【幕間】 不屈のヴェンデン
内容を全面改定しました(10/30)
ヴェンデン伯ヨアヒム二世の長女シエル・フローラは国許で”不屈のヴェンデン”の異名を取っていた。しかし、それは言葉から連想するような屈強な精神の持ち主だから、というわけではなかった。
その由来は5歳の時に体験した初めての乗馬の日まで遡る。普段とはまったく違う高い視界のパノラマに、シエル・フローラちゃん(当時5歳)はすっかり有頂天になっていた。両親から無償の愛情を注がれている愛くるしい一人の少女の姿がそこにあった。轡取りの諫めも聞かず、しきりに鞍の上で無邪気に立ったり座ったりを繰り返していた。そんなにはしゃいで大丈夫か?と従者らから異口同音に問われ、それに対してシエルはこう答えたという。
大丈夫だ、問題ない、と。
そして、またシエルが立ち上がったその刹那、狙い済ましたようにそこにあった蜂の巣に5歳児渾身のヘッドバットが炸裂、なんと凶悪な地上のデス☆スターを叩き落してしまい、従者共々怒り狂った蜂の大群に襲われる絶体絶命の危機に瀕したのである。既にして敬虔な神教徒だったシエルは、追いすがる蜂の群れから逃れている最中に神の啓示を受けたと後世に伝わっている。曰く、
神は言っている、ここで死ぬ運命ではない、と。
どうにか命からがら逃げおおせた主従だったが、人心地をついたところでふと我に帰って周囲を眺め回すと、そこは自分たちが全く知らない森の中だった。”世界の屋根”とも呼ばれている、5000m級の山々が連なる天嶮のユーテシア山脈にほど近いヴェンデン伯国には、帝国建国1500年を過ぎて尚、全く手付かずの自然がそこかしこにあった。そして、誰かが言った。
ここはどこだ?、と。
鬱蒼と茂った森の真っ只中ですっかり道に迷ってしまい、狼の群れに道中を付狙われる羽目に陥ってしまったのだ。素直に蜂に刺されていた方がマシだったんじゃないのか、だれもがそう思うほどの苦労の連続だったという。しかし、奇跡は起こった。
道に迷って三日目の朝、シエルの従者の一人が血眼になって愛娘を探すヴェンデン伯が組織した捜索隊の野営地を発見したのである。
こうして奇跡的に一人の落伍者もけが人も出すことなく姫一行は不死鳥の如く無事の帰城を果たしたのだった。そして、それはどんな逆境にも、またどんな不遇に対してもシエル本人の意思とは裏腹に、耐えがたきを耐えさせられ、忍び難きを忍ばされる、”不屈のヴェンデン(まきこまれひめ)”爆誕の瞬間でもあった。
後世の歴史家によれば、この時のシエル・フローラの奇跡の生還に関する記録が、ヴェンデン伯家正史(口語訳済)に残されていたという。曰く、
”帰れたのはただの偶然だったよ。俺たちは本当に最高のチームだったね。誰が欠けても生還はできなかったって確信しているよ。でも、あの時の姫様は間違いなく神からご加護を受けていたとしか思えない強運だったんだ。姫様はお約束かよって突っ込みたくなるほど、ありとあらゆる不運に巻き込まれたのに無事だったんだからね。不運なのに強運ってなに?ってちょっと思ったけど、でも何が起こったって最後には助かるんだから、正直あれには本当にみんな驚いたんだ。やっぱり奇跡ってあるんだなって思ったさ。でも、もうあんな目に遭うなんて二度とごめんだよ”
この”不屈のヴェンデン”に関する逸話には枚挙に暇がないが、中でも12年後に勃発するマグナブルク-ヴェンデン紛争に関する件は世界的に有名である(※ 帝国憲章では帝国諸侯間の武力戦争を認めていないため、戦争ではなく便宜上、紛争の文言が当てられた)。神聖紀1526年3月、帝国創業期以来の盟友国マグナブルクとの間の諍いが発端で始まったこの紛争は、シエルの父親、ヴェンデン伯ヨアヒム2世がマグナブルクに一方的に敗北することで終結した。
名誉を糧に生きる、といわれている貴族は、たとえ一方的な惨敗でも謝罪の呈を取らないことが世の常識とされる時代である。マグナブルク、ヴェンデンの全諸将が居並ぶ行賞(断罪)の場は、むしろ勝者であるマグナブルク選帝侯を紛糾する声に溢れた。マグナブルク大公国の健康王オットー3世は激昂し、もはや誰の目にもヴェンデン伯一族の撫で斬り(皆殺し)は不可避と映っていた。
オットー3世の振り上げた右手がまさに振り下ろされんとしたその時、一人の少女が手錠を嵌められたままの姿でヴェンデンの新しい支配者の前に歩み出た。それは、美しく成長したシエル・フローラ・ヴィ・ヴェンデン、その人であった。
シエルは困惑する両陣営の諸将の好奇の視線の中で、オットー3世の前まで進むと半ば発作的にその場に跪いた。おお、と居並ぶ諸将の間からどよめきが漏れる。まだ春の到来を感じさせぬ粉雪の舞う中、少女が取った行動は紛れもなく “贖罪の礼”であった。万年の氷室の床の如く凍りついた石畳の上を2トルム(1トルム=3メートルの設定)に渡って華奢な体を自ら引きづったと伝わる。
