第1話 怖くはありません
1
「はあっ、はあっ」
あの森には魔女がいる。
そんなありふれた噂話が、この町にもある。
はじめはきっと、子どもたちに「森は危険だから入るな」と警告するための脅し文句だったのだろう。それは功を奏し、住民の半分は魔女狩りを生き残った者がいると今でも信じている。
けれど実際に逃げ回る立場から言わせてもらえば、森に潜むものについてもっと具体的に語り継いでいてほしかった。
「誰っ……か……」
乾ききって舌の根が張り付く喉から、形にならない声が漏れる。応える『誰か』はいない。
魔女がいるかはわからないけれど、ひとつだけ確かなことがあった。
少なくとも、この森には狼がいる。
後方から聞こえていた荒い息遣いがすぐそばまで迫り、私は背中への衝撃とともに地面へ叩きつけられた。
殺される。食べられる。抵抗しないと。
小石で切ったらしい頬の痛みを無視して寝返りを打つと、目前には白い涎がしたたる鋭い牙と、琥珀色の瞳。
とっさに首元の毛皮を掴んで押しやろうとしたけれど、びくともしない。力の差は明らかだった。
狼の眼には、何の感情も浮かんでいない。縄張りを侵した者への怒りも、食事にありついた喜びも。
彼──あるいは彼女にとっては、当然のように過ぎてゆく日常なのだ。獲物のか細い抵抗を押しのけて、骨も残さず喰らいつくすことが。そんな確信じみた想像が全身に絶望を染み渡らせる。
これは、もうダメだ。
そう悟った瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。
怪我と無縁に生きてきた私であっても、致命的とわかる激痛。
首筋から頭と肩に広がる柔らかな熱と対照的に、手足は端から硬く冷たく凍ってゆく。
狼は毛皮を握ったまま硬直した私の手を振り払うと、身体の上からゆっくりと退いた。
もう逃げることはないと判断したのだろうか。食料を分け与えるために、群れの仲間を呼んでくるのだろうか。
それもいいか。
死の苦痛は思っていたほどではなかったし、私がこれからの人生で強いられるはずだったことよりも、数日間狼たちの空腹を満たすことの方がいくらか有意義かもしれない。
そうして私は、存外あっさりと生を手放した。
狭まってゆく視界に映ったのは空を覆う濃い霧と、それから何故か──
私を冷たく見下ろす女の姿だった。
2
ひどく寒い。
目を覚ますくらい寒かった。
目を覚ますということは、生きている?
ぼんやりとまぶたを開くと、目に入ったのは太い木の梁が渡された天井。
見覚えのない天井だ。
狼に噛まれたはずの首筋に手を遣ると、そこにはいつも通りの滑らかな肌の感触だけがあった。想像していた痛みや包帯のざらつきはない。ついでに小石で切った頬にも傷はない。
狩人かなにかに助けられたのだとしても、何かしらの手当ては受けたはず。それなのに、噛まれた傷さえも残っていない。
ただ、襟元の夥しい血痕とそこから漂う鉄臭さだけが、あれが夢ではないことを物語っていた。
「どういうこと……」
呟いた私の声を聞きつけたように、足音がこちらに近づいてくる。咄嗟に身を起こした私の身体から、白いシーツが滑り落ちる。
木造りの小屋の奥からこちらに向かってくる足音の主は、あの瞬間──意識を失う瞬間に見た女だった。
「まだ立つな」
ベッドのそばに立った女は、私を見下ろしてぶっきらぼうな声で言う。窓から差し込む日光に照らされて、私は初めてその姿を観察できた。
肩まで届いて余りある真っ直ぐな黒髪に、青い瞳を抱いた切れ長の眼。
座っているから正確にはわからないけれど、おそらく私より頭ひとつ分近く上背がある。
紫黒色のローブを身にまとい、紐が付いた革張りの本を鞄のように肩に掛け、そして何より浅くかぶったとんがり帽子。
あまりにも、私が抱く"魔女"像そのままの出で立ちだった。唯一の違いは、鉤鼻の老婆ではなく美女と言っていい容貌であること。
まだ霞がかかったような頭で必死に考える。
この森には、本当に魔女がいたの?
だとしたら、どうして私を助けたの?
魔法の儀式の生け贄にでもする気?
何より、私はどんな演技をすべき?
瞬時に様々な可能性を秤にかけて、私は当座をしのぐ仮面を作り上げた。
「狩人の方でしょうか。助けていただいてありがとうございます。私はエステル・ド・ウェルディエと申します」
"弱々しい、けれど安堵のこもった笑顔"を作って私は言う。相手が魔女だとは露ほども思っていない、という態度の方が良いだろうと考えた。
あんな帽子をかぶった、しかも女の狩人なんていそうもないけれど。
家名を名乗ったのも、領主家の者を殺せば面倒なことになると思われたかったから。
けれど──
「傷は魔術で治したが、血が足りないのはどうにもならない」
「まじゅ……」
「飲め。血を作る助けになる、らしい」
絶句しつつ、差し出された銀の杯を受け取る。杯は温かく、酸味のある香りが漂っていた。
今、普通に魔術とか言ったけれど……隠すつもりないの?
隠す必要がないのだろうか?
……外へ出さずに、ここで殺すから?
