第27話:物流の王手を打て ――独占供給契約と銀の対価――
手元にあるのは一壺の試供品と、北の海で見つけた一枚の銀貨。
勘太はベテラン漁師・徳蔵を相手に、主導権を握るための「値踏み」の罠を仕掛けます。
大人たちの常識を買い叩く、冷徹かつ大胆な交渉の行方は――。
宝暦十一年(一七六一年) (晩春) 蝦夷地・宗谷
宗谷の海は「海明け」を迎え、入り江には冬の沈黙を破る活気が戻っていた。
浜の港では、漁師たちが騒がしく立ち働き、潮の香りと魚の生臭さが入り混じっている。
その一角で、徳蔵はどっしりとあぐらをかき、太い指先で手際よく網の綻びを繕っていた。
そこへ、六歳の小さな影が歩み寄る。
「徳蔵さん。精が出ますね」
徳蔵は顔を上げず、鼻を鳴らした。
「……勘太か。こんなところで遊んでていいのか?それとも、また何か頼みごとか?」
「心配してくれてありがとうございます。
お察しの通り、また頼みたいことがありまして。
もちろん、徳蔵さんにも利のある話です。
損はありません」
勘太は、脇に抱えていた陶器の壺を徳蔵の目の前に置いた。
「今は油や肥料と道具の交換ですが、これからはこいつを捌いていただきたい」
網を繕う徳蔵の手が、ピタリと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、値踏みするように勘太を睨んだ。
「さ、徳蔵さん、こいつを試してください。俺たちの『居場所』を賭けるに値する代物ですよ」
勘太が壺の封を解くと、春の冷たい空気の中に、濃厚で暴力的なまでの「カニの香気」が溢れ出した。
徳蔵は怪訝そうな顔をしながらも、差し出された一切れの身を口に運ぶ。
咀嚼した瞬間、彼の眉間が跳ね上がった。
「……なんだ、これは。ただのカニじゃねえ。
身が凝縮されて、それでいてしっとりと解けやがる。それにこの脂の匂い、ただの魚油じゃねえな?」
「『カニの油漬け』です。カニの身を低い温度の油でじっくりと身の水分を入れ替えた。
これなら、松前や箱館まで数ヶ月かけて運んでも腐りません。
むしろ、時間が経つほど油に旨味が溶け込み、価値が上がる」
勘太は、徳蔵の目を真っ向から見据えた。
「徳蔵さん。この一壺、あなたの伝手で一番『鼻の利く』商人に突きつけてきてください。
……ただし、これは売り物じゃありません。タダで食わせてやってください」
網を繕う手が止まり、徳蔵が怪訝そうに顔を上げた。
「……タダだと? 勘太、お前、正気か。これだけの代物、ただで配って歩く気かよ」
「ええ。これは俺たちからの『挨拶』です。
その代わり、徳蔵さん。その商人にこう訊いてほしいんです。
『この壺に、お前ならいくらの値を付ける?』……と」
勘太は、ずしりと重い陶器の壺を徳蔵の膝元に置いた。
「商売のいろはを知り尽くした男に、この価値を『値踏み』させるんです。
売れた際の上がりから『一割』を、あなたの骨折りに対する報酬としてお約束します。
あなたはただ、この美味い壺を船に乗せて、馴染みの商人に食わせるだけでいい」
徳蔵の喉が、ゴクリと鳴った。
一割。
もし商人がこれに破格の値を付ければ、徳蔵が手にする金は漁師の数年分に及ぶ。
だが、勘太の狙いはその先にある。
(……まずは無料サンプル(フリーミアム)で市場の門を叩く。
商人が自ら口にした『値付け』は、そのまま彼ら自身のプライドと責任になる。
一度『これは〇〇両の価値がある』と言わせれば、
次からはその価格がこの商品の基準になるんだ)
「ですが、条件があります。この『油漬け』を、今後の俺たちの主力にする。
ついては徳蔵さん、あなたの船で獲る獲物を、カニに変えてもらいたい」
その瞬間、徳蔵の顔から笑みが消えた。
「……勘太。そりゃあ無茶だ。
確かにこの油漬けは凄いが、本当に売れるか分からねえ博打に、
俺の船と仲間の命を全張りはできねえ。
俺にだって、請負人の旦那への義理も、守らなきゃならねえ暮らしもあるんだ」
正論だ。
漁師にとって、確実な獲物を捨てて未知の商品に賭けるのは、文字通りの自殺行為。
だが、勘太は動じない。懐から、汚れた布に包まれた「重み」を取り出した。
「なら、これはどうですか」
勘太の手のひらの上で、鈍い銀光を放つ「銀貨」が一枚、ずしりとその重みを示していた。
北の岩場で見つけた「異物」。
......拾い上げ、今日この時のために温存してきた、最強の切り札だ。
「……お前、それを、どこで……!」
「さあ。どこの国の船から流れてきたんでしょうね。
徳蔵さん、これは前金です。
油漬けの取り分とは別に、鉄造さんたちに突きつけられた一年という期限、
カニを優先して獲ってきてくれたら、こいつをお渡しします」
徳蔵の目が銀貨に釘付けになる。
宗谷の片隅で、子供が持っているはずのない圧倒的な「実弾」。