後年、不朽の名著「大戦略」を著すことになるゲオルグ・マイヤーは、当時、マグナブルク大公国フェンドルフ第2歩兵連隊の少尉として従軍していたが、その時の衝撃を彼は自分の日記に2ページにも渡って書き連ねている。
“そこには勝者も敗者もなかった。手折れば散るが如きそのヴェンデンのスミレは、ひたすら贖罪と恭順の意を示すために血と泥に汚れた石畳の雪に顔を埋め、そして、無慈悲な征服者の足元にひれ伏し、靴に接吻をしたのである。その時、驚くべきことに先ほどまで滾る血を持て余していた男たちの列からすすり泣くような声が聞こえ始めたのだ。最初はとても小さな嗚咽だったが、それは少しずつ漣のように広がっていき、とうとう最後にはマグナブルクの狂王をさえも慟哭させたのだ。
ある心なき貴族主義者はこの少女の悲壮なる覚悟を打算と命乞いの愚かな行為だと蔑み、また、唾棄すべき自称芸術家の商業主義者どもはこぞって戯曲やオペラに仕立てて美談に祭り上げることに心血を注いだ。
あえて言うとすれば、あれは美談などではない。
たった一人の家族を愛する少女が無心に、誰もが躊躇するほどの屈辱に甘んじて塗れ、それを成し遂げただけなのだ。彼女は、それ以外に自分の家族が救われる道がないと直感しており、恐らくそれは後にヴェンデンの地を蹂躙した戦後処理を見ればまったく正しかったと思われる。
しかし、私は言わなければならない。この実に愚かしい戦役における真の勝者は紛れもなくあの一輪のスミレであったことを”
金色の睡蓮の旗の下で、後に軍務卿を務めることになるゲオルグ・マイヤーをして、唯一の勝者と言わしめた“不屈のヴェンデン”の伝説は、いま、ヴァーリーリエの地で不動のものになろうとしていた。
ダメだ……食べられちゃうぅ……
ギョームと名乗る謎の男が駆る飛竜のギョロリとした目と視線があった時、咄嗟にシエル・フローラはそう予感した。不幸すぎる、と彼女は思っていた。そして次に頭に浮かんだことは、どうやって先立つ不幸を両親に伝えるか、ということだった。
不屈のヴェンデン(まきこまれひめ)にとって、今、現在進行形で繰り広げられているこの大騒動自体が不本意であり、偶発的な不運の連続が重なった結果なのだと声を大にして周囲に言いたかった。今更ながら自分の境遇を呪わずにはいられない。
”不屈のヴェンデン”こと、シエル・フローラには確かに一つの野望があった。それは、後年”健康王”とも’狂王”とも呼ばれることになる、マグナブルク選帝侯オットー3世によって名目上滅ぼされてしまった実家の再興に道筋をつけることであった。傍目から見れば単なる簒奪者でしかないリエナ・マグナブルクではあるが、気弱でいたいけな17歳の少女に1ヵ月後に控えているヴェンデンでの戴冠を妨害するつもりも、ましてや、リエナ本人を害する意図も、全く持ち合わせていなかった。
昨夜、浴室に一人でいたリエナ・アントーニア(※当時の中の人は別人)に近付いたのも、1ヵ月後に予定されているヴェンデンでの戴冠式において、列席するであろう各国特使とヴェンデンの名士達の前で、マグナブルク領の片隅にある修道院の一つに押し込められている自分の父親を副王に任じて欲しいと願うためだった。
そのための文書をシエルは懐に今も忍ばせていた。まるで皇帝の勅書を発行する宮内宮中伯が認めたかのような見事な出来栄えだった。後はリエナの署名と血判を得られればそれで完成だった。
自分が生まれた家格や身分によって将来の全てが決まる時代である。
身分を平民や賤民に窶したところで、貴族は貴族として施政者からどこまでも見なされる。民草は滅ぼせないが、貴族の家系はその気になれば簡単に滅ぼせる。一度、力を失ってしまった一家を待つ運命は悲惨そのものだ。だからこそ特権を持って生まれた者は異様なまでに名誉を守ることに執着し、貪欲なまでに特権を維持することに血眼になるのだ。
だが、シエルの考える御家再興は少し違っていた。家門や名誉、そして先祖伝来の特権にしがみ付くつもりは極論してなかった。
全てが元に戻れば……お母様やお父様たちとまた一緒に暮らせるようになる……もう一人で寂しい思いをしなくて済むんだ……
シエルの願いは家族と過ごしたあの暖かで穏やかな日々を取り戻したいだけだった。しかし、そのためには力が必要だ。家族を守るだけの裏づけとなるものが。貴族は死ぬまで貴族なのだから。
3mを超える成体の飛竜の上から鼻にかかったような声が聞こえてきた。
「ヴェンデン伯ヨアヒムの娘よ。その手に持っている一角獣の宝刀をこちらに渡して貰おうか?くふふふ。お前から全てを奪いつくした憎きあの猛女に一太刀も浴びせられぬままこんなところで朽ち果てたくあるまい?くふふふ」
巨大な翼が生み出す強風に煽られている。少しでも気を抜けばそのまま屋根から落ちてしまいそうだった。
「だ、誰!?あなたは何者なんですかぁ!」
搾り出すように発した少女の声はほとんど涙声だった。
「くふふふ。どうせ死んじゃうお前には特別に我輩の名前を教えてあげようじゃないか。我輩の名はギョーム。お前が手に入れたその宝剣を受け取りに来たものさ。くふふふ」
