第20話 地獄生まれ 後編
ジンヤは道路へ跳び上がると、裕子の指した屋根まで登って身を潜めた。
久津井は用水路に運びこまれた自動車の上で、ぐったりと動かない。
宅地のあちこちから粘液の染みが広がり、水路へ落ちるころにはドロドロとしたかたまりになって不自然にゆらめき、寄り集まってくる。
しかしそれらは急造の中州へ届かないで水面へ落ち、ゆらゆらと流されていった。
宙を漂って久津井の体へかかってくる多くの微細な糸も、水面へ不自然な模様を作るだけで、周囲の粘液とはつながりきれないまま流される。
貴之が喜びかけた時、水流に押された自動車が動いて傾き、久津井の体もずり下がり、腰近くまで水へ浸かってしまう。
久津井の意識はもどらない。
貴之は裕子と顔を見合わせる。
なるべく長く眠らせておきたいが、体の冷えも心配だった。通常の体調ではない。
さらに数分ほど経つと、貴之はふたたび裕子と視線を交わす。
『オレが行く。待ってて』
貴之は手ぶりで示して、そっと水路へ降りる。
わずかな岩場から手をのばし、ぎりぎり届いた久津井の足先をつつく。
直後に自動車がさらに流されて大きな音を立て、貴之は喉も背筋も萎縮した。
粘液の触手が一斉に跳ねる。
しかし久津井までは届かないで水面へ落ち、流されていった。
貴之はそっとため息をつく。
側壁をたれ落ちる粘液がじわじわと固まりはじめ、しぼんでくる。
「ん……」
久津井がぼんやりと半目を開けた。
裕子は近くにあった缶をひろい、離れた場所の粘液だまりへ投げつける。
乾いた金属音が響き、しかしどの粘液も反応しなかった。
久津井はジンヤに引き上げられ、少しずつ意識をとりもどす。
衣服は腹まで濡れてしまい、貴之が制服の上着を羽織らせていたが、寒そうに震えていた。
裕子は通信機で連絡をとりはじめると、顔を明るくする。
「うまくいったみたい。宮武さんたちのいる小学校でも、症状はほとんど出なくて……衿川さんも、感染してない人たちの検診が夜明け前には終わる見込みがついて、久津井さんを運ぶ護送車の許可も出そうだって」
裕子が控えめにでもほほえむと、貴之はあらためてその可憐さにドキリとする。
「ただ、まだ到着時間はわからないから……お風呂でも効果がないかな? ぬるま湯につかって、頭にはシャワーをあてて……」
「さっきの様子だと、それくらいの水量でもいけそうだね? それだとだいぶ楽になる」
貴之はそう言ったあとで、ふと眉をひそめた。
「でも、隠れて動かないとまずそうかな……さっきの追ってきたやつら、何者だろ? プロの軍人とかには見えなかったけど」
裕子もその話題には憂鬱な表情を見せる。
「時間が経って、みんなストレスをためているから。どこまで情報が広まっているかはわからないけど、わたしたちを『敵』とみなす人も増えているのかも」
久津井が心配そうに見つめてきたが、貴之も言葉は出ない。
裕子はその表情を確認してからきりだす。
「友木くんは、本当にわたしたちといっしょにいていいの?」
貴之は眉をしかめ、言葉の続きを待つ。
「感染したわけでもなく、わたしみたいに銃で大人を脅す異常者でもないんだから……むしろ貴重な情報提供者として、優先的に脱出できるかもしれない」
「それで、オレだけ助かれと?」
はっきりと不機嫌に言い捨てる。
「逃げて協力して、渡した情報が久津井さんやジンヤを殺すために使われたら、それこそ『バケモノ』の仲間入りじゃないか」
職員室へ詰めよる群衆の前で、久津井をかばった時の目だった。
ジンヤに握られて吊るされた時、なおも久津井をかばって裕子へ抗議した口ぶりだった。
「そう……ごめんなさい。あと、ありがとう」
裕子はしょんぼりと頭を下げ、そろそろと手を差し出す。
あまりに素直に反省され、貴之は面食らった。
まだ少しふてくされながらも、細い手を握ると照れ笑いがもれる。
「もう、見殺しはいやなんだ」
