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黒と白。

瞼をとおして光が透けている。重い瞼をこじ開けると薄明かりがひどく眩しく感じて、櫻子は眉をしかめた。目を隠そうにも腕がしびれて、重い。


…自分は死んだのではなかったか。しかしこの状況から、どうやら自分が生きていると知る。つらつらと記憶をたどり、櫻子はまた眉を寄せた。あの完璧主義者の灰原が毒の量を誤るなど考えづらい。灰原の予想を裏切るほど、自分は頑強な身体の持ち主だったということか。


―――べつに生きていても、と乾いた唇で声なくつぶやいた時、視界に影が差した。


―――「黒河!」


目の前に、涙をためた男の顔。鈍麻した頭では驚きは無く、しばし呆然とした後、櫻子はうめいた。


「…白峰?」


軍学校時代の同期は、記憶にあるより太くなった頸をぐ、と上下させそのまま突っ伏した。そのまま声を殺して泣きはじめる。視線で追って、櫻子は自分が簡素な白い寝台に横になっていることを知った。ざっと見渡した限り、8畳ほどの室内には寝台のほかには古い照明と、やはり簡素なテーブルだけ。窓はない。


―――…地下、か。


正隆はクーデターを謳う将校の中心人物だった。そんな男が地上でふらふらとしているなど考えづらい。


正隆は生きている。櫻子も生きている。だが灰原はきっと…


胸に渦巻くのがどんな感情なのかわからないまま、櫻子は口を開いた。発した声は、自分でも驚くほどに凪いでいて、冷たく響いた。


「…灰原閣下は?」


伏せたままの正隆の背中がびくりと震える。嗚咽は止まり、沈黙が落ちる。


…酷な質問だった。櫻子はそっと溜め息を押し殺す。


正隆は今でこそ暗殺などという汚れ仕事をしているが、正義感の強い、情の濃い男だ。この様子では櫻子にまだ友情を抱いている。必要だったとはいえ、その「夫」を手にかけるなど、どれだけ苦悩したか。


そこで櫻子は自身がすでに灰原の死を確信している事に気づき、苦く嗤う。灰原が病を得て治癒の見込みがないと薬も断ってから、彼の死を覚悟していたとはいえ、―――…白峰よりずっとわたしのほうが冷淡だ。


櫻子は反応の鈍い手で正隆の背中を叩いた。ぶるぶるとおおきな背中が震え、また嗚咽がもれはじめる。


…こんなことでやっていけるのか。櫻子はうんざりする。


「…あんた、気持ちは理解するけど、本気でクーデターなんて成功すると思ってんの?たしかに庶民は汚職まみれの政治に怒ってるし、特にあんたには同情的だけどさ。お兄さん、あんたとおなじ軍人なんでしょ」


「…クーデターは失敗するよ、わかってる」


櫻子がしずかな驚きをあらわにする前で、ずびずびと洟をすすりながら正隆が顔を上げる。汚い。


「おまえにはもう話すけどさ」


「ちょっと待って、国家機密おおごとの気配がするわ」


「聞けよ。俺はもう、おまえを巻き込む気まんまんだ」


「え、えぇ―――…!」


どうしてそうなる。正隆はまっすぐな気性の持ち主で、そこが美点でもあるが人の話を聞かないで突っ走る。学生時代、正隆の暴走に櫻子はたびたび付き合わされたものだが、10年も経ってそれを引っ張ってこられても困る。


「黒河も気づいてるだろうけど、暗殺の標的は、賄賂やら癒着やら、…ざっくり言えば汚職にまみれた政治家や軍人を狙ってる。特に、力を持ちすぎて歯止めがきかなくなった奴らばっかりだ。この標的は、俺の兄上も含めた政治家と軍人で決めた。…俺たちのうしろには政財界、法曹、軍部がついてる。もちろん、国の現状に危機感をおぼえた方々、…そのなかでも信頼に足るとされた、選り抜きの人物ばかりだ」