ギョームは如何にも酷薄な視線を自分に向けていた。素焼きの薄いレンガの屋根瓦に片手でしがみ付いていたシエルは、反対側の手に握られている一角獣の紋章があしらわれている宝刀を見る。
シエルが昨夜、グラハム・ヴィッテルスバッハの寝所から持ち出したものだった。少女がヴェンデンの宝刀を馬キチガイで有名な旗本の三男坊から盗み出したのにもそれなりの理由がある。
それは、ヴェンデンの宝刀を献じて、改めて恭順の意を示すために必要だったのだ。大公家ではなく、新たにヴェンデンの支配者となって国入りするリエナ・アントーニアに。
鍵はあっさり手に入った。グラハム本人に声をかけて。
「あの……もし……ヨハン・グラハム・ヴィ・ヴィッテルスバッハ様……」
物陰から不意に声をかけられてグラハムは振り返った。
「ん?貴女は確か……」
そこには長い紫色の髪をツインテールにした一人の少女の姿があった。確かに見覚えのある顔だったがなかなか思い出せない。グラハムがしきりに首をひねっていると、年頃の乙女らしく僅かにはにかみつつ少女は答える。
「2年前に帝都の新年大舞踏会でダンスをご一緒させていただいたシエル・フローラ・ヴィ・ヴェンデンでございます……いまはその……ただのシエル・フローラですけど……」
「シエル……フローラ……おお!ヴェンデン伯のところのフローラ殿!もちろん覚えているとも!まさかこんな片田舎で貴女に会おうとは思わなかった!いや実に奇遇だ!で?何ゆえにメイド服など?」
この時、シエルは恥かしさのあまり泣き出しそうになったが、不屈のヴェンデンの名は伊達ではなかった。グッと堪えて適当な理由を並べる。嘘を付くことが得意な方ではないシエルは内心、バレはしないかとヒヤヒヤものだった。
しかし、シエルの心配も全くの杞憂に終わった。グラハムは全く怪しむことなく、シエルにあっさりと自分の鍵を手渡したのだ。
このお方はなんて純粋純情なのかしら……
人を疑うことを全く知らないグラハムの信頼を裏切ることに対して、当然、心は痛んだし、躊躇も少なからずあった。が、何としてでも御家復興を成し遂げたいという使命感の方が圧倒的に勝った。
シエルはベッドメーキングと称してグラハムに貸し与えられていた貴賓室を隅々まで物色して全く労せずそて宝刀を首尾よく手にいれ、そして、非常に申し訳なさそうな顔つきで城兵たちと上機嫌で酒を酌み交わすグラハムに鍵を返したのである。
「おお!フローラ殿!もう仕事を終えられたのか。これは痛み入る。鍵は確かにいただいたぞ!そうだ!貴女も一杯いかがかな?」
「い、いえぇ……私、お酒はお父様が18になるまで飲むなってぇ……」
「ヴェンデン伯が?そうか……いやそれは知らぬこととはいえ申し訳ないことをした。どうか許されよ」
グラハムは17歳のメイド服を着たシエルに深々と頭を下げて謝罪した。その姿を見たシエルは耳まで顔を真っ赤にして溜まらず駆け出していた。
純粋純情でもいいぃ!やっぱり素敵ぃ!今度、めーるしちゃお☆
一人の恋する年頃の乙女がそこにはいた。
こうして全ての条件はクリアされた。
後は、入浴をちょうど終えた頃であるリエナ・アントーニアに会いに行くだけだった。この機会を置いて他にはない。
なぜなら、マグナブルク大公国が属領としてリエナにヴェンデンの地を与え、そして爵位を与えた意味はシエルにも十分に理解できたからだ。人質の意味はまったくない。いつ難癖をつけられて命を奪われるか、まったく分からない。
シエルはこれが最初で最後のチャンスだと考えていた。
身の毛がよだつほどおぞましいと思っていたが、この時ばかりは自分が名ばかり侍女の実質メイドという身上が幸いしていた。メイドが女主人の近くに侍ることに何の憚りがあるか、という方便も成り立つ。
奥の間にあるリエナ専用の浴室へと向うシエルの足は小刻みに震えていた。しかし、もう後には戻れない。覚悟を決めるしかなかった。
しかし、シエルの目論みはいとも容易く頓挫する。
浴室に忍び込んだシエルは鏡の前に立っているヴァーリーリエの主の姿を見つけた。そして、慎重に歩を進めていく。息を呑むほど美しい金髪だった。
だが、リエナの後姿にはどことなく翳があった。
もう手を伸ばせば届くところまで二人の距離は縮んでいる。
あ、あと少し……だ、大丈夫……相手は同じ人間だし……怖くなんか……
意を決したように頷くとシエルはリエナの後姿にまっすぐ目を向ける。そして、声をかけようと口を開いたまさにその瞬間だった。
「ぼへぇ……」
「きゃあ」
猛女のケダモノのような雄叫びを聞いたシエルは恐怖のあまり完全にパニックに陥ってしまった。いや、それだけではない。驚きのあまり思わず懐から宝刀を取り出す途中で、剣だけを取り落としてしまったのだ。
カラン!という音が浴室に響き、シエルは後ろを振り返ったリエナと目が合ってしまった。
ど、どうしようぅ!?
