7.小鬼
「きゃああああああァァァッッッ!」
パァアアンッッと激しい音を立てて助手席の窓が砕け散る。槍はそのままフロントガラスに突き刺さり貫通、全体に放射線状のひびを残して車外へとすっ飛んでいった。小牧が両手で顔を押さえて悲鳴を上げている。
「――――ッッ!」
望月はシフトをDに叩き込み、アクセルを思い切り踏み込んだ。唸りを上げるエンジン、白煙を噴き上げる後輪、急発進の慣性が身体を座席に押し付ける。
「小牧ちゃんッ怪我は?!」
「だっ大丈夫です……!」
どうにか声を振り絞る小牧。ガラスの破片を全身に浴びてしまったが、幸い怪我らしい怪我はしていない。
眼前、フロントガラスに穿たれた風穴を見て、小牧は今更のように身体が震え出すのを止められなかった。
(もうちょっとで、刺さってた……!!)
槍の穂先が髪を掠めていく生々しい感触。あの緑色の怪物が槍を投擲した直後、反射的に顔を引っ込めていなければ頭部を抉り取られていた。強化ガラスを二枚、楽々と打ち抜いていく威力だ。悪ければ即死、よしんば一命を取り留めたところで、どうなっていたかなど想像もしたくない。
「クソッ何なんだコイツら!」
一方で、ハンドルを握る望月は動揺の色を隠せない。バックミラーの中には、トラックを追いかけてくる緑色の怪物たちが少なくとも十匹は映り込んでいる。
家の窓からこちらを見下ろす姿を見たときは、新手の座敷童子、あるいはそれに類するオカルト的な存在かと思ったが――トラックを追って疾走する姿を見れば、そんな考えは一瞬で吹き飛んだ。明らかに実体を持っているし、何より生命力に満ち溢れすぎている。
その姿はファンタジー系のロールプレイングゲームなどで雑魚敵として出てくる小鬼に似てなくもないが、人間に比べれば遥かに身体能力が高そうだ。知能はそれほど高くないようだが、武器を使うという一点では下手な肉食獣より厄介だろう。そしておそらく、その性質は肉食獣と同等以上に凶暴――走って追いかけてきているのは、決してじゃれ合うためではないはずだ。
(にしても走るのクソ速いな!)
長い手足を振り、どたどたと走る様は見るからに不恰好だが、その実かなりの速度が出ている。あんな汚いフォームであの速さを出せることが望月には信じられなかったが、幸い自動車に追いつけるほどではないようで、両者の距離はぐんぐんと開きつつある――
「――望月さん、前ッ!」
小牧の声。
ハッと前を見れば、民家の陰から何かが飛び出してくるところだった。咄嗟にブレーキを踏むが、間に合わない。
衝撃、ドゴンッと鈍い音、「ギャッ!」という悲鳴。
ビシッ! とひび割れが悪化するフロントガラスの向こう、緑色の小柄な体躯が吹っ飛んでいく。望月が撥ねてしまったのは、後方から追いかけてくるゴブリンと同種の個体だった。そのまま電柱に叩きつけられたゴブリンは、手足を妙な方向に捻じ曲げて血の泡を吹きながら悶え苦しんでいる。
肌は緑色なのに血は赤いんだな、などとどうでもいい考えが浮かんだが、「ギャッギャッ!」「ギギィーッ!」と続けて聞こえてきた鳴き声に、そんな下らない思考は押し流された。
見れば、民家から、塀の陰から、茂みの中から、わらわらと姿を現すゴブリンの群れ。その数は十や二十では収まらない、見る間に五十を超えようとしている。
(多すぎだろ……!)
望月の顔が引き攣った。蟻の軍勢のようにどんどん増えていく緑色の怪物に、隣の小牧が「ひぃぃ……!」と絶望したような声を上げている。
(光の柱が原因か!? クソッ、どっちにせよこのままだとヤバい!)
