プロローグ ネジレの始まり
人の幸せの価値観とは杓子定規では測れないもの。
都内でハイヤーの乗務員をしていた中林光雄は可もなく不可もなしという人生を送っていた。
埼玉県にマンションを購入し、子供は娘が2人。子育でてんやわんやの妻の4人でささやかながらも家族を支えているという実感を得ていた。
『最後の転職にしませんか?』
前職で閉塞感を感じていた時に、偶然インターネットで目にしたハイヤー会社の求人バナーをクリックしたところから、光雄のハイヤー乗務員としての再出発が始まり、入社して半年、そこそこ様になってきて、収入も前職の1.5倍ほどにもなった。
確かに仕事はきつい。泊まり込みは当たり前。不規則。
しかし前職での収入の不安定さで妻には我慢をさせていたのは判っていたので、なんとか普通の主婦並みにおしゃれにもお金がかけられるようになったのだ。
今日は8月26日。
20年前に光雄が妻の智花と付き合い始めた日。
配車デスクに残業を頼まれたが、頭を下げ丁重に断り、商売道具であるクラウンを簡単に洗車して、早々に電車に飛び乗った。
いつもは帰るコールをした上で帰宅していたが、光雄は最寄りの南松谷駅の駅ビル内の不二家で、家族4人分のケーキを購入し、家に着いたらいつものようにおどけながら『ジャーン』とケーキを披露するつもりであった。
買い物袋をぶら下げて、いつもの道路を15分かけて自宅のマンションに歩いていた。
この後きっと3人ともびっくりするのだろうな。
どんな顔をするんだろうな?
顔をほころばせ、光雄はささやかな幸せを感じていた。
その時までは。
駅から少し離れた貨物ターミナルの辺りに差し掛かったとき、霧雨で薄く濡れた路面を何かが滑るような音がした。
次の瞬間、光雄は右脚辺りに強い衝撃を感じ、体が宙に浮いた。
一体何が起きた?
そう感じると同時に今の場所が、雨の土日になるとドリフト族が出てくる場所とピンときた。
右肩と右脚にのし掛かる重さと何かが砕ける音、そして激しい痛みを感じたが、不思議と光雄は冷静に周りの状況を判断していた。
そう訓練を受けていたのだ。
…こういう時には、まず相手の確認、言動の記録、、録音っと。
えーと、いま僕は車にひかれて、立場は被害者。
光雄は胸ポケットからiphoneを取り出し、こういう時の為に一番目の画面に置いてあったボイスメモを立ち上げ、録音を開始した。
大きく息をして、今の状況を吹き込む。
車から男女が出てくるのが判ったが、どんどん意識が遠のく。
『どうすんのよ!だからやめようって言ったじゃない!』
『うっセーよ!せっかく新しいドラッグで決めてたのに、何でこんな所におっさんがいるんだよ!うぜえ』
男はそういうと光雄の腹を蹴り飛ばした。
ぐっ、と光雄は呻いた。
『この人まだ生きてるよぅ、救急車と警察を呼ぼうよ』
『っせーんだよ。待てよ?伯父貴がいるじゃん!ミズホ、携帯貸せよ。』
そうか、このおんなはミズホというんだ。
『トシキの携帯で掛ければイイじゃない?』
『脚をつけないようにするんだよ。貸せ!』
トシキとミズホだな。
あれ?なんかあたまがほーっとする、あしもいたくなくなってきたや。なんかきもちよくなってきた。なんかつかれちゃったな。
ごめんともか、つばさ、あおば、おとうさんけーきとどけられなかったよ…
いよいよ以て光雄の意識が混濁して行く。
『…伯父貴?……引いて……モカの調教中?…俺は?…そのままだね。
……脚はつけないようにするさ。……ミズホも飛ばせば……』
『嫌っ、やめ……何を……』
女の悲鳴にも似た叫びを聞いた所で光雄の思考は途切れた。