第十五話 真夏の夜の夢
「そう……あの人、死んじゃったのね……色々と確かめたかったことがあったのに残念ね……」
ギョームと名乗った男が骨と黒いフードの衣類だけを残して文字通り霧散してしまったため、生け捕りにすることは出来なかったこと、さらにその原因が『禁呪』によるものだったこと、をネルから聞かされたリエナは僅かに顔を曇らせる。
ヴァーリーリエ城の中庭にはヴェンツェルの指示で陣幕が設けられ、煌々と篝火が夏の夜空を照らしている。陣幕の中には、リューネが用意した水色のドレスとヒールに衣装を改めたリエナ以外に、副城主のカール・ヴェンツェル、侍女長のリューネがヴァーリーリエ城主の左右を固めるように座り、宮廷主席魔導師のネル、ヴィッテルスバッハ家の三男坊ヨハン・グラハムがヴェンツェルから少し離れて座る。この両名は厳密にはリエナ・アントーニア・マグナブルクの家中ではないからだ。
そして、今般の騒動を引き起こしたシエル・ヴェンデンが、やはり同じように木製の床几を与えられて一座と向かい合うように座っていた。
かがり火から発せられる光の揺らめきに照らし出されるシエルの白い横顔はすっかり憔悴し切っており、陣幕の中に引き入れられてからというものうな垂れたまま一向に顔をあげようともしなかった。そんなシエルを慮ってか、リューネの隣に特別に席を与えらたアルトワルト公女アリナだったが、シエルが陣幕を潜ってからというもの、その隣に立って小さな肩を抱きしめていた。
リエナはその様子を見て小さく吐息する。何に対するため息なのか。全くあられもない姿で登場した自分の主を見たリューネからお仕置きを宣告されていたこともその一つだろうが、その憂鬱ですら忘却の彼方へと押し流してしまうほど今のヴェンデン伯の姫の姿は不憫でならなかった。
リエナは自身が昏睡に陥る以前に、最も信頼を置いているリューネですら他の城内の大人たちと一様に口を紡ぐ現在の大公国を取り巻く情勢に対して疑問を持っていたため、わざわざ私費を投じて旅の行商や吟遊詩人などを集めて独自に探りを入れていた。
これまでに掴んでいた情報は断片的でおぼろげなものでしかなかったが、とりわけ『不屈のヴェンデン』に関する情報だけは豊富だった。僅か三ヶ月の間に戯曲の題材になるほどだ。主役を張るベンテン伯国のルシエ姫の特徴と余りにも酷似する新顔の侍女がおどおどとした態度で自分の前に現れるたびにリエナの胃はなぜかキリキリと痛んだ。もっとも、その疑問はさっき馬上でグラハムから聞かされた時にあっさりと全てが氷解したのだが。
何とか力になれないものか、リエナ自身がそう考えていただけに今、目の前で自分をしきりに責めて小さく嗚咽する本人を見て、一層居た堪れない気持ちにさせるのだった。そのリエナの感慨と一座の思いはほぼ一致しているのだろう。
次善策を協議する場であるにも関わらず、さっきから誰も声をあげようとしない。これほど濃い、もとい、個性的な面子が集まっているのに珍しい現象だった。
その刹那、リエナの長い内省はネルの声に遮られた。
「まあ、さっきのリエナの話ではないが最善は尽くしたつもりだが、なにせいきなりのことだったのでどうにもならなかった。死んでしまったものは仕方がないが、あの三等導師がフレイアの関係者という線はほとんどないだろう」
「お、おい、ネル……そ、その根拠はなんだ……」
ネルの隣から弱々しい男の声が上がる。『転移酔い』と孤独な戦いを繰り広げているヨハン・グラハムだった。血色は悪く、おまけに目が血走っている。膝の上の木桶がなんとも間抜けだった。