しかも取り落としてしまった抜き身の宝刀は、魔王か獣王か、いずれにしても人間ではない何かのように野生的で獰猛というイメージしかないリエナ・アントーニアに奪われてしまったのだ。
もうマジ無理……
シエルは生きたまま三枚に捌かれて殺されることを覚悟した。
自室でまったく何の躊躇もなく放尿し(※二話参照)、夜な夜な奇声を発するなどの気候が目立つ変態女が相手だ。刺殺を疑われても仕方がないこの状況で、一体どんな辱めを受け、そしてどんな猟奇的な拷問でいたぶられて殺されるのか、もう考えるだけで身の毛がよだち、恐怖で頭が真っ白だ。
しかし、次にリエナ・アントーニアが見せた行動はシエルの予想を遥かに上回るものだった。ゆっくりと宝刀の切っ先ではなく、柄の方をリエナが自分に向けてきたのである。
へ、ヘンタイだーっ!!
この変態女には放尿癖や自分の体に欲情するだけでは飽き足らず、あろうことか自傷的なサディスティックプレーで性的快楽を貪るという、もはやシエルの、いや、常人の想像を絶する人知の及ばない境地に達した性的エキスプローラーだったのである。
それだけにリエナ・アントーニアが自分に微笑みかけてきた時は心臓麻痺寸前だった。シエルには確かに聞こえた。リエナの声なき声が。
やらないか?
当然、サイケデリックな性癖をもたない妙齢の少女が「やる」を選ぶわけがない。
敬虔な神教徒であるシエルは、死の恐怖に接して尚、自分の純潔を散らさせ、穢されることに対して恐れ戦き、口を両手で押さえて恐怖の絶叫を押し殺すのがやっとだった。
しかし、奇跡は向こうからやって来た。
リエナ・アントーニアが隙を見せた瞬間、後先のことを考えずにシエルは遁走した。一刻も早くこの変態から逃げ出すべきだと。走りながらシエルは涙を流し、そして父親と母親の名前を代わる代わる呼びながら魔窟ヴァーリーリエの中をひた走りに走ったのである(※ ここまで四話参照)。
少しずつ冷静さを取り戻したシエルは自分が犯してしまった失敗に大いに落胆した。
全くの偶然が重なったとはいえ、皇族を暗殺しようとした、という烙印を押されても仕方がない状況に追い込まれたのだから。
大聖皇帝の名の下に帝国諸侯を束ねる帝国憲章は古きよき騎士精神がまだ根強く息づいており、恥辱を与えられた弱者に対して同情的な部分があった。
御家再興は過去にも前例があったし、帝国諸侯間の併合が支持された事例は極めて少ない。皇帝による直裁、あるいは帝国議会などで併合条約自体が覆されることもあった。
だが、庶流どころか今生陛下の姪に当る皇族を害しようとした、と見なされれば話は全く別だった。それが決闘ならまだしも、暗殺という卑劣な行為での報復は、名誉を重んじる貴族の間では逆に非難を浴びかねない行為だ。
贖罪の礼による助命嘆願には打算はまったくなかった。親兄弟を助けたい一心で行った純粋な行動だったが、これはシエルの予想を超えて帝国諸侯のみならず、七大列強を含めたゲヴェルナ全土において戯曲やオペラの題材になるほどの反響を期せずして得てしまった。
こうなってしまっては流石の名門マグナブルク大公家をもってしても正当な理由もなく、実に目障りなヴェンデン一族を完全に闇に葬り去るのは難しくなる。
シエルの咄嗟にとった行動は、マグナブルク大公国の首府で一大勢力を張る武断派の貴族閥にとって、さぞ小賢しく映ったことだろう。
だが、今の状況はマグナブルク大公家にまんまと一族誅殺の好餌を与えてしまったことになる。
ど、どうしようぅ……とんでもないことになってしまったよぅ……
宝刀の窃盗犯、そして遅かれ早かれ発覚するであろうリエナ・マグナブルクに対する暗殺未遂疑惑により、追われる身の上となってしまったシエルは、最悪のタイミングで最悪の選択をしてしまった。
こうなったらお父様達とどこに亡命しなきゃ……
現実逃避という名の逃亡を図ったのだ。
短慮、浅知恵と言われても確かに仕方がないかもしれない。だが、今まで自分で何もやる必要がない境遇に好むと好まざるとに関わらず置かれていた17歳の少女に多くを求めるのは過酷に過ぎた。
とにかく家族に会いたい。シエルは本気でそう考えたのである。
一先ず敵地ヴァーリーリエから一刻も早く逃げ出そうと考えたシエルは、自室に戻るとルームメイトであり、また自分とほとんど同じ境遇に置かれている2つ年長のアルトワルト公爵家の長女、アリナ・ヴィルヘミーナに正直に全てを打ち明けた。
