけが、暴力的な重さで響いていた。
「……勘太、徳蔵さんが戻ったぞ!」
慎也の叫び声とともに、厚い防寒戸がこじ開けられた。
吹き込んできた凍てつく風を裂いて、雪だるまのような塊が転がり込んでくる。
松前に荷を届けに行っていた、徳蔵さんだ。
「……死ぬかと思ったぜ。この時化じゃ、あと半日遅れてりゃ海の上で仏様だったな」
徳蔵さんは蓑を脱ぎ捨て、熾火の前に這いつくばった。
凍傷寸前の真っ赤な手を火にかざしながら、彼は懐から厳重に油紙で包まれた一束を取り出した。
「勘太。……九兵衛の旦那からだ。まずは、これを受け取れ」
差し出されたのは、墨の匂いも新しい「証文」。
伊勢屋九兵衛の名と、その判が鮮明に押されている。
朔弥が素早くそれを受け取り、焚き火の明かりで内容を読み解いた。
「……『カニ粉末、全量を一斤につき銀三匁で買い受ける。他所への売却は一切禁ず』。
……勘太、独占契約だ。しかも、前の油煮より、さらに高い値が付いている」
朔弥の声が、驚きでわずかに上擦った。
銀三匁。
この最果ての地で、ゴミ同然に捨てられていたカニの殻が、
今や干し鮑に匹敵する値を生む「切り札」に化けた瞬間だった。
だが、徳蔵さんの表情は晴れない。
彼はもう一つ、懐から白木綿で包まれた小さな文を取り出した。
「……問題は、こっちだ」
それは、単なる商売のやり取りではない、上質の和紙に認められた「招待状」だった。
内容は簡潔だが、拒絶を許さぬ圧があった。
『宗谷にて面白い知恵を持つ若者ありと聞き及ぶ。
雪解けを待たず、一度松前伊勢屋へ来られたし。
話を聞いてみたい』
小屋の空気が、一瞬で凍り付いた。
「若者」――九兵衛は、この事業の裏に、徳蔵ではない「誰か」がいることを完全に見抜いている。
「……勘太。九兵衛の旦那は、本気だぞ」
徳蔵さんが、火を見つめたまま重く口を開いた。
「粉を一口舐めた瞬間、あの人の目つきが変わったんだ。
『探し求めていた宝を見つけた』
……そう言わんばかりの、獲物を見つけた獣の目だった」
「断ればいいだろ!」
それまで黙って聞いていた鉄太が、思わず立ち上がった。
「勘太はまだ六歳だぞ! この雪の中、松前までなんて行けるわけねぇ!
そもそも、あんな大店に勘太を連れて行ってみろ、
そのまま囲い込まれて、俺たちの城はバラバラになっちまう!」
鉄太の危惧は正しい。
九兵衛という男は、商売の鬼だ。
もし勘太の正体が「六歳の幼児」だと知れれば、
彼は保護という名目で勘太を松前へ連れ去り、その知略を独占しようとするだろう。
それは「宗谷創業計画」の事実上の終焉を意味する。
「……行かせるわけにはいかないな」
低く、地鳴りのような声がした。
いつの間にか、入り口に源蔵、鉄造、徳也の三人が立っていた。
源蔵の目は、相変わらず息子への賛美ではなく、冷徹なまでの危機感に満ちていた。
「徳蔵。……その文は、俺が預かる。
九兵衛さんへの返事はこうだ。
『件の者は、この冬の寒さで酷く体調を崩し、起き上がることすら叶わぬ。
お招きはありがたいが、今はとても松前まで出向ける状態ではない』」
実の親による、明確な「隠蔽」だった。
「父さん、それは……」
俺が言いかけると、源蔵は鋭い眼光で俺を制した。
「勘太。俺はお前がやってることに口を出したことはない、だが、これは話が別だ。
だが、お前が松前へ出向いて、
巨大な獣に食いつぶされるのを黙って見ているほど、俺は間抜けじゃない。
……お前はまだ、子供で、俺の大事な息子だ。」
その言葉には、今まで感じたことがないほどに親心が満ちていた。
のびのびと育ってほしいという思いから放任主義を貫いてきた父が
九兵衛という「外敵」から守るために重い腰を上げてきたということだ。
「……分かったよ。
徳蔵さん、招待は......断ってください」
俺は静かに答えた。
今、この場で反抗するのは得策ではない。
九兵衛との接触は、俺にとってもまだリスクが高すぎる。
徳蔵さんは、どこかホッとしたような、それでいて申し訳なさそうな顔で頷いた。
「……すまねぇ、勘太。俺がもっとうまく誤魔化せりゃよかったんだが……」
「いいんだ。むしろ、伊勢屋がそれほどまでに
この『粉末』に価値を見出したことが分かっただけで、十分な収穫だ」
俺は木札を手に取り、独占契約の内容を書き留める。
銀三匁。
それが、俺たちをこの極寒の地から解き放つための、新しい武器になる。
だが。
立ち去ろうとする鉄造が、俺の横を通り過ぎる際、ボソリと呟いた言葉が耳に残った。
「……体調不良、か。都合のいい言い訳だな。
実際、お前がいなくても回る“仕組み”とやらが、もう出来かけているんじゃないのか?」
その言葉に、背筋が凍った。
鉄造の目は、笑っていなかった。
(……どういう意味だ?
確かに仕込みは順調だ。
だが、あの目――読めない)
外では、風がさらに勢いを増していた。
地吹雪が小屋を揺らし、板の隙間から細かな雪が入り込む。
この嵐が続けば、宗谷は春まで外の世界から切り離される。
証文に記された「黄金の約束」と、大人たちの「静かな打算」。
それらが、宗谷の冬の中で、不穏な影を落としていた。
俺は、熱を失い始めた熾火を見つめながら、次なるディールの修正を余儀なくされていた。
冬は、まだ始まったばかりだ。
そして、親たちとの約束の期限――冬の終わりまで、もう猶予はない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「九兵衛の嗅覚、恐るべし……。勘太の正体がバレるのも時間の問題か?」
「親たちの『隠蔽』は優しさなのか、それとも別の……? 鉄造の一言が不穏すぎる!」
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