「いたってシンプルな理由だ。神教の聖職者と同じローブを装っていながらわざわざ忌色である黒を纏っていた。敬虔な神教国家であるフレイア王家がそんな胡散臭い輩と積極的に関わるとは考えにくい。やはり『悪竜』崇拝者と見るべきだ」
「やっぱりそう考えるのが順当よね」
ネルの言葉を汲むようにリエナが頷く。
「その通りだ。加えてヤツは『禁呪』まで受けていた。もうそれだけで十分な理由だ……」
私の中ではな……
淡々とした口調で侵入者の顛末を語るネルは相変わらず無表情だったが、唯一の例外は禁呪に言及した時だ。目を鋭くしては露骨に不機嫌そうな顔付をする。感情の抑揚があまり表に現れないネルにしては珍しいことだった。
「禁呪……なにやら穏やかな言葉ではありませんわね?ネル様」
リエナのすぐ左隣(席次三位)の座を占めるリューネは遠慮がちに言う。ネルはリューネの言葉に小さく頷き、ため息を一つ吐いた。
「禁呪グランディエの印は相手を必ず死に至らしめる術式の一つだ。我々、魔導師の間でも知識としては一応備えてはいるが、実際に行使することはタブー中のタブーになっている。もっとも……」
「魔王、か……」
ネルの言葉を断ち切ったのはリエナの右隣(次席)に座るヴェンツェルだった。自分の上座に座るヴェンツェルをネルはジロッと見る。ヴェンツェルは鎖帷子にガントレットという軽武装のままどっしりと床机に腰を下ろしていた。彼の深い緑色の双眸は閉じられたままだ。二人の間に不穏な空気が流れる。
「ああ、そういえば一つ言い忘れていたことがある。禁呪はあくまで魔導師の問題だ。根本的にお前たちが関わる様なことではない。まして亜人風情の出る幕などない。関係者面をして立場を履き違えないことだな」
「ふん……元よりお前に関わるつもりなどない。禁呪の出所を確認しただけだ」
木桶の中に顔を突っ込んでいるグラハムを除く全員の目が二人に注がれる。
「それが余計だと言っている。1500年前に貴様の一族がゲヴェルナに残る道を選んだことを忘れるな。これは『ユリシア』側の問題だ」
僅かにヴェンツェルの表情が動いたように見えた瞬間、「オホン……」とリエナがわざとらしい咳払いをした。
「まあ、どうせ何かを聞いたところで私たちには魔法のことなんてまるで分からないんだから、禁呪と悪竜のことはネルに一任せることにする。どう?ヴェンツェル、リューネ、それで問題ないでしょ?」
「ああ……俺の方は特に異存はない」
「は、はい、仰せのままに」
リエナは大きく頷くと両手をポンと叩いた。
「はい、じゃあこの件はこれで終わりね!ネル、『悪竜』の調査の方はよろしく頼んだわよ?何か分かったら必ず私に知らせなさい」
「分かっている……」
リューネはリエナの悪竜という言葉を聞いて何か言いたげな表情を浮かべるが、ちらっと対面に座るシエルとアリナの方を見ると言葉を飲み込んだ。
喉を傷められた時にも申し上げたのだけど……
どうすれば悪竜のことを忘れて下さるだろう……
銀髪の美女の顔はどんどん曇っていくのだった。
夏の世の闇を吹き抜ける風に煽られた陣幕の入り口が僅かに捲れ上がる。陣幕の外にフレイア王国製の大型バスケットを外してすっかり身軽になった飛竜のヤガーが寝そべっている姿が僅かに垣間見える。愛嬌があるとは思えない寝顔だったが、それを見たリエナは僅かに微笑む。
「それはともかく」と静寂を破る者がいた。ヴェンツェルだった。
「あのいかがわしい魔法使いの件はこれでいいとして、一連の件、直裁なさると確かに予め明言しておられたが、いきなり決闘をそこにいるシエル・フローラに申し込んだだけでは飽き足らず、まさか竜まで……しかもあれを自由民として領内に迎えるなどと……我々がまず最優先で方針を決めねばならないこの二件について姫殿下のお考えをお聞かせ願いたいものだな。もちろん、あれば、の話だが……」
