第百一話 混乱
「おい!これはどういうことだ!」
机を叩く音が部屋に鳴り響く。
重たい木机が鈍く震え、上に置かれていた書類や茶器がかすかに跳ねた。
張り詰めた空気の中、その音だけがやけに大きく響く。
レオンの館、その一室。
つい先ほどまで外交と確認のために使われていたはずの部屋は、今や一触即発の空気に包まれていた。
オリビア達がレオンのところについた時には、すでにイリーナがそこにはいた。
扉を開けた瞬間に飛び込んできたのは、怒気を露わにしたイリーナの横顔と、険しい表情で立ち上がるレオンの姿だった。
部屋の隅には兵が数名控え、だが誰も軽々しく口を挟める雰囲気ではない。
緊張が、まるで見えない刃のように室内に張り巡らされていた。
「私にもわからん。なんの報告も受けていない」
レオンもイリーナも知らない様子。
レオンの眉間には深く皺が刻まれていた。
帝国の人間である彼にとって、この状況は弁解のしようもなく最悪だ。
だが、その声音には誤魔化しも濁しもなかった。
本当に知らない。
そうとしか思えないほど、彼自身も混乱の渦中にいた。
「なにが起きてるの」
オリビアが口を開く。
その声を元にイリーナは険しい表情を部屋の入り口へ向ける。
短い問いだった。
だが、その一声が不思議なほど場の熱を断ち切った。
怒鳴り合いになりかけていた空気が、そこで一度だけ止まる。
イリーナは舌打ちしそうな顔のまま、それでもオリビアへ視線を向けた。
「どうもこうもない!帝国が軍を率いてここへ向かってる!それをレオンが知らないと言いやがる」
言葉には苛立ちと警戒が露骨に混じっていた。
王国軍の大隊長として当然の反応だ。
今この瞬間にも敵かもしれない軍が近づいてきている。
しかもそれが、さきほど合意を結んだ相手国の軍だというなら、怒りも疑念も生まれて当然だった。
「事実だ。私たちも今なにが起きているかわからないのだ。急ぎ伝令はすでに届けてある。三者合意が成された今、我々が動く意味がない」
レオンの声も強い。
普段の落ち着いた物腰は保っているが、その内側にある焦燥は隠し切れていなかった。
ベルファルドでの三者合意――それが成立した直後に帝国軍が動くなど、外交そのものを破壊する行為だ。
彼自身にとっても到底看過できるものではない。
「そんなの、わからねーだろ。情報だけ仕入れ、同意し油断させたところを包囲して叩くこともできる」
イリーナの疑いは鋭い。
現場の指揮官としては、最悪を想定するのが当然だった。
しかも、こういう裏切りは戦場では珍しくない。
理屈の上では、十分にあり得る。
だからこそ、彼女の視線はなおもレオンを刺していた。
「そこまでにしましょう。憶測でいくら話しても答えは出ないわ。すべてを事実だと仮定し、対策を取りましょう」
オリビアは二人を制止し、これ以上、無用な言い争いを防ぐ。
その声は静かだったが、強かった。
怒りでも威圧でもなく、ただ真っ直ぐに場を支配する声。
互いに疑い始めれば、それだけでこの場は崩れる。
オリビアはそこを瞬時に見抜いていた。
今必要なのは、責任の所在を決めることではない。
次の一手だ。
「まずは戦闘準備を行いながら、伝令の報告を待ちましょう。エヴァは帝国軍と共に、マグナスは王国軍と共にセレスティアの指揮をお願い。エルビスは先行して帝国の伝令と共に行動して。各自行動を開始して。アリアは私とここに」
オリビアは実に的確に、そして迅速に指示を飛ばした。
迷いがない。
誰をどこへ置けば、最小の疑念で最大の連携を維持できるか。
それを考え抜いた上での配置だった。
エヴァを帝国軍側へ、マグナスを王国軍側へ置くことで、双方の監視と信頼を同時に成立させる。
エルビスを先行させることで伝令の確度も上げる。
そしてアリアをここへ残すことで、事態の全体像を把握できる目を確保する。
短い時間で組み上げたとは思えないほど、隙のない判断だった。
「双方これで一旦お互いを疑うことは必要ない」
オリビアは力強い眼差しで二人を見た。
その瞳は揺らがなかった。
今この場で必要なのは、完全な信用ではない。
疑いを抱いたままでも、崩れない形をつくることだ。
そのための言葉だった。
「ふっ、これが銀の戦乙女か」
レオンはその様子を見て、素直に感心していた。
戦場で名を馳せる理由が、ようやく腹に落ちたのだろう。
ただ強いだけではない。
混乱の中で人を動かし、敵味方の線が曖昧になりかけた場でなお判断を通す。
その才は、確かに一国の将に匹敵していた。
「あぁ、わかった」
イリーナもしぶしぶ納得した様子だった。
苛立ちは消えていない。