アリナ・ヴィルヘミーナに無実の罪で連座の縄を掛けられないようにするためである。
シエルは僅か1ヶ月の間ではあったが同じ境遇に置かれても前向きなアリナを実の姉のように慕っていた。
「最近様子がおかしいと思ったら!なんて馬鹿なマネをしたの!シエル!」
「ひいい!ごめんなさいぃ!アリナ様ぁ!」
「とにかく私からエニグマ様になんとかお取り成しをお願いできないか頼んでみるわ。だから……」
「いいえ!ここにいてもアリナ様にご迷惑がかかるだけです!私、やっぱり失礼しますぅ!」
「ちょ、ちょっとお待ちなさい!て、ていうか!シエル!どうしてそんなもの持っていくのよ!どうせ持ち出すならお金とか、何かもっと他のものがあるでしょ!ちょっと!」
アリナ・ヴィルヘミーナの釈明をした方がいいという極めて常識的な助言も耳に入らぬほど気が動転していた。シエルは驚きの声を上げるアリナ・ヴィルヘミーナを部屋に残して部屋を飛び出していた。
お伽話の主人公である”騎士マーヴェラス”がでかでかと描かれている愛用の抱き枕を小脇に抱えて……
枕が変わると不眠に陥ってしまうほど繊細な神経の持ち主であるシエルにとって、これだけは絶対に譲れない一線だった。
"西方の賢女"とも"算盤公女"とも呼ばれるアリナ・ヴィルヘミーナは当然、この自己生存本能だけで行動するヴェンデンの爆弾娘を止めようとした。しかし、自然豊かなヴェンデンで育ったシエルに、帝国屈指の商業地帯を所領に持つアルトワルト公女の足が適う道理がなかった。
「ぜえ……ぜえ……な、なんて足が速いのかしら……」
加えて喘息の持病があるアリナはシエルの姿をあっという間に見失ってしまった。
「なんてバカなことを……こ、こうしてはいられないわ……ぜえ……ぜえ……」
僅か1ヶ月の共同生活ながらもシエルを自分の妹のように思っていたこの聡明な公女は、恐らく敵地マグナブルクで最も自分たち二人に理解があるであろう侍女長リューネ・エニグマの自室のドアを叩いたのである。1歳年長のリューネと歳が近いことも大きな理由の一つだった。
この話をアリナから内々に打ち明けられたリューネの行動は素早かった。すぐに信頼できる他の侍女を集めてシエルの探索を命じた。
跳ね橋が下りる夜明けまでにリューネとアリナは何としてもシエルを見つけ出したかった。なぜなら、手を拱いている間にシエルが城外に出てしまっては、リエナ・アントーニア家中の問題では済まなくなり、ほぼ確実に首府の武断派勢力に紛争継続の格好の口実を与えることになるに違いない。
しかし、東の空が白み始める頃になっても、まるで森の中のリスの様にすばしっこいシエルを見つけ出すことはついに出来なかった。
「申し訳ございません。フロイライン(お嬢様)……どこにもシエル・フローラ様のお姿がありません……」
謝罪の言葉を口にする侍女たちの労を労った後でリューネはアリナ・ヴィルヘミーナを振り返ると小さくため息を付いた。
「仕方がありませんね……あまり気が進みませんが、こうなってしまっては殿方の協力を得るしかありません」
アリナも渋々その言葉に頷くより他なかった。リューネが副城主のヴェンツェルに相談を持ちかけたのは進退窮まった結果だった。
午前様のグラハムが異変に気が付いて騒ぎ始めるよりも早く、リューネとヴェンツェルによって対策が進んでいたのはこうした経緯があったのである(※六話参照)。
一方、”奥の間”を潜り抜けたシエルは一目散に大手門を目指した。ヴェンデンの宝刀はメイド服の懐深くに仕舞っていた。
犯行現場に犯人は戻ってくる、という言葉そのままに自分の部屋を飛び出した後で思い出したようにシエルは浴室に戻り、そこでバスタブの淵に置かれたままになっている宝刀を発見したのだ。
決定的な物証がそのままというのはほとんど奇跡といってもよい強運だった。
途中で文武官、そして召使と何人もすれ違ったが、騎士マーヴェラスの抱き枕を抱えた侍女に関心を示すものは誰一人としていなかった。リエナ・アントーニアが命を狙われたと大騒ぎして戒厳令が敷かれていてもおかしくないほど時間が経っているにも関わらずである。
何ていう幸運なの!もしかしたらこれで道が開けるかもしれない!神様のお導きによって!