隣で腕組みをしたまま端正な顔の真ん中に深い皺を寄せるヴェンツェルに一斉に視線が集まる。率直で無駄のない発言ではあったが、言葉の節々に主を主とも思わぬような無礼な態度が見え隠れしていた。
ヴェンツェルのここでの立ち場と今の穏当を欠く態度にいち早く反応したのは恐らく、シエルの肩を押し抱いている『西方の賢女』の呼び声も高いアリナ・アルトワルトだった。リエナと同様に服装を改めて侍女らしくドレスに身を包む彼女はヴェンツェルをじろっとひと睨みすると、今度は一転して祈るような視線をリエナに向ける。
ヴェンツェルはヴァーリーリーエ城主の家中として次席を与えられてはいたが、厳密にはリエナ・マグナブルクの直臣ではなかった。リエナは主筋ではあるがあくまで本来の所属は大公国の近衛連隊だ。うがった見方をすれば大公家に仇する存在や可能性は、上座を占めるリエナの考えに酌むべき正当がないと彼が判断すれば真正面に座っているシエルを腰に下げた『雌雄二刀』で即座に切り捨てるかもしれない。
アリナ・アルトワルトが逡巡する間、実際、栗色の長い髪と深緑の目を持つ武人は、シエルの処遇もだが今般一連の騒動について思いを巡らせている所だった。
まったく、余計なことをしてくれる……
近衛士官の少年の一人からリエナ、グラハム、ネルの三人がシエルとは反対の尖閣に現れたという報告を受けた時、最初にヴェンツェルの頭に浮かんだ言葉がそれだった。彼は足早に城館の正面玄関へと足を向けた。勿論、飛竜まで現れて非常に危険な場所にいる大公国の第二内親王を連れ戻すためだ。
尖閣に向かうヴェンツェルの顔は苦り切っていた。さすがの古参兵たちもヴェンツェルの全身から漂う怒りの波動に思わずたじろぐほどだった。
ヴェンツェルは既に戯曲になって市井を賑わせている『不屈のヴェンデン』に対して人並みに同情はしていた。彼の生まれ育った家庭環境は一言では言い表せないほど複雑だったが、敢えて言えば彼にとって家族とは一切のぬくもりを持たない存在だった。ゆえにそれ以上の感慨を持ち得なかった。
亜人風情が知った風な口を聞くな……
この言葉は人族社会からも魔族社会からもヴェンツェルは浴びせられ続けていた。なぜなら彼はエルフの父親と人間の母親を持つハーフエルフだったからだ。
夏の風に長い髪が揺れる。乱れた横髪を整えるために手をやるたびに思い出す。エルフの特徴である柳の葉の様な耳を彼は生まれてすぐに失った。実の母親の手によってナイフで切り取られたのだ。彼は母の浮気で生まれた。エルフの血を引きながら彼は魔力を感知する事が出来ない。
蔑まれるハーフエルフの中でも更に彼は大きすぎるハンディーキャップを背負っていた。だから、正面玄関を潜った彼がそれ以降、この一連の騒動に関わることがなかったのだ。
「これは……まさか結界……」
迂闊といえば迂闊だった。怒りで我を忘れていたとはいえ、魔導師がどこかに潜んでいるかもしれない時に空間と空間を仕切る扉の中に不用意に足を踏み入れたのは、この魔法世界ゲヴェルナに置いて明らかに彼の失策だった。
ふん……未然にリスクを払うつもりが何もできなかった……
俺も焼きが回ったらしい……
ヴェンツェルはあの時の自分を思い出すと自嘲気味に笑う。
木人形を使った追っ手を警戒したネルが大ホール全体に新たに張った固有結界に飲み込まれた彼は、結局、謎の魔法使いギョームの不可思議な死と、新たにヴァーリーリーエの自由民となった飛竜のことを全て事後に聞かされる羽目になったのだ。腹立たしいこと、この上ないだろう。