「…権力側の協力者がいるとは思ってたけどね。でなきゃ、こうも順調に暗殺が進むとは思えない」


櫻子は呻いた。


すでに涙の引っ込んだ顔で正隆がうなずく。


「鯛は頭から腐る。これまで権勢をふるってた連中が死ねば、虎の威を借りてた小悪党どもも大人しくなるだろ。…ここで俺の役目はいったん終わる」


剣呑な表情を浮かべる櫻子に、正隆は眉を下げた。


「…おい」


「俺は捕らえられ、軍法会議にかけられる事になってる。処刑は確実だろうけど、俺についてきた連中は恩赦がかけられるから、死罪は免れる。続きがあるから、きちんと聞いてくれ」


身体を起こしかけた櫻子だが、片手であっさりと制されてしまう。まだ薬が残っている。自由にならない身体が恨めしい。


「俺は死んだ事にされて、地下に潜る。…そこから、国の為に働く」


「…つまり?」


「おまえが言ったんだろ、世間は俺に…、俺たち白峰中将の息子(・・・・・・・)に同情的だ。亡き父の志を継ごうとしたあまりに凶行に走った弟と、断腸の思いで断罪しなきゃならなかった兄。こういうの大好きだろ。兄上に責を負わせる流れは出てこない。出てきても、民衆の声でかき消される」


否定はしない。民衆の声というのは馬鹿にならない。冷静な分析は熱狂にかき消される。櫻子は思う。だが今は彼らの計画通りになっても、これからはわからない。権力はひとを狂わせる。お互いが裏切らぬよう監視しあい、疑心暗鬼の闇に呑まれていく。


櫻子が言うと、正隆はうなずいた。国を憂う、誠実な軍人の顔で。


「わかってるよ。兄上も俺も、…協力してくださった方々も、努力する。これ以上この国を、国民を、喰いものにはさせない。亡国なんかにさせてたまるか」


きしり、と櫻子の胸がきしむ。灰原も、その思いを胸に生きてきたのに。


唇を噛む櫻子をちらりと見て、正隆はまたうなだれた。


「…灰原卿は理想の政治家だった。あれほど有能で、清廉なひとはいなかった。だがあの方は、…」


「わかってるよ、言わなくても」


灰原は旧時代の象徴だ。あたらしい時代を迎える為、彼自身も「殺されねばならない」と言っていた。


櫻子はおおきく息をついた。聡い灰原のこと、きっとなにもかも知っていたのだ。だから櫻子を生かした。正隆との関係を理解したうえで、彼の役に立つように。ようやく納得のいく答えを見つけ、櫻子は嗤う。どこまでも灰原らしい。


「生きて、今度は国の為に働けとおっしゃってくれたらよかったのに…」


―――「それはちがう!!」


うつむいていた正隆が立ち上がりざま声をあげた。櫻子は目を瞠る。


「灰原卿は黒河に生きてほしかった!死んでなんかほしくなかったんだよ!」


櫻子の顔に、止まったと思っていた正隆の涙がぼたぼたと降ってくる。顔をくしゃくしゃにする泣き顔は10年前とおなじ。「白峰」と櫻子は呼んだ。つづく言葉など無いのに。


しつこく落ちてくる涙に、櫻子は目を細める。しびれの残った指で正隆の頬をぬぐうと、彼はますます顔をゆがめた。


「…ただ、手放せなかったんだ…!」


櫻子は苦笑した。正隆はやさしい。櫻子をなぐさめるために、理由をさがしてくれる。


…ほんとうにそうならよかったのに。純粋に櫻子に死んでほしくないと思った。櫻子が友人である正隆と刃を交えぬようにと薬を飲ませたのだとしたら。


駒としてではなく、櫻子自身を手放したくなかったのだとしたら、…こんなに幸せな事はない。櫻子はじんわりとにじんだ涙をまばたきをして乾かした。灰原は、櫻子の泣き顔を特に嫌っていたのだ。