ちらりと前方にそびえ立つ赤い光の柱を睨み、望月は速やかにトラックをUターンさせた。『前方に五十ゴブリン、後方に十ゴブリン』の状況なら引き返した方がまだマシだと判断したからだ。
「小牧ちゃん、頭下げて!!」
「はいいぃ!!」
半泣きの小牧にダッシュボードのあたりまで頭を下げさせ、望月はこちらを追いかけてきていた十匹程度の群れに突っ込んでいく。
ブヲヲオオン!! プァパパパパパパパァ――ッ!!
「オラオラァ――ッどきやがれ! 轢き殺されてえかァ――ッ!!」
叫びながら、盛大なクラクションとパッシングでゴブリンたちを威嚇。数匹は怯んで立ち止まったが、他はむしろ闘争本能を刺激されたらしく、先頭の一匹に至っては手斧を投げつけてきた。
「うおォイ!!」
回転しながら飛んでくる手斧に、望月は反射的にハンドルを切る。辛うじて運転席を逸れた手斧はボロボロになっていたフロントガラスに突き立ち、それを完膚なきまでに打ち砕いた。
バシャーンッ! と粉々になりシャワーのように降り注ぐガラス片、雪崩れ込む外の空気、頭を下げたまま「もうやだああぁぁ!」と絶叫する小牧。
「畜生がァ――!!!」
ノーブレーキで突っ込んだ。手斧を投げたゴブリンを容赦なく撥ね飛ばし、望月も顔を伏せる。激しく揺れる車体、ガキン、ボゴッと金属がぶつかり合う音、ハンドル越しに何かぐにゃりとしたものを踏みつけ乗り越える感触。
ギャアギャアという耳障りな鳴き声が、段々と遠ざかっていく。
「どうにかなったか……?」
ハンドルにかじりついたまま、どこか呆然と望月。
どうやらゴブリンの群れは突破できたらしい、目の前には障害物の一切ない、長閑な田舎道が真っ直ぐに伸びている。
ああ、無人の車道のなんと清々しいことか――望月が肩の力を抜こうとしたところで、背後から「グギャアァ!」という鳴き声。
「もっ望月さん!!」
ちら、と窓から後方を確認しようとした小牧が、慌てて車内に顔を引っ込めて悲鳴のように叫ぶ。
「後ろっ! 荷台っ! 荷台っ!!」
「――クソッ飛び移ってきやがったか!」
小牧の言葉はほとんど説明になっていなかったが、状況は明らかだった。バックミラーで確認するまでもなく、荷台側から騒がしい鳴き声が聞こえてくる。少なくとも二匹以上――助手席側に鋭い爪を持つ手が伸び、ぎしりとガラスのなくなった窓枠を掴んだ。荷台からさらに車内に移ってこようとしているのか。
「こっちに! こっちに来ようとしてますっ!!」
「振り落とす! 小牧ちゃんしっかり掴まって!!」
言うが早いか、望月は勢いよくハンドルを回す。緩急を織り交ぜたドリフト走行だ。荷台のゴブリンたちは案の定大混乱で、あっという間に振り落とされていく。
「ギギッ……!!」
しかし、助手席側にしっかりとしがみついた一匹だけが、どうしても振り落とせない。窓枠を両手でがっしりと掴み、とうとう荷台から身を乗り出して助手席側に取り付く。
「ひっ……!」
小牧が息を呑んだ。
間近で見ると、その醜悪な顔の作りが際立つ。緑色の肌にぎょろりとした黄色の瞳、真っ赤な口には乱杭歯。
「ギシャァァッ!」
「いやああああ――ッッ!!」
威嚇の唸り声を上げるゴブリン、悲鳴を上げる小牧。片手を伸ばして腕を掴もうとするゴブリンに、反射的に身を引いた小牧は望月に縋りついた。
「あっ、ちょっヤバいッ!」
しかし、縋りついた先がまずかった。ハンドルを握る望月の腕。小牧の体重がかかって左腕が落ち、左へ急旋回したトラックは真っ直ぐに畑へ――
「うおおおアアッ!」
寸前に望月がハンドルを切り直し全力でブレーキをかけ、辛うじて落下を回避する。が、ガコンッと片側の前輪が道路脇の溝に嵌まり込んでしまった。
不幸中の幸いだったのが、脱輪の衝撃でゴブリンが畑に振り落とされたことだ。望月はどうにかリカバーできないか試みたが、そもそもハンドルの操作が利かなくなってしまったので、どうしようもない。