貴之のなにげない一言で裕子の表情が消え、手も離れる。
「会った時にも、言ってたね。『友だちを死なせないですんだかも』って……」
ようやく高校生の少女のように見えはじめていた裕子が、ふたたび『人間の形をした別のなにか』へもどろうとしている。
「でもわたしは、自分の手で友だちを死なせて……いえ、殺して生きのびた」
冷えきった声、凍てつく瞳。
「この手で突きとばして、正気を失っていたジンヤに喰わせた」
「しかたない状況だったんだろ……?」
貴之はようやく『藤沢裕子』を理解しはじめる。
「そうすればひとりでも多く生き残れると思っていた……でも結局、生き残ったのは『バケモノ』になったわたしだけ」
「藤沢さんはバケモノなんかじゃ……!」
「バケモノでいい」
闇深い目つきは、澄んだ信念も同居させていた。
「自分に『バケモノ』だと言い聞かせていないと、息を吸うのも苦しい。私は絶対に、ジンヤを守りきらないと……ジンヤはなにもわからないまま、わたしという『バケモノ』に巻きこまれた被害者だから。それと……」
鋭い容貌から憎悪があふれだす。
この少女をはじめて目にした時の恐怖が背筋を支配した。
「この地獄を作り出した『本当のバケモノ』は、この口で喰い殺す」
香上が這いずり回って逃げようとした『藤沢裕子』だった。
「それまでわたしは、わたし自身を『人間』にもどしたいとは思えない」
巨大怪物を背に従える姿が似合いすぎていた。
借りられそうな浴室を検討しはじめた矢先に、不意に衿川から連絡が入る。
『避難所が占拠された! 暴動が起きている! 詳しくはまた連絡するが……』
「宮武さんは……友木くんのお父さんは!?」
裕子の不穏な言葉に、貴之と久津井も驚く。
『そのふたりを名指しで人質だと言っている。尾行をしていた集団の仲間らしい。首謀者とも話しているが、かなり感情的だ。君たちも「バケモノを操る仲間」だと思われている』
途方にくれるような最悪の事態だった。
『さっきのバケヘビがおさまった直後から行動を始めていたらしい。仲間の数は把握できていない。やっと大規模な増援の要請をねじこめたのに、台無しだ! ったく!』
衿川がはじめて感情的に声を荒げる。
『や、すまない。対処を検討している。また連絡するが、くれぐれも気をつけて』
裕子に心配そうな視線を向けられ、貴之はうつむいた。
人質にされた父親と宮武は、どのような扱いを受けているのか。
「今から学校へ向かっても……オレたちがなにかできるとは思えないよ。それよりはまずは距離をとって、バケヘビを抑えよう。シャワーを使っても外からわからないような留守の家も探して……」
裕子は苦い顔でうなずく。
念のために細い路地づたいで歩いていると、キコキコと油のきれかかった自転車をこぐ老婆が通りかかった。
「あ。あー、あー、アンタたち!?」
裕子たちに気がつくと、頓狂な声で呼び止める。
「早く隠れな! おじょうちゃん!」
「え。あの……なにか?」
「みんな、騒いでるのよう! バケモノにとりつかれているのは高校生だって。森の奥にある学校から、そこの生徒がバケモノを連れてきたんだって!」
貴之は身震いした。
「高校生くらいの年頃に見える子はみんな、連れていかれちゃうの。アンタみたいにきれいな子、なにをされるかわからないよう?」
自分たちが、避難住民全体の『敵』になりはじめていた。
「ほぉんと、どっちがとりつかれているんだか……」
老婆は親身に心配してくれている様子だったが、妙にとぼけた口調で、裕子はつい少しほほえんでしまう。
「でもみんな、誰が感染しているのかわからなくて、怖がっているだけかもしれませんから……」
裕子がなだめても老婆はそっぽを向き、唇をとがらせる。
「バケモノにとりつかれていようが、まだ子供じゃないの。かわいそうでしょっ」
裕子は不意をつかれて『まずい』と感じた。
こんな状況で、これほど当然のように味方をしてくれる人に会えるとは想像もしていなかった。