呼吸をととのえ「ごめんね、気を遣わせて」の代わりに「ありがとう」と告げる。櫻子が正隆の頭をくしゃくしゃにかきまぜると、彼は顔をあげた。ものすごくばつの悪そうに目を伏せる。濃い睫毛のうえに、涙の粒が乗っていた。


「…悪い。いちばんつらいのはおまえなのに」


「いいよ。ところでさ、あんた、そんなに泣いたらこの着物濡れちゃうよ。いいものなんでしょうが」


くすんだ白ばかりの室内で、櫻子のうえにかかっているのは満開の桜を描いた留め袖だ。派手ではないが、細部まで丁寧に描きこまれていて、まるでほんとうに桜が咲いているように見えた。高名な作家が精魂込めただろう逸品だ。


正隆が目をまたたかせた。


「黒河のものじゃないのか?」


今度は櫻子が胡乱な顔をする番だった。


「は?いやいや、わたし灰原閣下のところに行ってから、着物なんて着た事ないよ。動きづらいし。こんないいものなら、汚したら大変だもの」


櫻子は身体を起こした。汚れてしわになるまえに、と留め袖を正隆に差し出す。


「俺のじゃない」


「じゃあ誰のよ。あれか、好きな相手に贈ろうとしてだめだったか。だからってわたしに押し付けられても、しなが良すぎて重たいわ」


「…好きな相手」


「あんたのお母さまの趣味でもないでしょう。あの方はもっと渋好みでらしたから」


正隆はいちど留め袖を受け取ったが、すぐにふるふると頭を振り、櫻子に突っ返してきた。


「黒河が持っていたほうがいい。黒河が大事にして、…着たほうがいい」


「いや、似合わないって」


櫻子は長身で、細身の筋肉質だ。桜の着物にふさわしいたおやかさが見つからない。最初は「こんな陰鬱なかたちと色なんて」とひそかに肩を落としていたものだが、なんだかんだと灰原の準備した黒い洋装がいちばんしっくりくる。


だが正隆はしつこかった。


「だめだ、おまえが持っていろ。桜模様だし、おまえの名前も櫻子だし、おまえが持っているものなんだ」


こじつけだ、と思ったが、そこまで言われて断り続けるのも作者に悪い。しぶしぶ受け取ると、正隆は全身で安堵していた。


「まだやる事があるから」と洟をずびずびすすりながら正隆が退室して、ひとりになった櫻子は寝台に倒れた。


一晩で、自分を取り巻くすべてが変わってしまった。そういえば灰原に求婚―――という表現はただしいのか―――された時も、世界はぐるりと変化した。


明日も、明後日も、その次の日も、この国は変革のなかにいて、変わりつづける。ただそこに灰原はいない。


ひとつしかない出入り口の扉に背を向けて、櫻子は正隆の言葉を反芻する。


―――灰原卿は黒河に生きてほしかった!死んでなんかほしくなかったんだよ!


―――…ただ、手放せなかったんだ…!


櫻子はちいさく笑った。そんな都合のいい話があるものか。初恋は実らない。灰原が大切なのは、この国だけ。彼にとって、櫻子は手駒のひとつ。


でも、と櫻子は目を閉じる。瞼裏に浮かぶのは15の時。留め袖に描かれたような満開の桜の木のしたで、灰原とはじめて出会った頃のこと。


でも、もしも灰原が正隆の言うとおり櫻子を想っていてくれたら、と想像する。


ありはしない、わかっている。でも思うのは自由だ。それくらい許してほしい。


それから、いちばん大切なひとを喪った今夜くらい、泣く事も。


夜が明けたら、また戦える。灰原が尽くしてきたこの国の為に、彼の人生を無駄にしないために、頑張れる。


だから、今夜だけは。


両手で口を塞ぎ、声を殺して櫻子は泣く。


泉下をひとり往く、灰原に聞こえないように。





































読んでいただき、ありがとうございました。

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