第九十九話 退く理由
低く、弦の音が鳴った。
びぃん――!!
空気を震わせるその一音は、戦場の喧騒の中でも不思議とよく通った。
キャシアスは、第二防壁を見上げたまま動かない。
その背に、ルーカスが一歩近づく。
「大隊長。ご命令を」
短く、しかし急かすように言う。
既に戦場は動き始めていた。
第一防壁の上――
カイルの指揮のもと、砲撃の再装填が完了しつつある。
そして、第二防壁の上では――
「照準、合わせ!」
リーヴァの声が静かに響く。
その隣でフィオが短く補足する。
「逃がさないわよ」
両防壁。
挟撃の準備が、整う。
その事実を、キャシアスも、ルーカスも理解していた。
「……ルーカス」
ぽつりと、キャシアスが呼ぶ。
「隊を使って、時間を稼げ」
「――何を」
言いかけた、その瞬間だった。
キャシアスはすでにハープを構え、詠唱へと入っていた。
空気が変わる。
地面が、微かに震えた。
「ッ……」
ルーカスは歯を食いしばる。
「相変わらず、有無を言わせないッ……!」
だが、理解はしていた。
この男が“そうする”時は、それが最善手だと確信している時だ。
「全隊、円陣を組め!大隊長を守れ!」
即座に指示を飛ばす。
兵たちが動く。
盾が重なり、魔障壁が幾重にも展開される。
その直後だった。
ドゴォォォォォン!!
第一防壁から、砲撃。
続けざまに――
ゴオォォォォォン!!
第二防壁からも、魔導砲が唸る。
挟撃。
それも、先ほどとは比べ物にならない精度と密度。
「ぐあっ……!!」
「く、くそ……!!」
盾兵が軋む。
魔障壁が悲鳴を上げる。
「うわあああぁ!! さっきと火力が段違いだ!」
兵の一人が叫ぶ。
当然だった。
今度は“迎撃”ではない。
――“殲滅”だ。
逃げ場のない空間に閉じ込められた王国軍へ、
容赦なく火力が集中している。
土が弾け、肉が裂け、叫びが上がる。
それでも。
「持ちこたえろ!!」
ルーカスが怒鳴る。
「崩れるな!隊列を維持しろ!」
その声に、兵たちは歯を食いしばる。
しかしながら、ひとり、またひとりと倒れていく。
このまま崩れれば終わりだ。
ここで瓦解すれば、全滅する。
だが――
(……しかし長くは持たん!)
ルーカスは冷静に理解していた。
この火力。
この位置。
どれだけ粘ろうと、限界は近い。
その時だった。
ゴゴゴゴゴゴ――……
大地が、唸る。
キャシアスの足元から、明らかに異質な振動が広がっていく。
「……来るか」
ルーカスが呟く。
そして。
「《グランド・ブレイク》」
キャシアスの声が、静かに落ちた。
瞬間。
――大地が裂けた。
その場の全員が、強大な魔力圧を感知した。
ズガァァァァァァァァァン!!!
轟音とともに、地面が一直線に割れる。
それはまるで、巨大な刃が走ったかのようだった。
裂け目は、そのまま――
第二防壁へと叩きつけられる。
「なっ……!?」
リーヴァの目が見開かれる。
直後。
ガゴォォォォォン!!!
第二防壁が、揺れた。
石が砕け、壁面に巨大な亀裂が走る。
防壁上の兵たちが、体勢を崩す。
「この魔力……!」
リーヴァは思わず息を呑む。
「なんて……規模……!」
フィオも言葉を失う。
防壁は、持っている。
だが――
無傷ではない。
確実に、“削られた”。
「ぐっ……第二防壁…フィオは無事か!?」
カイルが襲い掛かる魔力圧を弾きつつ、低く呟く。
その目は、完全に驚愕のものだった。
だが――
その瞬間だった。
強烈な魔力圧がピタッっと静止した。
「……もう、いいだろ」
ぽつりと。
キャシアスが言った。
ルーカスが、はっと振り向く。
今の一撃でプラチナム側の砲撃は停止していた。
「……は?」
「これ以上やると、割に合わねぇ」
あっさりと。
本当に、あっさりと。
キャシアスはそう言った。
「壁は壊せる」
淡々と続ける。
「でもな、その先で何人残る?」
「……」
「勝てる戦と、生き残れる戦は違う。
それにせっかくの拠点も壊しちゃ価値が激減だ」
その言葉に。
ルーカスは、言葉を失った。
そして、気付く。
キャシアスの呼吸が、わずかに乱れていることに。
義足の根元。
焼けたような匂い。
そして――
握られたハープの弦が、微かに震えている。
(……まさか)
限界。
この男ですら。
すでに、余力は残っていないのか。
「砲撃が止んだ今がチャンスだ。退くぞ」
キャシアスは軽く言った。
「……退く、のですか」
「当たり前だろ」
肩をすくめる。
「ルーカス、このままやったらお前死ぬぞ」
「……」
「オレも、もうこれ以上はごめんだ」
軽く、自分の脚を叩く。
「片脚無くすだけで、十分だろ?」
くつくつと笑う。
だが。
その判断は、あまりにも的確だった。
数秒の沈黙。
そして――
「……全軍、後退!!」
ルーカスが叫ぶ。
「隊列を維持しろ!崩れるな!撤退だ!!」
王国軍が、素早く動き出す。
それは敗走ではない。
統制された、撤退。
その様子を――
第二防壁の上から、リーヴァは静かに見下ろしていた。
「……退いた」
ぽつりと呟く。
「……危なかった」
フィオが目を細める。
「主力が居ない時とはいえ、これほど消耗させられるなんて」
カイルが鼻で笑う。
「当たり前だろ」
そして。
「“あれ”が、大隊長ってやつだ」
戦場に、再び静寂が戻っていく。
だが――
誰もが理解していた。
これは終わりではない。
ただの――
“始まり”に過ぎないと。
ーー続く