それでも、今のオリビアの判断が最善だということは理解したのだろう。
腕を組み、短く息を吐くと、それ以上は何も言わなかった。
「お茶を淹れよう」
レオンはそういうとコップへ紅茶を注いだ。
その仕草は場違いに見えるほど静かだった。
だが、だからこそ意味がある。
兵たちの足音が行き交い、外ではすでに戦支度が始まっている。
その中でこの部屋だけは、無理やりでも冷静でいなければならない。
注がれる紅茶の細い音が、張り詰めた神経をわずかに緩めた。
**
トントントン
コップの紅茶が無くなる頃、扉をノックする音が緊張に包まれた部屋に鳴り響く。
先ほどまでの激しい叩き方ではない。
だが、その控えめな音がかえって不気味だった。
部屋の全員が同時に視線を向ける。
誰も口を開かないまま、レオンが低く入室を許した。
「伝令です。こちらへ進行中の軍はやはり、て、帝国軍でした。ただ…」
兵の顔色は悪かった。
報告を持ってきたというより、報告そのものに呑まれそうになっているような表情だ。
言葉の最後が揺れる。
「ただ、なんだ。早く言え」
レオンがその答えを催促する。
焦りが滲んだ。
帝国軍であることはもうほぼ予想通りだった。
問題はその先だ。
誰が、何のために動いているのか。
「雷閃師団です」
「な、なんだと、帝国の最高戦力の一角がなぜこんなところにこんなタイミングで」
レオンは訳がわからないと言った顔だった。
雷閃師団。
その名が落ちた瞬間、部屋の空気がさらに一段重くなる。
ただの帝国軍ではない。
帝国内でも切り札とされる実戦部隊。
その一角が、こんな外交の節目に、ベルファルドへ向かっている。
常識的に考えればあり得ない。
だからこそ、不気味だった。
「いよいよ、意味がわからないよ。帝国はなにをしたいんだ」
イリーナも困惑の色を隠せない。
もし帝国が本気でベルファルドを押さえに来るなら、それは三者合意を踏み潰すどころの話ではない。
全面的な火種になる。
そんな愚を、このタイミングで犯すのか。
彼女の表情には怒りよりも先に、理解不能への苛立ちが浮かんでいた。
「その方達の目的はなにかわかりますか?」
アリアの澄んだ声が困惑を割く。
落ち着いた声音だった。
だが、問いは鋭い。
混乱している時ほど、物事は単純に切り分けるべきだ。
誰が来るのか。
ではなく、何をしに来るのか。
その一点へ、彼女は場の視線を戻した。
「は、はい、目的はセレスティアだとのことです」
「そういうことね。わかったわ」
オリビアは直感した、この軍の目的は、いや、リュカ・ヴェルナーの目的は自分だと。
胸の奥で、ばらばらだった線が一気に繋がる。
雷閃師団。
タイミング。
セレスティアを名指しした進軍。
その中心にいるのが誰かなど、考えるまでもなかった。
国家としての戦ではない。
あれはもっと個人的で、もっと執着に満ちた進軍だ。
「レオン伯爵、イリーナ大隊長。おそらく、いえ、十中八九、彼の目的は私です。双方の軍を下げて貰えますか?無駄な血は流したくありません」
その言葉に、部屋の空気がわずかに揺れた。
自分を狙って来る敵。
その前に立つことを、オリビアはすでに決めている。
だからこそ余計な衝突を排したいのだ。
ここで帝国軍と王国軍がぶつかれば、それこそ敵の思う壺になる。
「よかろう。私とて、同じ帝国軍と事を構える気はない」
レオンはすぐに頷いた。
彼にとっても望まぬ戦だ。
ここで兵をぶつければ、帝国内部の問題がさらにこじれるだけでなく、ベルファルドの信用そのものが崩れる。
「わかった。ただ、あんたは今軍は持ってない。どうするつもりだ」
二人の視線がオリビアに向けられる。
セレスティアは今、この街に全軍を展開しているわけではない。
大部隊で受ける形ではない以上、どう動くのか。
それを問うのは当然だった。
「大丈夫です。考えはある」
短い返答。
だが、そこに不安はなかった。
すでに頭の中で手はできているのだろう。
誰を使い、どこで受け、どう終わらせるか。
その全てを、この短い時間で描いている。
「アリア、あなたはここで事の顛末を見ていて」
「わかりましたわ。ご武運を」
アリアの声もまた澄んでいた。
引き止めることはしない。
今ここで最も前へ出るべきなのが誰かを、彼女は理解している。
こうしてオリビアは部屋を出て、外へと向かったのだった。
扉が閉まる。
その向こうでは、夜のベルファルドが慌ただしく揺れていた。
兵が走り、伝令が飛び、緊張が街を覆っていく。
その中心へ、オリビアは迷いなく歩み出す。
混乱はまだ始まったばかりだった。