シエルは思わずこの加護に対して感謝を捧げた。最初は緊張した面持ちをしていたシエルだったが、大手門が見える辺りに差し掛かる頃には鼻歌交じりのスキップを踏むほどルンルンだった。それほど自分の幸運に酔いしれていた。
しかし、それは定刻から異常に早く大手門の跳ね橋が上がるという不幸ですべて相殺されてしまう。
「そ、そんなぁ……」
ヘナヘナとシエルはその場に膝を折ってしゃがみこむしかなかった。ヴァーリーリエ城の跳ね橋は日没と共に上げられる決まりになっていた。どう考えても普段より1時間以上早い。勿論、この不幸の元凶を作り出したのが例の馬きちがいであることは、神ならぬシエルが知る由もなかった。
結果的に、シエルの最悪な選択はこの”グラハム主催の大宴会”という幸運によって救われることになるのだが、その詳細は恐らくここでは余談であろう。もっとも、上がった跳ね橋を見た時の彼女は自分ほど不運な人間はいないとベソをかいたのだが。
やむを得ず城館に引き返したシエルだったが、さりとて、今更、自分の部屋に戻るわけにも行かなかった。アリナ・ヴィルネミーナとリューネ・エニグマに怒られるのが心底恐ろしかったこともあったが、もはや逃げ出すことが出来ない以上、腹を括るしかない、とシエルは初心に帰ったのである。
自分の身を案じる人々があれこれと思案に暮れている時、肝心のシエル本人はといえば、リエナ・アントーニアの衣裳部屋、の天井裏でじっと息を殺していた。シエルはクローゼットがすべて壁に埋め込み式でその裏板を外せば天井に這い上がることが出来ることを知っていたのだ。大人しそうな見た目のシエルが列強の工作員も顔負けのことをやってのけるとは、さすがのリューネも考えつかなかったのである。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
リエナ・アントーニアが一人になる深夜を待っているうちに、いつの間にか枕を抱えて眠っていたシエルは不思議な物音で目を覚ました。まるで木と木とこすり合わせるような不気味な音だ。
寝ぼけ眼を擦りつつあたりを見回す。真っ暗闇で何も見えない。その一風変わった音はすぐ近くでしている。
「な、何なんでしょう、この音は……だ、誰ですかぁ……」
恐る恐る呼びかけてみるが返事はなかった。あれ?と首を傾げたその瞬間、シエルはいきなり後ろから肩を掴まれる。
暗闇にようやく慣れてきた目に飛び込んできた光景に、シエルは腰を抜かさんばかりに驚いた。無数の木人形が天井裏に座っている自分を取り囲んでいるのだ。
「ひ、ひえええ!!お、おばけ!!木のお化けぇ!!」
シエルは飛び上がると肩を掴んでいる木人形の腕を反射的に取る。ガッシャーン!という大きな音と共に木人形は背中から床に叩きつけられていた。思わず右手を高々と上げたくなるような背負い投げだった。
「た、助けてぇ!!誰かぁ!!」
少女は半狂乱だった。床の上に置いていた抱き枕とヴェンデンの宝刀を引っ手繰るように手に取ると遮二無二それらを振り回す。木人形はシエルの枕と宝刀を浴びて呆気ないほど次々と倒されていき、果たして二重三重の囲みは破られていた。
「怖い!怖いよぅ!助けてぇ!」
素直に信じることが出来ない言葉だった。暗闇の中で片方の靴が脱げてしまったが、もはやそれを探っている場合ではなかった。もう片方を自ら脱ぎ捨てると正面に立ちはだかる一体に向って投げ付ける。吸い込まれるように顔面にクリーンヒットする。
血路を切り開いた少女は裸足のまま駆け出す。
「な、なんだ……この音は……」
シエルが天井裏で獅子奮迅の動きを見せている時、その真下にはヴェンツェルの指示で”奥の間”を捜索していた近衛連隊の3人の少年たちがいた。
「天井裏から聞こえるぞ」
まるでネズミの大運動会が開かれているような騒がしさだった。パラパラと埃が落ちてくる天井を少年たちが仰ぎ見た瞬間、ドーンという大きな音が今度は一方の壁に埋め込まれているクローゼットの方か聞こえてきた。
ぎょっとして振り返ると同時にクローゼットの羽目板を体当たりで破った黒い影が少年たちの前に現れる。
「う、うわああ!!何事だ!!」
「ぎゃあああ!」
辺りにはもうもうと埃が立つ。固唾を飲み込んだ少年たちは銘々が腰のサーベルを抜き放つ。
「な、何者だ!!名を名乗れ!!」
「た……」
「た、た?」
少年たちは思わずお互いの顔を見合わせる。掠れていたがそれは紛れもなく若い女の声だった。三人の中で一番背が高い眼鏡をかけた少年はおずおずと埃の中の人影に声をかける。
「も、もしかして……シエル・フローラ殿では?」
その言葉を聞いた残りの二人はぎょっとすると慌てて手で埃を振り払う。そこには頭まで塵で真っ白になっているシエルの姿があった。しかし、その顔は顔面蒼白だった。
「間違いない。姫殿下お付のフローラ殿だ」
長身の少年はコホンと一つ咳払いをすると眼鏡を押し上げながら口を開く。
「え、えーっと!それではシエル・フローラ殿。姫殿下のお召しである。我らに同行いただこう。大人しくしていれば手荒なマネはせぬ。神妙に願いたい」
眼鏡の少年を押しのけるように横からやや小太りの別の少年がシエルの前に立つ。
「あ、それからヴェンデン家の家宝はこちらに渡してもら……」
「そ、それどころじゃありませんっ!!お、お化けが!!木のお化けが出たんです!!」
