第29話:看板商品(フロントエンド)の勝利 ――次なる一手は「不毛の地」にあり――
大問屋・伊勢屋九兵衛を唸らせた、現代コンサル知識の結晶「カニの油煮」。
宗谷の浜に帰還した徳蔵が差し出したのは、子供たちが一生かかっても拝めないはずの「本物の黄金」でした。
遊びが事業へ、空想が現実へと変わる歴史的瞬間。
しかし、歓喜に沸く仲間たちを横目に、六歳の軍師・勘太はすでに「次なる冷徹な一手」を見据えていた――。
宝暦十一年(一七六一年) (初夏) 蝦夷地・宗谷
宗谷の海は、冬の厳しさを忘れたかのように穏やかな紺青に染まっていた。
だが、その穏やかさこそが、俺たちにとっての「刻限」を告げている。
隠れ家の中では、三吉が額に汗を浮かべながら鍋の前に立っていた。
「いいか、三吉。表面の気泡が細かくなって、音が澄んできたらそこが引き時だ。
……ちょっと、火が強いんじゃないか」
「……わかった。ちょっと火を弱める」
三吉が火箸で薪を崩し、熾火を奥へ寄せる。
「……これで。どうかな?」
「うん、よくなった。だいぶ火の扱いがうまくなったな。」
「そう?最初のころに比べたら慣れては来たと思うけど、まだ一人だと不安だ」
三吉に現場監督を任せてから数週間。
当初は半分も不良品が出ていたが、俺が「音」や「泡の形」を視覚化・標準化したことで、
精度は劇的に上がっていた。
今や歩留まりは九割に迫っている。
本人は自信なさげだが十分に俺の代わりを任せられると思う。
やはり、適度に任せつつ助言する体制がよかったのだろう。
事業の肝となる「カニの油煮」プロジェクトではあるが、
俺は、幹部メンバーをこの単純作業に固定するほど愚かではない。
鉄太と朔弥には、それぞれの後進の育成を厳命してある。
親たちとの掛け合いの条件の一つである「属人化の解消」だ。
鉄太は「海方」として年少組に資源回収の要領を叩き込み、
朔弥は「山方」として野草や樹液の採取方法、そして中の番頭として記録と算盤の基礎を伝えていた。
組織の拡大には、彼ら自身の「代替わり」が不可欠だからだ。
後進が育って現場の仕事を任せられるようになれば、二人は全体を見る仕事に時間を使えるようになる。
一方、もう一つの条件である「西の畑」については、慎也を責任者に据えて面倒を見させていた。
俺の指示した調合肥料を使い、慎也は粘り強く土を「ハッキング」し続けている。
葉はまだ若く、指を広げたほどの大きさだ。
几帳面に整えられた畝に、伏すように広がっている。
派手さはないが、力強い。
「勘太、三吉のやつ、すっかり板についてきたな」
育成の合間に様子を見に来た鉄太が、誇らしげに現場を見つめる。
「一人の才覚に頼るのは、長くは続かん。
誰がやっても同じ品が出来るようにしないと、商いにはならん」
俺たちがそんな会話を交わしていた、その時だった。
外で流木を運んでいた年少組の一人が、息を切らせて駆け込んできた。
「……か、勘太! 鉄太! 徳蔵さんが……徳蔵さんの船が、今さっき着いたって!」
作業場に緊張が走る。
(ようやくだな。さて、どうなったかな。
喜ばれて終わりだった、ってことはないと思うが。
まあ、その時は他をあたるか違うものを試すしかないか。)
期待と不安が入り混じった沈黙の中、作業を続ける。
一刻後。
重い足音とともに、小屋の影を切り裂いて大男が姿を現した。
徳蔵さんだ。
「……勘太。戻ったぞ。お前の言った通りだ」
徳蔵さんは、背負っていた荷をドサリと土間に下ろした。
その中から現れたのは、小さな、だがずっしりと重みのある革袋だった。
「伊勢屋の旦那、壺を開けた瞬間、顔色を変えやがった。
一口食うなり、押し黙ったあと言い放ったよ。
『これはただの珍しい食い物じゃない。巧みに考えられた美味だ』
とな」
徳蔵さんは、思い出すだけでも興奮が収まらないといった様子で、身振り手振りを交えて続けた。
