第28話:松前の審判 ――嘘をつかない男と、嘘のない美味――
勘太が徳蔵に託したのは、試供品。
狙うは、松前を代表する大問屋「伊勢屋」の主人・九兵衛です。
「売り物ではない。ただ食わせて、値を付けさせろ」
大人の常識を買い叩く、冷徹かつ大胆な「値踏み」の罠の行方は――。
宝暦十一年(一七六一年) (晩春) 蝦夷地・松前
松前の城下。
西廻りの廻船がもたらす富と欲が渦巻くこの街の片隅に、大問屋「伊勢屋」の広大な屋敷がある。
その勝手口に、潮風に焼けた大男――徳蔵が立っていた。
「……徳蔵さん。今日は俵物の時期でもなけりゃ、昆布の納品でもないはずだが」
顔なじみの手代が、不審げに徳蔵を見た。
「ああ。……旦那に、どうしても見せなきゃならねえもんがある」
徳蔵の声は重く、一切の揺らぎがなかった。
徳蔵は二十年、この伊勢屋に最高級のナマコや昆布を納め続けてきた。
嵐の日でも納期を守り、一度たりとも粗悪品を混ぜたことはない。
伊勢屋の主人・九兵衛にとって、徳蔵は「最も商才はないが、最も嘘をつかない男」として、
特別な信頼を置く仕入れ先だった。
その「嘘をつかない男」が、漁を休んでまで松前に現れ、真剣な眼差しで面会を求めている。
手代は徳蔵の気圧されるような雰囲気に、思わず奥へと足を進めた。
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通されたのは、香の匂いが微かに漂う奥座敷だった。
主人の九兵衛は、文机に肘をつき、徳蔵が差し出した小さな陶器の壺を眺めていた。
「……徳蔵さん。あんたが網を置いてまでここへ来るとはな。よほど、俺を驚かせる自信があるらしい」
「旦那。……ご承知の通り、私は口が達者ではございません。まずはこの壺の中身をお改めください」
徳蔵は、震える手で壺の封を解いた。
瞬間、部屋の中に、これまで誰も嗅いだことのない「芳醇な磯の香」が爆発した。
九兵衛の鼻腔が動く。
松前中の珍味を食い尽くしてきた老商人の瞳に、微かな驚きが宿った。
九兵衛はすぐには箸を手に取らなかった。
傍らに控える若い手代に顎で合図を送る。
手代は手際よく白磁の小皿を用意し、壺の中から黄金色の油に浸かった蟹の身を一房、恭しく移し替えた。
窓から差し込む陽光に照らされ、蟹の身は宝石のような光沢を放っている。
九兵衛は身を乗り出し、食い入るようにその「品」を観察した。
「……徳蔵さん。あんたの目は信じているが、俺の舌は伊勢屋の看板を背負っている。
得体の知れぬものをいきなり飲み込むほど、俺は若くはないんでね」
九兵衛の言葉は静かだが、そこには越えがたい商人の一線が引かれていた。
松前の大問屋ともなれば、仕込まれた毒や、粗悪品による食当たりのリスクを警戒せねばならない。
徳蔵は無言で頷くと、自ら箸を取り、小皿の端に添えられた蟹の身を迷わず口に放り込んだ。
咀嚼し、ゆっくりと、だが力強く飲み込む。
「……良し。油のまわり、身の締まり。俺が宗谷で預かった時と、寸分も変わっちゃいねえ」
徳蔵はさらに、壺の底に溜まった黄金色の油を指で掬い、それを自ら舐めてみせた。
自らの命を担保に、この壺が「安全」であり、かつ「最高品質」であることを証明してみせたのだ。
その覚悟に、九兵衛の目が細められた。
「……あんたがそこまで自信満々に毒味をしてみせるなら、毒を食らう覚悟も決めなきゃならんな」
九兵衛はそこで初めて、自ら箸を伸ばした。 一切れの蟹の身を口に運ぶ。
沈黙が、奥座敷を支配した。
徳蔵は、自分の心臓の鼓動が、部屋の外の潮騒よりも大きく響いているように感じた。
「…………ほう」
長い沈黙の後、九兵衛の口から漏れたのは、感嘆とも溜息ともつかぬ漏らし声だった。
「……驚いたな。カニの身は本来、火を通せば通すほどパサつき、旨味が抜ける。
だがこれは違う。油が身の繊維一つ一つにまで浸透し、旨味を閉じ込めるどころか、増幅させている」
九兵衛は、まるで高価な宝石を鑑定するように、壺の中の油を覗き込んだ。
「……徳蔵さん。あんたは二十年、俺に嘘をつかなかった。
だが、この壺はあんた以上の雄弁さで俺に語りかけてくる」
九兵衛は匙で油を掬い、今一度、舌の上で転がした。
「……油自体にカニの旨味が移って、なんとも味わい深い。
ただの添え物ではなく、油自体の価値が高められている。
……徳蔵さん、これはただの珍しい食い物ではない。巧みに考えられた『美味』だ」
九兵衛は、自らの勘が、この最果ての地でとんでもない金脈を掘り当てたことを確信した。
「……徳蔵さん」
九兵衛はゆっくりと壺の蓋を閉じた。
「これは、誰の知恵だ。
こう言ってはなんだが――あんたのところに、こんなものを作る習わしはなかったはずだ」
奥座敷の空気が、ひやりと冷える。
徳蔵は一瞬だけ、視線を伏せた。
「……宗谷の、若い衆の思いつきでございます」
「若い衆、か」
九兵衛の目が細くなる。
「再現は利くのだな?」
「はい。ですが……手間がかかります」
九兵衛はふっと笑った。
「手間がかかる。
――それは真似しづらい、ということだな。
いいだろう。
一壺、一分。これで全量預かろう」
一分。
徳蔵の脳内で勘定が弾ける。
米一俵――一家が冬を越せる量。
それが、この小さな壺一つに付いたのだ。
「一分……。旦那、よろしいので?」
「ああ。むしろ安いかもしれん。
干し鮑や煎海鼠に並ぶ、いや、それを凌ぐ看板になり得る。
……徳蔵さん、これは大きく動くぞ。」
九兵衛は身を乗り出し、徳蔵を射抜くような視線で見つめた。
「ただし、条件がある。
品質を落とすな。
そして、出せるだけ持ってこい。
十壺でも、百壺でも、私がすべて買い取る。
……徳蔵さん、お前さんの船いっぱいに積んで来い。」
「……心得ました」
徳蔵は深く、深く頭を下げた。
一分という値打。
十壺、百壺という破格の要求。
奥座敷を出た徳蔵の足取りは、いつになく軽かった。
いや、興奮で地についていなかった。
(勘太……。お前さんの言った通りだ。
大人が血眼になって獲物を追う横で、お前さんは『価値』を創り出しやがった。
……だがな、とんでもねえことになっちまったぞ)
徳蔵は、すぐに自分の船へと戻り、船員たちに怒号を飛ばした。
一刻も早く、あの最果ての地、宗谷へ戻らなければならない。
この「黄金の報せ」を届けると同時に、
あの六歳の化け物に、商いの荒波が動き出したことを伝えねばならないのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「嘘をつかない男」が持ってきた「嘘のない美味」。
この二つが重なった瞬間、最果ての地で捨てられていたカニが、黄金へと姿を変えました。
次回、この報せを携えて徳蔵が宗谷へ帰還します。
「徳蔵さんの覚悟が熱い!」「九兵衛との交渉に痺れた」と思っていただけたら、
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