18 空虚
智花は呆然とした。
そこには役所でもらえる、A3の緑色の用紙が光雄の印鑑を押した状態で、封入されていた。
離婚届とプリントされたその書類を再び見て、智花が光雄を見つめた。
「見ての…通りだ。右足を…失った今、僕は君や…二人の娘を…養って行くことは出来ない…」
きっと
「でも……私だって働けば……」
必死に言葉を選ぼうと、智花は涙を拭うこともしなかった。
光雄は智花の気持ちも良く判った上で、心の葛藤を抑えながら言葉を続ける。
「今まで……本当に……ありがとう……。支えてくれて……ありがとう……」
ありがとうって何?今までの私達って何?
その一言が、智花に火を付けた。
「私達!夫婦でしょ?何一人で背負い込もうとしてるの?何でも二人で解決していこうよ!何弱気になっているの?」
あまり智花が強気になるところは、見たことがない。考えさせて…とか、泣きながらごめんなさいとか、
そう言ってくると思っていて、こうなる事を予見していなかった光雄は、たじろぎながらも反論した。
「し……仕事中の事故……じゃないし、会社は使えない……人間を置いておけるとは思えない。そして、片足のない人間……を誰が雇うって言うんだよ?」
確かにそうだ。経済界では景気回復とかが話題になっているが、日本経済自体、まだ潤っているとは言えなかった。雇用も健常者が優先だろう。
「それに……」
言うべきか言わないべきか一瞬迷ったが、智花の気持ちをこちらから離させる為に、敢えてこう言った。
「ご主人様とやらに、娘……共々養ってもらえばいい……じゃない…か!」
「!」
智花は言葉を失った。最愛の夫は知っていたのだ。
棺桶まで持っていかなければならない、絶対知られてはいけない秘め事を。
「それ……ちが……違うの…。違うんだから。」
なんとか取り繕うとしたが、悲しい事にそれは紛れもない事実であった為、言葉が出てこなかった。
しばらくの沈黙の後、光雄は何かを振り切ろうと意を決するように、智花を見た。
「とにかく…しばらく一人にさせて欲しい。帰っ…てくれ…お願い…しま…す。」
最後は懇願の言葉を呻き、光雄は苦しみ出した。
医療機器が、けたたましい警報音を出し始めた。看護師が血相を変えて入室してきて、智花を病室から追い出した。
『中林さん?中林さん!大丈夫ですからね!』
『頼む!出て行ってくれ!出て行け!一人にさせろ、グォァ、』
中から聞こえる叫び声を聞きながら、智花は自分のした行為を思い出し、何も動くことは出来なかった。
「矢嶋警部、準備は出来たか?」
松谷警察署では、誤認捜査の後片付けが始まっていた。それは、当該事件の再捜査の開始を告げるものでもあり、事故は交通課が主体となり、向精神薬の件は、署の対応ではなく、県警本部の薬物銃器対策課が行う事になった。
まずは署の方針を全体に周知し、近隣の署と派出所に通達する。
その上で、署長、副署長、取り調べを行った課長が、光雄の入院している病院に謝罪に行く事となった。
ハイヤーが来るのは午前11時だ。
間も無くその時間になる。
しばし前、松井副署長は、署長に相談をしていた。
光雄の勤めるハイヤー会社に、日協医大病院迄の送迎を頼みたいという件である。
当初経費削減等の風当たりが強いとの理由で、難色を示していた署長だったが、以前光雄のハイヤーに乗車した経験がある事と、せめてもの償いで、市民団体からの追求があった際は、松井が全額自腹を切るという条件で承諾したものだった。
ハイヤー会社は、当日の朝にいきなり予約を入れた所ですぐに対応できるはずは無いものであったが、幸いにして土曜日だったため、アルファードであれば、1台確保できた。
松井自信が予約をいれた際、今回の事故について話すべきか迷ったが、敢えてスルーする事にした。
ビシッとスーツで決めた乗務員が、松井らを出迎えた。
乗務員からすれば、与えられた任務は有無を言わせず全うすべきなのであるが、営業所からこの遠距離で、実際の乗車は僅か数キロ。
何故このような仕事が来たのか不思議ではあった。
あったが、黙々と経路などの確認を行った。
通常タクシーの場合、身分の序列で座席は助手席後ろ、運転席後ろ、助手席となる。
ハイヤーの場合は後席の配置がひっくり返り、上座は助手席後ろとなる。
これは、万一の際に、運転手が身を挺して右側に障害物に対応するという事に起因するものである。
何故タクシーは運転手の後方か?
普通であれば、運転手は自分自身の身を守るために右にハンドルを切るものであるからだ。
それがハイヤーでは、徹底的な教育で自身の身を削れと刷り込まれているのである。
話が逸れた。
松谷署の場合、松井は運転席後方の席となるのであるが、敢えて助手席に自分が座り、矢嶋を3列目に座らせた。
この運転手と話がしたかったからだ。
さすがにハイヤーだ。
自分も同等のワゴン(エルグランド)に乗っているのだが、いつスタートしたのかわからない加速、ふんわりとしたブレーキ。高額な料金も納得がいく。
姉が使いたがるのも尤もだ。
松井は感心しつつもその乗務員に聞いてみる。
「運転手さん?いい腕してますね。以前中林さんという運転手さんのクラウンに乗ったが、それに勝るとも劣らないよ。中林さんって、ご存知ですか?」
「はい、存じ上げております。」
話がどうも続かない。
そういえば中林さんの時も、理事会とかの時の饒舌な彼からは想像出来ない様な立ち振る舞いだったっけ。
松井は知らなかったが、話を膨らませないのはハイヤーマンの基本なのだ。
彼の、中林さんの日常が知りたい。聞いてみたい。その欲望に松井は駆られる。
「実は……これから行く病院に中林さんが入院しているんだ。」
「あいつが……失礼致しました、彼が入院ですか?でも何故お客様がそれを……」
「昨日のニュースを知らないか?交通事故にあったんだよ。その時にね」
「副署長!それはダメです。警察の威信に関わります!」
3列目から矢嶋が叫ぶ。そこに署長が口を挟む。
「今更何を言うんだね?既に誤認捜査の件は、公表済みではないか?」
「しかし……失礼致しました」
思わぬ署長の強い口調に、口をへの字に曲げ、矢嶋は黙った。
「その時、麻薬所持の疑いで我々は中林さんを誤認逮捕しそうになったんだよ。そのお詫びにお宅をお願いしたという事だ。」
その件だけではない。
光雄に、智花との秘め事についても詫びなければ。
そう思い、松井は目をギュッと瞑った。
少しづつそれぞれの人間関係が明らかになってきます。
あなたはハッピーエンドがいいですか?
それともアンハッピーエンドがいいですか?
どちらも見てみたいですか?