ヴェンツェルの放った一言で更に陣幕の雰囲気は重苦しくなっていく。副城主のヴェンツェルに続く席次を得ているのは、リエナ・マグナブルクの筆頭秘書の職責も持つ侍女長のリューネだった。当然、リューネは彼女の基準では明らかに率直の度が過ぎるヴェンツェルの言に対して顔色を変えていた。しかし、ヴェンツェルはリエナにまず話を向けている。発言を求められた相手が「あ」も「え」も言わぬ内に横槍を入れるのは、帝国の礼法に全くそぐわなかった。のど元までこみ上げている反駁を吐き出す代わりにリューネはギリッと奥歯を鳴らす。
アントーニア様……
リューネは視線だけを上座のリエナに向ける。リエナは一瞬だけシエルとアリナの方を見た後、おもむろに不機嫌なヴェンツェルの方に向き直る。
「もちろんあるよ?あるからこの判断に至ったわけだし。現状においては二つとも最良手だと思うけど?何か問題でもある?」
溜まりかねたヴェンツェルはガントレットを嵌めたままの手で眉間に手を当てる。そして、じろっと鋭い視線だけをリエナに向けた。
「最良手などと……馬鹿も休み休み言ってもらいたいものだ。姫殿下はご自身が何を家中に抱え込んだのかお分かりになっておられぬようだ。問題どころか前途多難、いや、もはや荒唐無稽を通り越して悪夢を見ているようだ」
「ひどっ!そこまでいうかしら、普通!」
リエナは頬を膨らませると憮然と腕組みをする。その所作は、蝶よ花よと育てられた良家の令嬢として見ればこれほど似つかわしく、また、年頃の少女と思えば全く微笑ましくさえあったが、少なくとも栗色の深い緑眼の双眸を持つ気骨の士を失望させるのには十分であった。
ヴェンツェルは細い眉をきりっと吊り上げて自分の上座に座る少女を見る目に力を込めた。大きなため息が漏れる。全員の視線がリエナとヴェンツェルに集まっていた。
「姫殿下……決闘の件は内々に処理出来るが殊に飛竜を抱える件に関しては内外に与える余波を今一度よくよく考えていただきたい。率直に言ってこの上なき愚行だと言わざるを得ない」
「あら?そうかしら?すでにヤガーは……あ、ヤガーって言うのはあの竜さんのことだけど、さっきネルに頼んで彼がフレイア国軍、正確にはモイツ大司教と300年前に結んでいた魔法契約を解約してもらったところよ。彼はもう晴れて自由の身。その彼をここに迎え入れるのに何の憚りがあるっていうの?」
リエナはヴェンツェルの目を屈託なく見返してくる。普段とは違う瞳の色にヴェンツェルは目敏く気が付いたが、構わず話を続ける。
「いかに竜族が人に近しい存在とはいえ相手は曲がりなりにも魔物。それを民の内に加えるなどと前例がない上に、むざむざとフレイアに今起こっている帝国の内紛に介入する格好の口実を与えかねない。魔法契約が常人には見えない以上、見た目だけで不法に中立国の軍需品を接収したと強弁されればそれまでだ。我が領内にたまたま庇護を求めて来たという方便に列強がどれだけ耳を傾けるか、まったく不透明だ。下手をすれば教皇府からも異端視されかねない」
ヴェストリアの西方に位置するアルヴィオン地方にはゲヴェルナに存在する七大列強の内、二国が存在する肥沃で温暖な一帯だった。西の島国ブリティアと東のフレイアは七台列強の中でも頭一つ抜きに出ている。
フレイア王国は諸邦連合体のヴェストリア帝国とは異なり、いち早く王権による中央集権体制を整えた重農国家で、常備兵力だけで二十五万人を超えると言われている。ヴェストリア帝国全諸侯が保有する兵力を一兵残らずかき集めても十五万人程度であり、一国だけで既にそれらを凌駕していた。それゆえにフレイアに対する外交問題の火種を抱える事は皇帝ですら避けるほどだ。