やっと呼吸を整え終わったシエルはいきなり立ち上がると最も近くに立っていた眼鏡の少年の手を握る。
「え?おばけ……???」
こいつ……何を言ってるんだ……
それを見た近衛の少年たちは一様に困惑顔を作る。
自分がしでかしてしまったことの重さを考えれば、追捕の手がかかっていることは明らかのはずだった。丁重に扱うようにと訓示は受けてはいるが、目の前の少女を捕えなければならないのだ。多少の抵抗があることを想像していた少年たちは、シエル自ら近づいてきたことに戸惑いを隠せなかった。
勿論、夢見がちなシエルの”おばけ”の言葉を少年たちは華麗にスルーする。
「と、とにかく手に持っている家宝の宝刀をこちらに……」
シエルに手を握られた眼鏡の少年の言葉は、大量の薪が落ちてくるようなけたたましい音で遮られる。
「な、今度はなんなんだ!?」
クローゼットに開いた大穴の方から聞こえてくるその音は断続的に続いており、再びもうもうと辺りに埃を吐き出し始める。まるで煙突だ。
「いやあああ!!来た!!」
おびえているシエルが指差す方向を一斉に少年たちが見ると、果たしてシエルが開けた穴からぞくぞくと木人形たちが這い出てくるところだった。正直言ってかなりキモい光景だ。
「う、うわあああ!!な、なんなんだ!!こいつら!!」
この世界の人間にとって魔物は特別な存在だった。軍に奉職しているとはいえ、彼らにとって魔物は魔法使いが相手にするものであって、人間の手に負えるものではないというのが一般的な認識だった。異形の敵の出現に、もはやシエルどころの騒ぎではない。
「ま、魔物だ!逃げろ!」
「くっそ!こんなの聞いてねえぞ!猛女の警護はイージーモードとか、親父の奴!とんだガセじゃないか!」
少年たちは我先にともんどりを打って一斉に逃げ出し始めた。どうやらシエルは置き去りの方向で一致したらしい。
「ま、待ってよぅ!私をおいていかないでよぅ!」
シエルも慌てて少年たちの後を追う。彼らと彼女は必死だった。
「おい……さっき、ルパードたちを追い回していたのはシエル・フローラじゃなかったか?」
「は?ルパードの班は三人だぞ?女一人に蹴散らされるわけが……って、マジじゃないか!」
鬼気迫る形相の四人の姿を見た別の班の少年達は一様に混乱したが、次々にその後を追い始め、最後には一大捕り物に発展したのである。
この追われている人間が追っ手を追いかけるという奇妙な光景はいつしかその情報に尾びれ背びれがつき、ヴェンツェルやリエナ・アントーニアの耳に入る頃には「シエル嬢は意外にも手錬」ということになってしまっていた。
少年たちとシエルは時をほぼ同じくして本館の中央階段に辿り着き、文字通り転がるようにして階段を駆け下りて大ホールに出た。
そこでシエルたちは更に信じられないような光景を目の当たりにする。
「な、な、なんで……なんで城の中にオークがいるんだ!!」
「もうだめだ……こんなところで死ぬなんて……ここは安全だっていう話は嘘だったのかよ……」
「魔物が相手なんて聞いてないよ!」
近衛の少年たちは数こそ少なくなかったが、醜悪な蒼白い肉塊を前にしてあっさりと戦意を喪失する。これでは相手が魔物ではなくても役に立つか甚だ疑わしかった。
大ホールの手前で固まっていた少年たちとシエルは、前後を魔物に囲まれる。
「ま、前も後ろも魔物だぞ……ど、どうするんだよ……」
「囲まれた!父上ぇ!誰か!助けてくれ!」
「ま、まずこの係る大事において、誰が優先して保護されるべきか……当然、大公国の継承法に基づいて長子は後列にあるべきだと主張する。これは正当な権利であって臆病などではない」
混乱を極める少年たちを尻目にシエルは階段を疾風の如く駆け下りると、いきなり大ホールに向かって駆け出し始めた。シエルの生存本能が走れと告げていた。
「あ、あぶない!!シエル・フローラ殿!!そっちにはオークが!!」
「ひょっとして何か知っているのではないか?」
「そ、そうだ!仮にも一角の白騎士の末裔だ!何か賞賛があるのかもしれん!俺は付いていくぞ!」
「お、俺もだ!こんなところで犬死するわけにはいかない!」
「そ、そうだ!!こ、こんなことをしている場合じゃないぞ!!早く副城主様にお知らせせねば!!」
まるで金縛りにあったかのようにその場に凝固していた少年たちもシエルに続いて駆け出し始めた。
少年たちの期待とは裏腹に、シエルのそれはほとんど直感だけだった。シエルはオークの手が届かない壁際すれすれを通っていく。少年たちもシエルが切り開いた血路をそのまま通る。
「シエル・フローラ殿!どこに向かわれる!正面玄関はこちらですよ!」
「玄関は使えません!!たぶん!!結界みたいな感じがします!!」
「え、け、結界!?」
正面玄関に向かおうとしていた少年たちは一瞬足を止める。魔法使いでもない人間が結界の存在を感じることはまずあり得ないことだったからだ。
「どういうことなんだ……」
「多分と言われてもそれは困る。まずはその考えに至った根拠を示すべきだと主張する。然る後に誰が検証のために扉を開けるかを検討すべきだ。当然、その役目から長子は外されるのは正当な権利であることを申し添えておく」
「おい!止まるな!オークの奴がこっちを見てやがるぞ!」
左側の尖閣に続く木製の扉を開けたシエルは、大ホールで右往左往する少年たちに向って叫ぶ。
「こっちから外に出られますよ!外に出られる別の扉があります!早く!」
