1.愛さない契約
冬の冷たい風が、馬車の窓を小さく揺らしていた。
アネットは膝の上で手を重ね、静かに外を見つめる。
今日、彼女は嫁ぐ。
相手はウェルズリー伯爵家当主、イーサン・ウェルズリー。
若くして爵位を継ぎ、領地経営の才覚を発揮した有能な伯爵。
だが社交界では、“氷の伯爵”と呼ばれている男だ。
冷酷、無愛想、滅多に笑わない、女性にも興味がない。
そんな嫌な噂ばかり聞こえてくる。
「きっと・・・・大丈夫よ。」
そう言いながら、自分の胸に問いかける。
不安がないわけではない。
けれど、怖くはなかった。
本当に恐ろしい結婚とは、“愛されないこと”ではない。
“愛されようとし続けること”だ。
アネットはそれを知っていた。
なぜなら自分の母の姿を目に焼き付けて育ったから。
『お父様はこういう女性がお好きなの』
そう言って母は、好きでもない服を着て、好きでもない化粧をして、父に笑いかけていた。
だが父は愛人を作り、母を見なくなった。
それでも母は努力をやめなかった。
もっと尽くせば、もっと愛せば、いつか振り向いてもらえるかもしれない。
そう願い続けて、最後には心を壊した。
だからアネットは決めていた。
誰かの愛を乞うような人生だけは送らない、と。
やがて馬車が止まる。
外へ降りると、巨大な伯爵邸が目に入った。
灰色の石造りの屋敷。
美しいが、どこか冷たい。まるで噂の主人そのもののようだった。
使用人達が一斉に頭を下げる。
「アネット様、お待ちしておりました。」
先頭に立つ青年が完璧な礼をした。
茶髪に眼鏡で感情を感じさせない整った顔。
「執事のロビンです。本日より奥様付きとしてお仕えいたします。」
「よろしくお願いします。」
「・・・はい。」
短い返答。
歓迎されている雰囲気ではない。
だがアネットは気にしなかった。
突然来た政略結婚の花嫁など、面倒でしかないだろう。
「旦那様がお待ちです。」
ロビンに案内され、アネットは屋敷の奥へ進む。
廊下は静かだった。
綺麗に整えられているのに人の温度がなく、息苦しいほど静寂に満ちていた。
通された部屋の窓辺に、一人の青年が立っていた。
黒髪で鋭いグレーの瞳。
息を呑むほど整った顔立ち。
だが、その眼差しは氷のように冷たい。
青年はゆっくりアネットを見た。
「・・・お前がアネットか。」
低い声。
短い言葉。
「はい。アネット・ローゼンバーグです。本日からよろしくお願いいたします。」
イーサンは返事をしない。
ただ値踏みするようにアネットを見る。
やがて口を開いた。
「座れ。」
「失礼します。」
アネットがソファへ腰を下ろすと、イーサンも向かいへ座った。
沈黙。
重たいほど静かな空気。
そしてーー。
「俺は、お前を愛するつもりはない。」
あまりにも唐突だった。
だがアネットは目を瞬かせるだけだった。
「そうですか。」
イーサンの眉がわずかに動く。
「泣かないんだな。」
「安心しましたので。」
「安心?」
「無理に愛されようと努力しなくて済みますから。」
沈黙が落ちた。
イーサンはじっとアネットを見る。
まるで理解できないものを見るような目だった。
「変な女だ。」
「よく言われます。」
イーサンは小さく鼻を鳴らした。
机の上から書類を取り、アネットへ差し出す。
「三年間。」
短く言う。
「形式上の夫婦として過ごす。外では仲の良い夫婦を演じる。寝室は別。互いに干渉しない。」
契約書だった。
「三年後、離婚。」
簡潔だった、必要最低限しか喋らない。だが逆にその言葉は分かりやすかった。
愛のない結婚、期限付きの夫婦。
普通なら不幸な話だろう。
けれどアネットは違った。
期待しなくていい、無理に愛さなくていい。
それはアネットにとって救いだった。
「異論は?」
「ありません。」
アネットは迷わず署名した。
それを見たイーサンがわずかに目を細める。
「即決か。」
「分かりやすい契約は嫌いではありません。」
「そうか。」
イーサンも署名を書く。
契約成立だった。
すると彼はロビンへ視線を向けた。
「使用人達へ説明は。」
「済んでおります。」
ロビンが一礼する。
「旦那様と奥様が契約結婚であること、寝室を別にすることは使用人全員に共有済みです。」
「口外は禁止だ。」
「承知しております。」
「漏らしたら解雇だ。」
低い声だった。
静かなのに、有無を言わせない圧がある。
ロビンは淡々と頷いた。
「徹底いたします。」
アネットは少し驚く。
使用人には隠しているものだと思っていたからだ。
「意外です。」
イーサンが驚くアネットに視線を向ける。
「何がだ。」
「契約を秘密にしないのですね。」
「隠しても無駄だ。」
短い返答。
「屋敷の空気で分かる。下手に隠してバレたらそれこそ面倒だ。」
合理的な人なのだろう。
余計な誤魔化しを嫌う。
「お前の部屋は東棟だ。」
イーサンが立ち上がる。
「俺は西棟を使う。」
「分かりました。」
「外では伯爵夫人らしく振る舞え。」
「ええ。契約ですもの。」
その返答に、イーサンはほんの少しだけ目を細めた。
「・・・本当に変わってるな。」
その後はロビンに案内され、アネットは部屋へ向かう。
歩きながら、ロビンが静かに口を開いた。
「旦那様は昔からああいう方です。」
「クールな方ですね。」
「必要なことしか話しませんので。」
だがその声には、主人を庇うような響きがあった。
「ロビン様は伯爵様を大切に思っているのですね。」
「当然です。それにロビンで結構です。」
ロビンは迷いなく答える。
「私は旦那様の乳兄弟ですから」
幼い頃から共に育ったのだという。
だから忠実なのかとアネットは納得した。
部屋へ着くと、ロビンが扉を開ける。
「必要な物があればお呼びください。奥様。」
「ありがとうございます。」
ロビンが去ろうとした時、アネットはふと思って声をかけた。
「これからよろしくお願いしますね、ロビン。」
ロビンは一瞬だけ目を見開く。
そして少し視線を逸らした。
「・・・こちらこそ。」
扉が閉まる。
一人になったアネットは窓辺へ歩いた。
冬の庭は静かだった。
愛のない結婚、期限付きの夫婦。
それなのに不思議と心は穏やかだった。
「悪くないかもしれないわね。」
ぽつりと呟く。
少なくとも、自分を偽らなくて済む。
その夜。
西棟の執務室。
イーサンは書類へ視線を落としたまま、ロビンへ言った。
「妙な女だった。」
「奥様ですか?」
「ああ。」
短く返す。
「泣かなかった。」
「旦那様の言葉に慣れている女性は少ないでしょうから。」
「普通は泣く。」
ロビンは少しだけ考えた後、静かに言った。
「旦那様と似ているのかもしれません。」
ペンが止まる。
「どこがだ。」
「愛に期待していないところがですかね?」
沈黙。
やがてイーサンは低く吐き捨てた。
「くだらん。」
だが彼はまだ知らない。
この“愛さない契約”が。
いつか、自分自身を最も苦しめることになると。