それをたかだか帝国東部辺境のヴェンデン一州を手中に収める、予定である伯爵夫人が単独で丁々発止と外交戦を繰り広げるチャンスに恵まれるとは到底思えなかった。
しかし、問題はそれだけに留まらなかった。
「更に言えば、マグナブルク宗家すら配備していない『空を飛ぶ騎士領』とも呼ばれる飛竜を我らが持つ意味も考えるべきだ。今般一連の紛争の主戦論を張っているワルドルフ卿以下の貴族連合が黙ってはいまい。恐らくは殿下に働きかけてマグナブルクの軍属にという浅はかな声が上がる可能性も考慮すべきだろう。『自由』を期待してフレイアから離れた竜がこれに素直に従うとも思えぬし、奴らの短慮でこのマグナブルクどころか帝国全土を戦火で焼き尽くす結果になるかもしれぬ。何を持って最良とされるのか、甚だ理解に苦しむ」
矢継ぎ早に持論を展開するヴェンツェルに、さすがのリューネもリエナを擁護する言葉が咄嗟に浮かばなかった。しかし、そのリューネの心配をよそに当のリエナは大袈裟にため息を付いて見せた。
「あーあ、何を言い出すかと思えばそんなことを心配していたなんて……相変わらずヴェンツェルは心配性ね……その辺はフレイアがナーハウ伯(帝国外相宮中伯)ではなくて、私に直接話を持って来ざるを得ないようにするための手を既にネルに打ってもらったから十中八九大丈夫よ」
リエナの一言にヴェンツェルのみならず、その場に居た全員が呆気にとられる。ヴェンツェルの正論に誰もがほぼどっぷり染まりかけていただけに余計にその衝撃は大きかった。
「ま、そのうち明らかになるでしょうから種明かしはその時までお預けね。こんな場所で話せる内容じゃないもの。フレイア側に情報が漏れてしまっては元も子もなくなるじゃない?」
リエナは一同の顔を見回してにやりと笑う。それとは対照的にネルはやれやれと言わんばかりに肩を僅かに竦めて見せる。
「まあ、それはそれとして……そのためにもシエルの存在は必要不可欠なの。今やシエルはこのマグナブルクだけじゃなくて帝国諸侯二十三家にとってもはや命脈ともいえる。私が仮にヴェンデン伯号を襲ったとしたらシエル以下のヴェンデン家一族は不要と考える向きもあるかも知れないけれどそれは大きな間違いね」
ゆっくりとリエナは床几から立ち上がるとシエルとアリナの方に向かって歩を進める。
「それはあの飛竜の到来と共に完全に潰えたと思って欲しい」
それから、とリエナは付け加える。
「ワルドルフ卿以下の主戦論派からヤガーを護ることに関してだけど、そこは殿下におすがりする事にするわ。まあ、甚だ不本意ではあるけど、ね……私が首府に赴いて殿下にお願いすれば殿下もきっと聞き届けて下さると思うし……」
ぎこちない笑いを見せるリエナを見る目をリューネは鋭くした。
おいたわしい……
あれほど殿下との関わりを持とうとなさらなかったのに……
でも……姫殿下のたっての願いならお聞き届けになる可能性がとても高い……
だって殿下は姫殿下お一人のために帝国の内紛を起こしてしまわれるようなお方なのだから……
ヴェンツェルはリエナの披歴する話が無策を行き当たりばったりで対処しようとしている様にしか聞こえなかった。彼は持論に固執するつもりは毛頭なかったが、それでも恐らく自分の見通しが正しいという思いは揺るがない。ただ、唯一の不確定要素はネルの存在だった。
一体何をさせようと言うのか……しかし……
ヴェンツェルは辺りをそれとなく見回す。
確かにこんなあけすけな場所で話すような内容でもない……
あの魔法使いがここに来ることくらいは把握しているだろうからな……
「それよりも宝刀のことなんだけど」