「クソッ!」
畑に落ちたゴブリンが車道に上がってこようとしているのが見えて、望月は車外に飛び出す。ゴブリンが道の端に手をかけて登ってくるより早く、望月は右腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。
(落ち着け……これは的当て、ただの的当てだ)
自分に言い聞かせ、撃鉄を起こす。
荒い息のせいで腕がぶれる。呼吸を止めた望月は、無理やり照準をゴブリンの胴体にあわせ――引き金を引いた。
タァンッ! と乾いた音が鳴り響き、ゴブリンが仰け反る。
すかさず数歩距離を詰め、続けてもう一発。胸を掻き毟ったゴブリンは、畑の上で咳き込みながらもがき苦しむ。おそらく、致命傷だ。
とりあえず一匹は始末したが――望月の表情が緩むことはなかった。むしろ後方を振り返って、その顔が絶望に染まる。性懲りもなくこちらに向かって走ってくるゴブリンの一団が見えたからだ。
トラックで爆走したこともありかなりの距離を稼げていたが、刻一刻とその差は縮まりつつある。ここで迎撃する、という選択肢はない。拳銃の弾丸は残り三発しか残されておらず、それ以外には碌な武器もないのだ。その上、周囲に田畑が広がるだけのこの場所はあまりに遮蔽物がなさ過ぎて、多勢に無勢の現状、有利な地形とは言い難い。
いずれにせよ、最善は逃げの一手だ。最後の希望、バイクを――と荷台を見やった望月はしかし、脱力感でその場に崩れ落ちそうになった。先ほどのドリフト走行で振り落としたのはゴブリンだけではなかったと気付いたからだ。
「……小牧ちゃん、動けるか!?」
挫けそうになる心をどうにか叱咤し、小牧に声をかける。
「あ、あの……わたし、わたし……」
ふらふらと車から降りた小牧は、顔を真っ青にしていた。トラックが脱輪し、使えなくなってしまった直接の原因が自分にあると思っているのだろう。
「ごっごめんなさいっわたしが引っ張ったせいで……!」
「いいから! 逃げるぞ!!」
小牧の手を掴んで走り出す。右手の拳銃が、酷く頼りなげに感じられた。
走る。
真っ直ぐに伸びる、見晴らしの良い道を。
ハァッ、ハァッと荒い息をつきながら後ろを振り返る。ゴブリンたちがどんどん迫ってきていた。やはり走るのが速い――人間とは比較にならないほどに。
「つッ……!」
口から呻きが漏れる。望月の動きが、目に見えて精彩を欠いていく。踏み出す一歩一歩が、右膝に響いた。関節部に走る鈍い痛み。歯を食い縛って地を蹴る。望月の額からつっと脂汗が流れ落ちた。
「っ望月、さん、怪我っしたんですかっ?」
隣で息も絶え絶えに走りながら、小牧が尋ねてくる。右足を庇うようにぎこちなく走る望月に気付いたのだろう。
「いや……っ大丈夫」
言葉少なに、望月は答える。怪我はしていない、だとか。膝の具合が悪いのは昔から、だとか。言えることはいくつかあったが、口に出す余裕がない。
(まずいな……絶対追いつかれる)
元より走って逃げ切れるとも思っていなかったが、振り返るたびに縮まっていく彼我の距離に暗澹とした思いが募る。
どうする、などと自問自答するが、答えは最初からわかりきっていた。
望月の取れる選択肢は限られている。諦めるか、逃げ続けるか、戦うか。
まず諦めるのは論外だ。最後にどうしようもなくなって消極的に諦めるのならいざ知らず、この場で全てを投げ出すのは悪手に過ぎる。
逃げ続ける――これも、悪手といえば悪手だろう。追いつかれれば殺される可能性が非常に高く、このまま二人一緒に仲良く走って逃げても、問題の先送りにしかならない。
戦う場合は、小牧だけでも逃げられるよう努力するべきだろう。つまり望月自身が捨石となり時間稼ぎをする。小牧の生存率を上げるなら拳銃も渡した方がいい。