老婆はなおも続ける。
「せっかく平和ボケの国に住んでるのに、こんな時だけ、やれ戦えだの、やれ殺せだの、騒ぎたがる人なんて大っ嫌い!」
裕子は苦笑しながら、目頭の熱さをこらえた。
(わたしはまだ『バケモノ』のままでいないと)
ひそかに涙をぬぐった時、屋根づたいに近づいてくるジンヤが見えてしまう。
曲がり角をはさみ、老婆とは互いに見えない位置だが、もう何歩もない。
「待って、止まって!」
裕子の声は少し遅かった。
黒い巨体は止まったが、ドラム缶ほどの片足が塀からはみだし、塀の上には熊より巨大な上半身がとびでていた。
「わっ!? ……わあっ!?」
老婆は自転車から転げ落ちる。
「ご、ごめんなさい! だいじょうぶですから!」
裕子がそう言っても、老婆は驚愕して巨大な怪物を見上げるばかりだった。
貴之と久津井が老婆に駆けよって助け起こす。
裕子は巨大怪物をしゃがませ、口しかない頭へ両手をさしのべた。
「なにもしません……」
じっと下げている巨大な頭を抱きしめる。
「バケモノにとりつかれているだけで、まだ子供なんです」
裕子は額をつけ、一筋の涙を落とす。
「……とても優しい男の子」
老婆はぼうぜんと、怪物にすがる少女をながめた。
ゆっくり、ふらふらと立ち上がる。
裕子は涙をぬぐった。
「行こう。早く離れないと……」
もうしわけなさそうに頭を下げる。
「わたしたちのことは誰にも言わないほうがいいです。巻きこまれますから」
「な、なんだかわかんねえけど……」
老婆はぼうぜんとしながらも何度かうなずき、また同情を寄せる顔にもどった。
そして自転車を起こしながら、なにげなくつぶやく。
「おれは、ジンヤが心配なだけだあ」
「え……?」
裕子は耳を疑い、息が詰まりそうになる。
「八島さん、ですか?」
震える足どりで、老婆へ近づく。
自転車へ貼られたシールには『八島人也』と書かれていた。
「ジンヤを知ってるのお? 娘の嫁ぎ先が八島で、ジンヤはわしの孫だぁ! 父親は、あの学校を建てる前の工事で死んで、娘は産んだ時に……わしとジイさんで育てた、大事な子だあ。なにか、知ってるなら……?」
老婆はまくしたてていた途中で、呆気にとられて言葉を飲みこむ。
ぐしゃぐしゃの泣き顔が目の前にあった。
「おじょうちゃん……なにか、知ってるのお? ジンヤ、生きてんだろ?」
老婆はおそるおそる尋ねる。
顔をぬぐっていた裕子の手が止まった。
残酷な事実に怯えていた。
裕子は決して、背後の巨大怪物へふりむこうとしない。
「ジンヤ……くんは、生きています」
おどおどした声を絞り出す。
「必ず、助けます。わたしにも……大事な人です」
それだけは目を合わせ、老婆の手を握って言いきった。
老婆はふたたび、呆気にとられる。
「まあ……こんなきれいなおじょうちゃんが……あいつ、背は小せえし鼻ぺちゃなのに……」
裕子は泣きはらした目でほほえみ、頭を下げた。
「お気をつけて。早く検問所へ。必ず連絡します」
老婆は自転車を止めたまま、追い払う仕草をくり返す。
「おじょうちゃんたちこそ、早く早くう」
裕子は何度もふりかえった。
路地をいくつか曲がると、あたりから話し声がちらほらと聞こえはじめる。
貴之は声や足音を避けて先導していたが、次々と回りこまれていた。
結局は大きく遠回りしただけで、元の水路の近くまで追いやられてしまう。
裕子は嬉しそうに、巨大怪物の腕へ手をそえて歩いていた。
「ジンヤ……必ず、帰ろうね?」
水路ぞいの道へ出ると、予想外の人数がひしめき、待ち受けていた。
背後を見ると、遠巻きに密集した人影がバットや鉄パイプを手に路地をふさいでいる。
裕子に続いてジンヤの巨体が路地から姿を現すと、どよめきが広がった。
騒然とした中でも、なぜか裕子のつぶやきは貴之の耳へよく届く。
「帰るために……なにをしても、生きのびるの」