だが、彼は葛藤するように顔を歪めた。
「……銀貨は魅力的だ。だがな、カニばかり獲ってりゃ、請負人の旦那に顔向けができねえ。
……悪いが、そこまでは協力できねえ」
勘太は不敵に微笑んだ。
ここで「譲歩」という名の、計算済みのカードを切る。
「……わかりました。
あなたの立場も尊重しましょう。
なら、『月に一度』だけでいい。
その日は他の魚を捨てて、全力でカニを獲って俺たちに届けてください。
それなら、請負人にも『シケで不漁だった』と言い訳が立つでしょう?」
徳蔵は、銀貨と勘太の顔を交互に見た。
月のうち一日の「不漁」なら、納品の帳尻も合う。
それでこの銀貨が手に入るなら、断る理由はどこにもなかった。
「……わかった。その条件、飲んだ。月のうち一日は、俺の船を丸ごとお前に貸してやる!」
徳蔵が差し出した大きな、節くれだった手を、六歳の勘太がしっかりと握り返した。
---
その日の夜。
漁師小屋の周辺では、契約成立を祝う宴が始まった。
焚き火の爆ぜる音が夜の静寂を打ち消し、徳蔵の配下の男たちが持ち込んだ数樽の安酒が、
景気よく振る舞われる。
「ガハハ! 見ろよ、このカニ! 普段は汁の出汁にしかならねえもんが、こんな化けちまうのか!」
「本当だ。この油、身の芯まで味が染みてやがる。噛めば噛むほど酒が進んで困るぜ!」
男たちが次々と「油漬け」を口に運び、脂ぎった顔で笑い合う。
荒削りな衣をまとった揚げたてとは違う、しっとりと舌に絡みつく濃厚な旨味。
それが安酒の喉越しと暴力的なまでに合致していた。
「おい勘太! お前、本当にこれをガキだけで作ったのか? 妖術か何かじゃねえのか!」
「妖術じゃありませんよ。ただ、カニの良さを引き出しただけです」
「抜かしやがる! この鼻のひん曲がるような贅沢な匂い……。
徳蔵の頭が、カニの網を上げる前からこの油漬けを松前まで運ぶ算段でいっぱいなのも頷けるぜ!」
潮風に焼けた大男たちが、どよめきながら勘太を囲む。
「おい、このガキに酒を持ってこい! 今日はこいつが『親方』だ。一番いい樽のやつをな!」
「そうだ! これだけのモンを食わせてくれたんだ、飲まねえわけにはいかねえぞ!」
差し出されたのは、年季の入った煤けた猪口。
そこに並々と注がれたのは、鼻を突くようなアルコール臭を放つ「どぶろく」だ。
(……まずい。この時代の酒は不純物が多い。
現代の精製されたアルコールと同じ感覚でいたら肝臓が持たないぞ……)
コンサルタントとして、クライアントの部下たちとの「現場の飲みニケーション」を
無下にする選択肢はなかった。
だが、勘太は一つ致命的な事実を失念していた。
「……お前、本当に恐ろしいガキだな。将来が楽しみだぜ、乾杯だ!」
徳蔵の豪快な笑い声に押され、勘太は覚悟を決めて一口煽った。
(……あ、これ、今の体には強すぎる……)
意識が急速に遠のいていく。
前世の接待で鍛えた肝臓は、今の幼児の体には存在しない。
勘太はそのまま、泥のように深い眠りへと落ちていった。
そんな喧騒から離れた場所で、鉄造が立ち尽くしていた。
「……チッ、いい気なもんだ」
鉄造は地面に唾を吐き捨て、暗闇の中へと去っていった。
翌朝。
勘太は激しい頭痛と共に目を覚ました。
目を開けると、そこには仁王立ちで自分を見下ろす母の冷ややかな視線があった。
「……やっと起きた。まったく、あんたって子は。酒を呑むなんて、一人前になってからの話だよ。」
「……ごめんなさい……。」
「徳蔵さんが苦笑いしながらここまで運んできてくれたんだからね。
……あんまり、あの人に迷惑をかけちゃだめだよ。お礼は私から言っておいたけど」
母の叱責に小さくなりながら、勘太は自嘲した。
(コンサルタントが会食でダウンするなどプロ失格だな。だが……一歩前進だ)
窓の外からは、既に作業を始めている子供たちの声が聞こえる。
原料の供給路は確保した。
(とりあえず徳蔵さんに今できてる分を捌いてもらうとして、いくらになるかな。
この利益率なら、秋までには目標金額に届くはずだ。
おっと、生産量を増やすなら、生産ラインも再構築しないと。)
勘太はズキズキと痛む頭を抑えながら、不敵に呟いた。
「……さて。二日酔いで寝ている暇はない。ここからが、本当の『事業拡大』だ」
銀貨という実弾と、月のうち一日の「不漁(カニ漁)」を約束させた勘太。
宴での失態というプロらしからぬ(?)オチはついたものの、これで量産の準備は整いました。
次回、ついに三十人の子供たちが「工場」として動き出す、生産ライン構築編が始まります!
「勘太の交渉術が鮮やか!」「二日酔いのオチが可愛い」と思っていただけたら、
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