小牧を置いて自分が逃げる、という選択肢はなかった。男としての矜持――も、そうだが、現実問題として、おそらく小牧の方が――
ちらりと横を見ると、走りながら不安げにこちらを窺う少女と目が合った。
「……小牧ちゃん、もっと速く走れる?」
「……走れ、ますけど……けどっ……」
苦しそうに、しかしまだいくらかの余裕を残しながら、小牧が答える。その視線は心配げに望月の顔と足を往復していた。どれだけ持久力が続くかはさておき、もっと速く走ろうと思えば走れるが、望月に合わせて速度を落としている、と。そんなところだろう。
体力勝負の局面で年下の女の子の足を引っ張っている。そんな自分の情けなさに、きつく奥歯を噛み締める。
望月は、これ以上速く走れない。
膝の痛みが酷く、どう足掻いても、どんなに無理をしても、限界がくれば転倒してしまうのだ。何度も何度も繰り返し試したことがあるので、それはよくわかっている。嫌になるほど――
覚悟を決めるべきかもしれない、と思う。
「……小牧ちゃん」
望月は右手の拳銃を示す。
「ここが、撃鉄。……これを起こして、引き金を引けば、弾丸が出る」
走りながら、回転式拳銃の仕組みを説明する。
「……望月さん?」
「戻すときは、ゆっくりと、こうやって戻せば発射しなくて済む。それで、こっちが、安全装置だ」
「望月さん……何を、言ってるんですか?」
「使い方だよ」
怯えたような小牧に、望月は拳銃のグリップを差し出した。
「簡単だから、小牧ちゃんでも使えるはずだ。弾丸はあと三発入ってる。……これを持って逃げるといい」
「逃げるって……今、一緒に逃げてるじゃないですかっ!」
「俺は、これ以上速く走れないから。先に行ってくれ」
淡々と言う望月に、小牧は愕然としている。
「っそんな!」
「このまま二人揃って追いつかれるより、小牧ちゃんだけでも逃げた方がいいだろ?」
「イヤですよ、そんなの! 望月さんも、もっと、そのっ、頑張りましょうよ!」
「……これが限界なんだ。元々、右膝痛めててさ。俺、上手く走れないんだよ」
どこか悟ったような、淡い笑みを浮かべる望月に、絶句する。
「でも……!」
「どの道、このままじゃ追いつかれる。俺ができる限り時間を稼ぐから、その間に行くといい。早く!」
自己犠牲の精神、とは少し違う。望月だって好き好んで死にたいわけではない。しかし、この状況下から、二人揃って生存するビジョンが見えなかった。ならばせめて、少しでも合理的に動き、自分の存在を有効活用したい――少なくとも、『無駄』にはしたくない。
どうせ自分の足では逃げ切れないという思いもある。あの『光の柱』が見えた時点で引き返していれば、小牧を巻き込まずに済んだのに、という負い目もある。
いずれにせよ、自分の気が変わる前に、小牧には早く逃げて貰いたい、というのが望月の本音だった。
「……っ!」
小牧の顔が歪む。くしゃくしゃになって、今にも泣き出しそうに見える。それでいて怒っているようにも。ごしごしと服の袖で目を拭った小牧は、きっ、と望月を睨みつけた。
「……イヤです!!」
言い切る。
「だけど、小牧ちゃん――」
「――イヤです!!」
諭すような口調の望月を、重ねて遮る。
「昨日の夜、わたしを助けてくれたのは望月さんなのに! それなのに、望月さんだけ置いて、わたしだけ逃げるなんて絶対にイヤです!」
ぐすりと鼻を鳴らしながら、小牧は望月の右手側に回って腕を取り、不器用に肩を貸そうとする。
「右足が動かないなら、わたしが支えますから!」
「……小牧ちゃん」
「だから、そんな悲しいこと言わないでください!」
涙の滲む瞳で、望月を見上げる。
「お願いです、一緒に逃げて……!」