リエナの声を聞いたシエルは思わずビクッと身体を震わせた。肩を抱いていたアリナがシエルの耳元で小さく囁く。
「大丈夫……心配しないの……」
「ア、アリナ様ぁ……」
潔くお裁きを受けなさいとアリナ・アルトワルトから助言を受けてこの場にやってきたシエルではあったが既に半べそをかいていた。アリナは僅かに微笑むとシエルの涙を手に持っていたレースのついたハンカチで拭いてやる。
「お母様ぁ……お父様ぁ……グス……」
「まったく……しょうのない娘ね……泣いていてはせっかくの可愛いらしいお顔が台無しよ?」
安直な言葉を操って一途に家族のことを想う少女に下手な希望を与えることをしない、『西方の賢女』との呼び声も高いアリナ・アルトワルトの配慮はさすがだった。
もし、最悪の運命が貴女の頭上を襲うのなら……
その時は決して一人にはしない……
アリナは落ち着かせるように小さくシエルに向かって何度も頷いて見せると、おもむろに自分たちの正面に座っているリエナの方に目を向けた。
『マグナブルクの猛女』と言われていたからどんなに恐ろしく、そして理不尽な扱いを受けるのだろうかと、正直なところ生きた心地がしなかったけど……
若干の奇行、いや、かなり精神に問題が多いように確かに見えるものの話に聞いていたよりも意外とまともだった……
だからこそ一縷の望みに私たちは縋るしかない……
せめて弁明の機会がこの子に与えられますよう……どうかお願いです……
アリナの訴えかけるようなその気配を察したのか、リエナはちらっと二人の様子を伺ってきた。ほんの一瞬の出来事ではあったが、アリナにはリエナが自分たちに微笑みかけてきたように見えた。リエナの声が響いてくる。
「私が疑問に思うのはどうしてあの魔法使いがヴェンデンの宝刀なんて、わざわざヨハンから盗み出そうとしたのかってこと。もし、そこにいる私の侍女が事前にそれを察知していなければとんでもないことになっていた(※中の人が別のため客として遇するという指示を本物のリエナは知らない)」
「えっ!?」
このリエナの言葉にその場にいた全員が一斉に顔を上げる。リューネに至っては思わず両手を口に当てて立ち上がったほどだ。だが、今、もっとも驚いているのは一連の騒動を引き起こしてしまったシエルだった。
ネルとグラハムによって窮地を救われたシエルだったが、結局、二人ともヴァーリーリエ城の警備責任者であるヴェンツェルにシエルの身柄を引き渡さざるを得なかった。その時にシエルはヴェンデン家の家宝である一角獣の宝剣を所持していたが、それに加えて実に不運なことに自分の父親をヴェンデンの副王に任じるという公文書も押収されてしまったのだ。
リエナ・ヴェンデン=マグナブルクに直訴することを想定していたため、宛名を無記名にした公文書の呈を取ってしまったことが完全に裏目に出ていた。本来は客観的な証拠である筈のものが、その全てが如何様にも解釈可能になるからだ。ヴェンツェルが異を唱えてしまえばリエナの言葉はあっさりとひっくり返されてしまうことはシエル本人にも分かることだった。
しかし、ヴェンツェルは真一文字に口を紡いだままだった。木桶を小脇に抱えた状態でグラハムがゆっくりと立ち上がる。
「そ、そうか……そういうことだったのか……ど、どうりでおかしいと思っていた……や、やはり……この僕がむざむざと家宝を盗まれるわけがなかったんだ……相手が魔法使いなら鍵がかかった部屋にも易々と忍び込めるというわけだ……あのクソ魔法使いめ……危うく実家から勘当されるところだったじゃないか……」
「ヨハン……」