しばらく忘れていた寒気が、また身体の芯を襲ってきた。
「あの……どうして、私を助けてくださったのですか?」
「別に。人間が森に落ちてるのが珍しかっただけだ」
魔女は、それこそ珍しい動物でも見るかのように私の顔を覗き込んで言う。彼女の目には何の感情も浮かんでおらず、純真にすら見えた。
あの狼のように。
私は身震いを抑えて考える。
落ちてるのが珍しかったから。
それが嘘で、本当は何か……魔女らしい下心があって私を助けたのなら、正体も偽ったほうがいい。だけど彼女は、自分が魔女だと隠す素振りすら見せない。
だとしたら、何も嘘をついていない……私に危害を加える気はないのだろうか。
わからない。彼女は私が今まで接してきた中にはいない人種だった。
何を求め、何を嫌い、誰を恐れるのかもわからない。
どう演技すればいいのかわからない。仮面が固まらないままに接さなければならない。
それは私にとって、経験したことのない恐怖だった。まして相手は──
「……貴方は、魔女なの?」
「わたしたちはその呼び方は……好まない。わたしは魔術師だ」
魔女……魔術師はベッドサイドの椅子に腰掛けて答える。好ましくない呼び方をされても、彼女の表情は動かない。
「魔女。そう呼ぶ者は、わたしたちを恐れていると聞いた。お前もそうなのか?」
彼女は前かがみになってこちらに手を伸ばす。顔はまだこちらを向いていて、上目遣いになった瞳が陽光を受けて妖しく光る。
私は身を固くしたけれど、細く白い指は私の髪をすくい取っただけだった。
「いいえ」
口先だけで嘘をつく。彼女を恐れる者が呼ぶ名が"魔女"なら、私にとっても、やはり彼女は魔女だ。
震える声を抑えるのに必死だったけれど、それが正しいのかもわからない。彼女は私に怯えてほしいのか、その逆なのか。
わからないから、私は一番得意なことをすると決めた。それは、ただ従順に振る舞うこと。
「そうか」
そこで彼女は初めて微笑んだ。
私の答えを信じてただ喜んだのか、あるいは虚勢を張っている姿を可笑しいと思ったのか。
唯一明らかなのは、その表情は私のものとは違うということ。演技ではない、心の底から表れたものだ。
満足げな笑みを浮かべたまま、彼女は手に取った髪をさらさらと弄ぶ。
「金色。こんな髪の人間がいるんだな」
「っ……金髪が、珍しいですか」
「ああ。この辺りにわたし以外の人間はいない……今はな」
すこし笑みを弱めて彼女は言う。
指が髪を離れ、細く滑らかな感触が頬、首筋、肩へと移ってゆく。
いつ爪を立てられるか、あるいは魔法で切り裂かれるかわからない恐怖で肌が粟立つように感じたけれど、その裏に奇妙な心地良さもある。
そうさせる魔法があるのだろうか。
「髪も瞳も、服も体も……気に入った」
いつの間にか耳のそばまで来ていた唇から囁かれるそれは、顔つきと体躯に似合わず少女のような声音だった。
甘い響きが耳にまとわりついて、私はまた震える。
気に入ったら、どうするのだろう。
不安と、なにかそれ以外の感情で動けずにいると、予想に反して彼女は席を立った。
「また来い。待っている」
「……」
帰っていいのか、という質問をすんでのところで呑み込む。そう……帰らなきゃ。下手なことを言って気が変わられても困る。
魔女が部屋から出ていくと、自分がまだ杯を手に持っていることを思い出した。
すこし冷めたそれをひと口含むと、木苺のような甘酸っぱさと微かな渋味が広がる。
たぶん、毒ではない。
3
魔女の家を出ると、太陽は橙色に顔色を変えていた。眩しさに目を細めながら辺りを見回すと、家の背後に山がそびえている。かつて銀山として富を産み、今は枯れたウェルディエの心臓。
魔女が町まで送ってくれるというので、素直に礼を言って頼んだ。できれば遠慮したいけれど、どう考えても一人で帰れる気はしなかった。
ただ、森を歩いているうちにいくつか目印になりそうなものを見つけて、頭の中に魔女の家までの地図ができてきた。これで……その気になればまた彼女に会うことができる。
また狼に襲われなければ、の話だけれど。
「安心しろ、もう狼に襲われることはない。次に来るときもな」
「そう、ですか」
私の考えを見透かしたように、先を行く魔女が言う。本当だとすれば、それも魔法の業だろうか。
普通に考えれば魔女にあんなことを言われた者がまた森に入るはずはないし、私もそのつもりだ。
ただ、胸の奥になにか引っかかるものがある。彼女と会うことは二度とない、と言いきれないなにかが。
「あれが……町か」
しばらく歩くと、薄闇の中に建物の輪郭が見えてきた。この口ぶりからすると、彼女は町に来たことがないのだろうか。
「わたしは森から出ることができない。あとは一人で帰れるな」
「はい。ありがとうございました」
お辞儀をして頭を上げると、魔女はもう歩み去ろうとしていた。
森から出られない。その言葉が多少気にかかりはしたけれど、きっともう会うことのない相手だ。知る意味はない。
なのに……いつかその理由を聞くことになる気がする。
得体の知れない引力を感じて背中を見ていると、魔女は思い出したように振り向いて付け加えた。
「わたしはイネス。次からはそう呼べ」
ああ、そうか。
彼女の口ぶりには、世辞も遠慮もない。ただそうしてほしいから、そうしろと言っただけ。
触れたいものに触れ、求めることを声に出して求める。自分の望みを包み隠さない。
それはたぶん、私が彼女よりもずっと弱いからだ。それでも、その在り方に私は恐怖以外のものを抱いているようだ。
それはもしかしたら羨望か──あるいは、憧れかもしれない。