魅力的な、提案だった。望月の中の覚悟と虚勢が、萎れてしまうほどに。その代わり胸の内に、じんわりと熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「……わかった」
小牧は、望月に比べれば随分と背が低い。力だって強いわけでもない。
ただ、彼女の肩を借りて走ると膝の負担が減り、少しだけ楽になった。
ほんの、少しだけ――それでも、確実に。
「……ありがとう、小牧ちゃん」
小牧は、答えなかった。額に汗を浮かべ、走るのに必死だ。
二人してぎこちなく、二人三脚のようにして進む。望月が自力で走るより僅かに速度が上がっていた。足の負担が減ったこともあるが、望月にも意地がある。ここで倒れてなるものかと、歯を食い縛り力を込めて地を蹴った。時折、不意に足から力が抜けバランスを崩しそうになるが、そんなときは小牧が横から支えてくれる。
走る。
ひた走る。
ただ、二人の結束は強まったが、状況が好転したわけではなかった。望月の走る速度がマシになったとはいえ、怪物相手には分が悪い。ギャアギャアと背後から声が迫ってくる。振り返ればすぐ傍まで迫る、群れから突出した二匹のゴブリン。おそらくトラックの荷台から振り落とされた個体だ。
ちらり、と最後の確認をするように望月が隣を見やると、小牧がしっかりと意志のこもった目で頷き返してきた。
「……やるよ」
立ち止まり、望月はしっかりと拳銃を構える。残る弾丸は、三発。
迫るゴブリンは、一匹は無手、もう一匹は簡素な作りの短槍を手にしていた。殺せばあれを奪い取れる――という思考を押し流し、その黄色の瞳を睨みつけた。
「ギシャアァ!」
「ギュシィッ!」
威嚇の唸り声を上げるゴブリン。
望月は手前の短槍を持つ一匹に狙いをつけ、引き金を絞る。
タァンッ! という乾いた音とともに、銃口が跳ね上がった。
しかし――無傷。弾丸はゴブリンを逸れていく。
銃を構える手が冗談のように震えている。望月は自分で思っているよりも自身が焦っていることに気付いた。
(落ち着け……落ち着け。引き寄せろ)
残る弾丸は二発。当たらないなら、近づけて命中率を上げるしかない。ゴブリンたちは発砲音に少し怯んだようだが、特に影響がないと見るや唸りを上げて突っ込んできた。
望月は息を止めて、耐える。
そして五歩ほどの距離まで近づいたところで、再び発砲した。
銃口に散る発砲炎、ゴブリンのぎょろりとした瞳がぱっと赤い花を散らした。胴体を狙って撃ったのだが何故か顔に命中したらしい。眼窩から脳にかけてをシェイクされたゴブリンは、声もなくもんどりうって倒れた。からんからん、とその手からこぼれ落ちる槍。即死だ。
残る弾丸は、一発。
「ギィッ!?」
もう一匹のゴブリンは、再びの発砲と突然倒れ伏した相方を見て流石に怯んだようだ。発砲と仲間の死を関連付けられる知能はあるのか、突進はやめて一定の距離を保ち、望月を警戒の目で見ながらうろうろと動き回る。
動き回られるのが、望月としては一番やり辛い。
すぅ、と息を吸い込んだ望月は、「うおおおオオオオ!!」と咆哮する。全力の敵意と殺意を込めた、威嚇の叫び。
「――ギシャアアアァァッッ!!」
それに対抗して、こちらもまた全力で威嚇するゴブリン。立ち止まったところをこれ幸いにと発砲、ゴブリンは胸から血を噴き出してひっくり返った。
「撃ち尽くした、か……」
弾丸の切れた拳銃を手に、ぽつりと呟く望月。初めて手に取したときはずしりと重く感じられたものだが、こうしてみると呆気ないものだ。これ以上は役には立たないので望月はその場にホルスターごと捨てた。
道の果てを見やる。こちらに迫るゴブリンの群れ。十か、二十か――望月は途中で数えるのをやめた。急いで転がったままの短槍を回収する。
「行こう、ちょっとでも逃げよう」
「……はい」
ゴブリンの死体に背を向け、再び走り出す。幸いなことに、槍を杖代わりにすることで望月一人でもそれなりに動けるようになった。念のため肩に手を添える小牧とともに無心で走り続ける。