リエナはにっこりと赤毛の偉丈夫に向かって微笑んだ。自分の意見を擁護してくれていると思ったからだが、残念ながら騒動の片棒を担いだ旗本の三男坊は口裏あわせとか狂言とかではなく、心底そう信じて疑っていなかった。
「い、いや、ちょっとまてリエナ。それはあり得ない。不可能だ。第一、ヴァーリーリエに張っていた結界はそんじょそこらのものと違って……」
「シャーラッ!!ネル!!」
宮廷魔導師の沽券に関わると思ったのか、慌てて反駁しようとするネルに向かってリエナはいきなりヒールの片方を投げつけた。魔法と使い魔に頼る日常を送っている魔導師は、総じて己の肉体を行使する能力に疎い。リエナの投擲はかなり手加減していたにも関わらず、ヒールは見事にネルの顔面を捕らえていた。
「たわば!!」
「ざ、ざまあ……うええええええ」
顔を両手で押さえるネルの隣でグラハムは再び木桶に顔を突っ込んでいた。
「ちょっと!ヨハン!吐くかしゃべるかどっちかになさいよ!」
リエナが呆れた様に腰に両手をあててため息を一つつく。
まったく……何を言い出すかと思えばとんだ茶番だ……
ヴェンツェルは腕組みをすると大きなため息を付いていた。
ヴェンデンの娘に限らず……姫殿下自身が皮肉にもヴェンデン伯国に封じられた以上、邪魔者以外の何者でもない……
俺さえ黙っていればこの猿芝居で家中の混乱を鎮めることは確かに出来るだろう……
だが、それだけの話だ……気の毒だが大局的に見てヴェンデン伯の一族が生き延びる目は完全に費えている……
まあいい……さすがはマグナブルクの盲女というべきか……
しかし……やることがまだまだ荒すぎる……
これでは列強どころか、首府に巣くう魑魅魍魎どもと伍していけるかは微妙だな……
ふっと僅かに口元を綻ばせたヴェンツェルが静かに切れ長の瞳を開けると、ちょうどリューネがシエルとアリナの元に駆け寄っていく姿があった。
まったく……もっとしっかりと教育していただきたいものだな……フロイライン……それに何よりも……
今度はグラハムとネルの前に立っているリエナの方を見る。
姫殿下……せいぜいこの俺を失望させないでもらおう……
十年前のあの日……このお方ならばあるいは、と少しでも期待したこの俺が一番愚かだったと後悔はしたくはないからな……
何の前触れもなくリエナとヴェンツェルの視線が交錯した。ヴェンツェルは僅かに目を細める。明らかに何かまだ企んでいる顔だった。
まだ何かするつもりなのか……ま、まさか……
ヴェンツェルがハッとするのとほぼ同時にリエナは今度はシエルの方に向かって行く。その姿を認めたシエルとアリナは慌てて立ち上がって両手を交差させて肩に当てて腰を落とした。
「アントーニア様……見事なお裁きでございました……」
リューネは目に涙を湛えていた。それらの反応を鷹揚に受け流しながらリエナは、パッと固い表情のヴェンツェルの方を振り返る。
「ヴェンツェル、これよりシエル・フローラ・ヴィ・ヴェンデンとの決闘を始めます。剣を二振り用意なさい」
「アントーニア様!!一体何を考えているんですか!!」
リューネのそれは半ば絶叫に近かった。
「心得た……」
更に一同を驚かせたのはヴェンツェルのこの一言だった。
絶対勝者が敗者に対して圧倒的に不利益なことをする……
こんな馬鹿げた話がこの世のどこにあるというのだろうか……
俺は諌めるべきなのだろう……何を考えているんだ俺は……
だが……
ヴェンツェルのリエナを見る目は当初とは変わりつつあった。それを彼は自覚しているのだ。
俺はこの方が……この狂気の結末をどうするつもりなのか……
それを見届けたいと思っている……
蒼い月が天頂に向かって上りつつあった。夏の夜空を焦がすヴァーリーリエ城の篝火はさらにその勢いを増すのだった。




