優しさとは
発作は前触れもなく訪れる。
早苗さんの手から落ちたフォークが皿にあたり、高い音を響かせた。先輩はあらかじめそうなることがわかっていたような素早さで、彼女を抱きとめていた。
早苗さんはうっすら目を開いたまま、眠りに落ちていた。トマトソースが口の端からこぼれて、血を吐いたように見える。だが、病が冒しているのは、彼女の身体ではない。眠りだけが、彼女の敵なのだ。
先輩が早苗さんをベッドに戻してから、ハンカチを手渡した。先輩は丁寧に彼女の口元を拭う。
「眠ってしまった」
目蓋を閉じさせた先輩は、深いため息を吐いた。早苗さんが起きていた時間とは打って変わり、笑みも消え失せている。
「また、起きますよ」
慰めたつもりだったが、先輩の目は雪の吹きだまりのように冷たい。
「ありがとう」
感謝の言葉を口にしながらも、拳が固く握られていた。
「次はいつ、起きてくれるだろう」
今日か明日ならいい。二、三日後でも耐えられる。
「怖いよ」
先輩がかすれた声を出した。
もう目を覚まさないかもしれない。
呟きには、そんな恐怖が含まれているようだった。
俺は、無責任な慰めを言ったことを後悔した。楽観的な言葉など、意味のない戯言でしかない。
謝ろうと顔を上げたが、それもまた無意味だ。先輩は謝罪の言葉なんて聞きたくないだろう。早苗さんが目を覚ますことだけを望んでいる。
俺は深く椅子に腰掛けた。
指の隙間越しに先輩の背中を見ていると、昔が思い返される。
先輩は、困っている人を見つけたら、どんなときでも手を差し伸べていた。相談されたら、いつまでも話を聞いていた。
優しい人だと思った。
本当はそうではないのかもしれない。
先輩にとって、誰かを助けることはごく普通のことで、無意識のうちにフォローしたり、耳を傾けるものだ。だから、勉強の悩みを聞いた後でも、親と喧嘩したことを話しても、普段と変わらず、にこやかな顔を崩さない。
早苗さんには違った。
彼女が倒れたとき、先輩はすぐさま身体を受け止めていた。食事中もずっと見ていたに違いない。彼女のことを注意深く見守り、意識し続けていた。
先輩が優しくするのは、彼女だけだ。彼女以外は、平等に、その他大勢でしかない。
もちろん、俺も。
何かが頬を伝う。
女々しくも涙ぐんでいることに気づいた。あわてて涙を拭い、音を立てないように鼻をすすった。
パーコレータの蓋がかたかたと鳴った。
苦い珈琲の味を思い出した。
夕方、早苗さんは何事もなかったように目を開けた。
先輩に笑顔が戻った。
俺は腕によりをかけて豪勢なディナーを作ることにした。材料は新鮮ではなかったけれど、外に出して自然冷凍していた肉も入れる。
「前より、料理がうまくなったな」
「すごく、おいしいですよ」
二人の賛辞が嬉しかった。
「そうですかね」
謙遜してみたが、自信はあった。素材がイマイチでも、下ごしらえや調理方法でなんとかなるものだ。
「こんな才能があったなんて、驚きだよ」
先輩と同じバイト先に雇われたが、はじめは包丁の使い方さえ知らなかった。それが今や、仕事でも家でも、料理全般を任せられていた。
得意げにメインディッシュをサーブした後、物音を聞いた。
「ちょっと見てきますね」
郵便だろうか。こんな時間に配達があるのは珍しい。
玄関の郵便受けを覗き込むと、赤い紙が一枚入っていた。
召集令状。
「嘘だろ」
小学校か中学校か、歴史の授業で学んだことがある。通称、赤紙と呼ばれるもので、遙か昔の大戦では、国が行う徴兵の令状だ。
紙面には、大村冬弥と先輩の名が印字されていた。
「どうした?」
なかなか戻ってこない俺を不思議に思ってか、先輩が廊下を覗き込んだ。俺は急いで赤紙をズボンのポケットに入れ、先輩を押し戻した。
「タヌキだったみたいです。逃げられちゃいました」
肉を手に入れるチャンスだったと言うと、二人は吹き出した。
早苗さんが先輩の腕に触れ、先輩はぽんぽんと彼女の手を叩いた。
若い夫婦の微笑ましい光景に、俺の頬も緩む。顔は、笑った。だが、心の中は言葉で言い表せないものが渦巻いていた。
どうすればいい。
素知らぬ顔で、暖炉にくべてしまおうかと考える。灰になれば、なかったことになる。
首を振る。
赤紙には、住所と名前がはっきりと書かれていた。無視しても、催促が来るに違いない。
「ちょっと食べ過ぎたみたいです」
俺は腹をさすりながら、先に休ませてもらうことにした。先輩たちは怪訝な顔をしたが、背中で壁を作って寝室に逃げ込んだ。
冷たい布団に潜りこみ、ポケットに手を突っ込む。
手紙は渡せない。早苗さんには、先輩が必要だ。先輩も早苗さんといるのが幸せだ。
二人を離ればなれにするわけにはいかない。
赤紙を枕の下に隠した。
隙間風の音を朝まで聞いていた。
凍りついた道を歩く。
静まり返った冬の世界は、生き物の気配すらない。
吐息が冷気に包まれて消え去るのを見ながら、ただひたすら歩いた。
後ろを振り返ると、小さな家はまだ眠っていた。太陽が顔を出す頃には、俺の不在に気づくだろうか。
屋根に積もった雪は、昨日、眠たい目をこすりながら下ろした。しばらくは、重さに悲鳴を上げないですむだろう。
俺は、先輩になれなかった。俺の心が作りあげたのは、誰にでも等しく優しさを分け与える存在だった。そんな人間はどこにもいなかった。
現実の先輩は、他の誰よりも早苗さんに優しかった。
そんな先輩も、俺は好きになった。
先輩のようになりたいと思った。
本当の優しさは、誰かのためのものではないだろうか。
「大村先輩。戻ったら専属シェフにしてもらいますからね」
感謝はいらない。だけど、見返りくらいは求めていいはずだ。
俺は、木村冬弥と印字された赤紙を鞄にしまった。
縦に棒を一本付け足したくらいじゃ、ばれないだろう。
寝起きの鳥が羽ばたき、細かな雪が空に舞った。
頬に触れた雪が心地良かった。
好きな人に優しくする。
それだけで、幸せなんだと思う。