ちらりと振り返ってみれば、ゴブリンたちは一旦追跡をやめ、倒れた二匹の周りに集まっていた。まさか仲間を弔おうとしているのか、と望月が思った瞬間。
皆で一斉に喰らいつく。
グチャグチャ、バリバリ、ペチャペチャと、身の毛のよだつような咀嚼音がこちらまで聞こえてくる。仲間の死体を貪り食うゴブリンのうち、でろりと伸びた腸をスパゲティーのように咥える一匹と目が合った。
視線はすぐに逸らされる。しかしそのガラス球のような、無感情な瞳がひたすらに不気味だった。死亡直後の同族の遺体でさえ躊躇なく喰える連中だ、他種族の死体ならもっと気軽に口にするに違いない――
望月は顔を青褪めさせて、足を動かすのに集中した。
(しかし、ヤバいぞ……)
まさか仲間を二匹ばかり胃に収め、それで満足して帰るということはあるまい。望月たちがとろとろと徒歩で逃げ続ける限り、捕食しようと追いかけてくるだろう。逃げるにせよ戦うにせよ、このままでは駄目だ――と望月が考えたところで。
前方、道沿いに神社の鳥居が見えてくる。
「……小牧ちゃん」
「……なんっ、ですかっ」
ぜぇ、ぜぇと息をつく小牧は、かなりきつそうだ。これはどの道、長くは保たない知れないな、と思いながら望月は言葉を続ける。
「このまま道なりに逃げても追いつかれる。だからあそこの神社に立て篭もるのはどうだろう」
「……立て、篭もる?」
前方の、林に囲まれた小さな神社を見やりオウム返しにする小牧。
「ああ。道のど真ん中でヤツらに囲まれるより、社に立て篭もった方がまだマシだと思うんだ。出入り口さえ固められれば、相手にするのが一方向で済む。一方向なら槍でも戦いやすいし……勿論、それ以上は逃げられなくなるけど」
「…………」
望月の提案に、小牧は虚ろな顔で再び神社を見やった。彼女も薄々、察してはいるのだろう。自身の体力の限界を、そして、これ以上走っても逃げ切れはしないということを。
「……そう、しましょう」
「頑張ろう。連中だって生き物だ。俺たちがしつこく抵抗すれば、割に合わない獲物だと思って諦めるかもしれない」
望月はそう言って無理に笑ったが、小牧は小さく頷いただけだった。言った本人が心からそう思えていないのだから、説得力があろうはずもない。
「さあ、あとちょっとだ」
精一杯の早足で、神社に近づいていく。背後が段々と騒がしくなってきた。大方、仲間の死体を平らげてデザートでも探しているのだろう。追いつかれる前に、どうにかして社の中に立て篭もりたい。
しかし、神社の鳥居をくぐり抜けた直後。
望月と小牧は一瞬、足を止めた。
境内の真ん中。社の目と鼻の先。
石畳に、黒い何かが突き立っている。
「……何、あれ」
「……刀?」
二人の呟きはどこか呆然と。
――それは、一振りの太刀だ。
シンプルな拵えの黒鞘に納まった刀が、石畳に突き刺さっていた。
それも、鞘ごと。
よほどの力で穴を穿たれたのか、石畳は放射線状にひび割れ、粉々に砕け散っている。生々しい破壊の傷跡の中心地に、鞘に納まった太刀が凛と佇む。
それは非現実的な、そして何処か超然とした雰囲気を漂わせていた。
「なんで、刀がこんなところに?」
「……わからない。でも使えるなら助かる」
訝る小牧に対し、望月は無駄な思考を放棄した。あの『光の柱』と怪物の群れに比べれば、石畳に刀が鞘ごと刺さっているくらい、どうということはない。
社に向かって走る。いよいよゴブリンたちの足音が迫ってきた。
(使えるといいんだが……)
切実に願いながら、左手に槍を持ち直した望月は、刀に向かって手を伸ばし――
触れた。
ずるりと。
頭の中に『何か』が入ってくる。
「――ぐぁッ!?」
異様な感覚。視界がぶれる。
からん、と槍を取り落とし、望月はその場に崩れ落ちた。