「あの九兵衛の旦那が、干し鮑や煎海鼠を凌ぐ看板になるとまで言ったんだぞ。
油の一滴まで舐めるように味わって、『一壺、一分。これで全量預かろう』と即決だ。
……正直、渋るようなら、他所へ持ち込む腹もあったが、その必要はなかった。
一壺一分なんて、カニを売る値じゃねえ。
……これが持っていった五壺分の代金――一両と一分。
それに、九兵衛の旦那から預かった『手付金』が二両だ。
合わせて三両と一分。残りは次の品と引き換えだとよ」
三両と一分。
鉄太と朔弥が絶句し、作業をしていた子供たちの手が止まる。
一縷の望みをかけて送り出した「五壺」が、現実の資本となって戻ってきたのだ。
松前を代表する商人が、間髪入れずに「一分」という値を付け、
さらに現金を預けて「次を早く持ってこい」と急かしている。
その事実が、何よりも雄弁に商品の価値を証明していた。
俺は朔弥に目配せをし、徳蔵さんの前に革袋を押し戻させた。
「……なんだ? 勘定が違ったか?」
「いえ。そのお金、徳蔵さんに預かっておいてほしいんです」
俺の言葉に、徳蔵さんが眉をひそめる。
「俺たちがこんな大金を持ってりゃ、すぐに大人たちの耳に入る。
余計な揉め事の種になるし、何よりガキが持って歩くには物騒すぎます。
……徳蔵さん、あんたを信じて預けます。これから油や壺を揃える時、そこから支払ってください」
徳蔵さんは袋を見つめたまま、低く唸るような声を出した。
「……勘太。お前、怖くないのか。俺がこのまま、そいつを懐に入れて知らぬ存ぜぬを通すとは思わねえのか」
徳蔵さんの鋭い視線が俺を射抜く。
だが、俺は不敵に笑って肩をすくめた。
「その気があるなら、そもそもここへ金を持ってきたりしないでしょ。
黙って懐に入れて『伊勢屋に門前払いされた』とでも言えば済む話なんですから」
徳蔵さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたあと、腹の底から絞り出すような笑い声を上げた。
「……ガハハ! 違えねえ。こりゃ一本取られた。
……いいだろう、引き受けた。俺が責任を持って預かってやるよ」
徳蔵さんは短く笑うと、再び鼻息を荒くして身を乗り出した。
「勘太、すぐに次を仕込むぞ。運搬は俺に任せろ。
荷が揃い次第、俺が何度でも往復してやる。一刻も無駄にはしねえ!」
徳蔵さんの鼻息は荒い。
だが、俺はその熱狂に冷や水を浴びせた。
「……徳蔵さん。喜んでいるところ申し訳ありませんが、浮かれるのはそこまでです」
俺の声は、春の陽だまりを凍らせるように冷たかった。
「暑気が立ってきました。
油は陽気に弱い。洞の氷も、そう長くは持ちません」
「な、何を言って……氷がなくなっても、俺が急げば――」
「夏は、急いでも止まりません。
運べるのは、あと一回……良くて二回が限りです。」
徳蔵さんの顔から、一気に血の気が引いた。
黄金の道が、物理的な限界によって閉じようとしているのだ。
俺は、肩を落とす彼の隣に歩み寄り、その分厚い手に六歳の小さな手を重ねた。
「俺たちの『看板』を守るためです。
……安心してください。売り物は油煮だけじゃありませんから」
俺は不敵な笑みを浮かべ、慎也が管理している西の畑を見据えた。
「油煮は、いわば客を呼ぶための餌ですよ。
伊勢屋に俺たちの価値を認めさせ、太い販路を築くための看板です。」
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
五壺の成果が「三両一分」という資本になって戻り、事業は完全にステージが変わりました。
しかし、ここで浮かれないのが勘太です。
夏場の品質低下リスクを冷徹に見極め、ブランドを守るためにあえて「引く」決断を下します。
「三両という大金に震える子供たちがリアル!」と思っていただけたら、
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