「か、かたじけない!!」
少年たちは別の扉を開けて城外に出るが、シエルは尖閣の頂上を目指して螺旋階段を上り始めた。
「フローラ殿!!われわれは応援を呼んできます!!それまで何とか……」
「お、おい!おまえ!捕まえなくていいのか?」
「それどころじゃないだろ!!魔物が城内に侵入しているんだぞ!!」
意見が分かれて言い合いをしている少年たちを振り返ろうともせず、シエルはひたすら頂上を目指した。少年たちと行動を共にしても捕えられて罪を問われるだけだからだ。
それくらいならいっそのこと、尖閣に立て篭もった方がましだった。自分が持っている宝刀がなければリエナ・アントーニアはヴェンデンで戴冠式を挙行出来ない。それを行賞材料にするしかなかった。そのためにはまず魔物から逃れることが先決だった。
もう、シエルにはヴァーリーリエの人間として少年たちと行動を共にするという選択肢はなかったのだ。
やがて左側の尖閣の最上階に着く。部屋に飛び込むとシエルは内側から扉の鍵を閉めた。
「はあ……はあ……」
これでやっと人心地つけると思った時、白い石の床に次々と光の輪が広がったかと思うと、その中からぬうっとあの木人形たちが姿を現したのだ。
「い、いやあああ!!もういやだよぅ!!どうなってるの!!」
唯一の出入りである扉の前にも木人形が立っている。追い詰められたシエルに残された道はただ一つだった。
雨どいの補修工事のためにヴァーリーリエ城を訪れた職人が置きっぱなしにしていた梯子が視界の隅に入る。幸いにして部屋の奥側にはまだ木人形の姿はない。シエルの決断は早かった。
梯子を立てると天窓を開けて尖閣の屋根に上がる。そして振り向き様に梯子を足で蹴って倒す。木人形たちに梯子を立てる知能などないに違いない。事実、シエルがいる天窓の下に集まるだけで誰も足元の梯子には関心を示さなかった。
ようやく追っ手から開放されたシエルは全身から力がどっと抜けてその場にしゃがみ込む。ここまでほとんど反射的に行動してきたシエルは、西の山の稜線に差し掛かっている夕日を見てふと我に帰った。
黄昏に染まるヴァーリーリエ城を眼下に見下ろしていることに気が付いたのだ。足が竦んだ。逃げている途中で靴は脱げてしまっていたが、もう恥ずかしがる余裕すらなかった。
「こ、怖いようぅ……ひっく……お母様……お父様……ひっく……」
この時代の王族では珍しく、シエルの母、ヴェンデン伯夫人は自分の子供の養育に乳母を付けずに全て自らの手で育てていた。その影響からか、ヴェンデン伯一家は家族で演奏会を開いたり、ピクニックに行くなど、実に家庭的だった。
子供の頃から不運だったシエルは生傷が絶えなかったが、どんな時でも母親は暖かく、そしてどこまでも優しかった。
その母親にシエルはいつも御伽噺をおねだりしていた。そのお伽話の英雄こそ、騎士マーヴェラスだったのだ。
「お母様ぁ……お母様ぁ……うっ……うっ……」
マーヴェラスは竜に跨っていつも不幸な姫君のピンチを救ってくれるのだ。幼い頃のシエルは目を輝かせて何度も何度も騎士マーヴェラスのお話を母におねだりしたものだった。
寝つきが悪く、そしてあらゆる災厄に巻き込まれていたシエルにとって、母直筆の騎士マーヴェラスが書かれた抱き枕は宝物の一つだった。
その抱き枕もどさくさに紛れてどこかにいってしまっていた。
神様……どうか私をお救い下さい……私にもあの騎士マーヴェラスのような救世主が現れんことを……
シエルは静かに天に祈りを捧げた。いつの間にか塔の下には人だかりが出来ていた。近衛兵に混ざってシエルの知っている人々の顔もあった。侍女長のリューネやアリナの姿も見える。
「アリナ様……申し訳ありませんでした……」
姉を持つなら貴女のような方を持ちたかったです……
急に後ろから強い突風が吹く。危うくバランスを崩すところだったがどうにか持ちこたえる。しかし、突風と思われたかぜは断続的に続いた。まるで巨大な扇で煽られているかのようだ。
シエルを大きな影が覆う。それとほぼ時を同じくして地上から叫び声が聞こえてくる。
「竜だ!!飛竜が現れたぞ!!」
り、竜……?ま、まさか!騎士マーヴェラスが!
慌てて後ろを振り返ったシエルの目に映ったものは、
「くふふふ!よくも我輩の水も漏らさぬ完璧な計画を台無しにしてくれやがりましたね!小娘が!」
ゴンドラを載せた体長3mを超える飛竜の成体に乗る黒ずくめのローブをまとった男の姿だった。とても危機に瀕したお姫様を颯爽と救ってくれるとは思えなかった。
「ひ、ひええええ!!」
「さあ!お前が盗み出したそのヴェンデンの家宝をこちらに渡してもらいましょうか!くふふふ!まったく!余計な手間をかけさせやがる奴ですね!」
不運すぎるよぅ……
シエルは思わずその場にへたり込んでしまった。
折から吹き荒れる強い風に煽られて立ち上がることさえままならず、ただ無為に時間だけが過ぎ去っていく。自分の非力と不運を思うと不屈のヴェンデンはついにその円らなダークブラウンの瞳から涙を零していた。
まだ……わたくしは何もしていないのにぃ……
シエルは再び天に祈る。騎士マーヴェラスのような英雄の到来を。
恐らく、この不運の姫君の祈りは森羅万象の唯一神に届いたに違いない。
なぜなら不屈のヴェンデンの前に”英雄”が現れるのは、このすぐ後のことだからである。