「――望月さん!?」
慌てて小牧が駆け寄ろうとするが、「グギィッ!」という鳴き声にハッと周囲を見回す。
ゴブリンだ。
神社を取り囲むように、続々と姿を現す緑色の怪物。とうとう袋の鼠となった獲物を前に、舌なめずりをしてそれぞれに武器を構えている。
「ひっ……」
ぎらぎらとした視線を一身に受けて、小牧は腰が抜けそうになった。それでも、どうにか、望月の取り落とした槍を拾い上げる。
かたかたかた、と穂先が震えているのが、自分でもわかった。
ギャッギャッギャ、ゲッゲッゲ、とゴブリンたちが不快な鳴き声を上げる。笑っている、のだろうか。見るからに怯えきっているのに、それでもまだ抵抗をやめまいとする小牧を嘲笑うのか。
泣き出しそうになってじりじりと後ずさる小牧の反応を楽しむかのように、ゴブリンは包囲の輪を狭めていく。
が。
そこで、望月が身体を起こす。
刀を杖代わりに、ゆらりと立ち上がった。
「も、望月さん……!!」
「すまん、ちょっと気ぃ失ってた」
額を押さえて、頭を振りながら望月。
「ああ。とうとう囲まれたか。多いな」
「え。……え、っと……」
心配やら恐怖やらで、小牧は二の句が継げない。
小牧から見て、起き上がった望月は、妙に落ち着き払っていた。『冷静すぎる』と言ってもいい。こんな状況なのに自暴自棄になるでもなく、その背中からは切迫感の欠片も感じられない。
怪物に取り囲まれ、緊張で過呼吸すら起こしかけている小牧に、望月と自分との差異が強烈な違和感となって押し寄せる。
そしておそらくはゴブリンたちも、望月の変化を敏感に感じ取っていた。訝しげに警戒の色を増す。
「ギイッ!」
と、突然そのうちの一匹が、望月に目がけて手斧を投擲した。
「あ――ッ!」
危ない! と小牧が叫ぶより早く。
望月は気負う風もなく、空中でぱしりと手斧を掴み取る。ゴブリンと小牧が驚く暇さえ与えず、そのまま手の中でくるりと反転させ、逆に投げ返した。
ビュオッ、と投擲された際より数段上の速さで空を切る刃。呆気に取られていた手斧の持ち主は、一撃で額を叩き割られ絶命した。
「……なるほどな」
動揺して騒ぎ出すゴブリンたちをよそに、手を開いたり握ったりしながら、望月はひとり頷いている。
「気味が悪いが……まあ今更か。使えるだけマシと考えよう」
しゃらりと。
鞘から刀を抜き放つ。
――研ぎ澄まされた一振りの太刀。
右手には刃を。
左手には鞘を。
両腕をだらりと下げた望月は、自然体。
しかしそれだけで、ぴりぴりとした緊張感が場を侵蝕していく。ゴブリンの群れが、気圧されたように、一歩二歩と後ずさった。
「小牧ちゃんは、下がっておいて。早く社の中に」
一方で、望月は、柔らかな声で小牧に避難を促す。我に返った小牧は、どうにか返事をしようとして、口の中がからからに乾いていることに気付いた。
「も……望月さんは、どう、するんですか……?」
「ここで戦うよ。何とかなる。――いや、」
振り返って、笑ってみせる。
「――何とかする」
小牧は、はっと息を呑んだ。
望月の両眼。
ぼう、と。
まるで鬼火のように揺れる、金色の光。
(身体が軽い……)
柄と鞘の感触を確かめながら、望月はただ、そう思った。
重力から解き放たれたかのようだ。
忌々しい右膝の痛みも感じない。
沸き立つような高揚感もある。
右手の太刀も、まるで羽毛のように軽い。
――この刀は、実に様々なことを教えてくれる。
如何にこれを使いこなすか。
頭の中の『知識』が、まるで血液のように、全身に行き渡って沁み込んでいく。
斬る術を。
生き残る術を。
斬るべき相手を。
囁き、語りかける。
眼前、望月は小鬼の群れを睨んだ。
「――来いよ」
望月の言葉が、届いたかどうかは知らないが。
止まっていた時が動き出したかのように、怪物の群れが望月に殺到した。