第22話 埋まらない棚
ここから第2章「代替信用の萌芽」が始まります。
今後は、毎週月・水・金曜日の更新を予定しています。引き続きお読みいただければ幸いです。
【2028年9月27日 2時16分(日本時間)|日本・東京|日本銀行 本店】
日本銀行の会議室には、地域別の現金払戻状況が映し出されていた。
金融機関が保有する日本銀行券の総量が、直ちに尽きるわけではない。問題は、必要とされる場所へ、必要な速さで運べていないことだった。
都市部ではATMへの補充が追いつかず、地方では現金輸送の日程そのものが減っている。銀行窓口には、給与や生活費を引き出したい利用者が集まり、各行が設定した1日当たりの払戻上限に達する人も増えていた。
口座に残高があっても、日常の買い物に使えない人が広がり始めていた。
菅野雅彦は、地域ごとの払戻率を見つめた。
「決済網の安定を待っている時間はない」
金融機関局の担当者が確認した。
「小口の支払いを、現金へ逃がしますか」
「全面的な代替ではない。生活に必要な取引を止めないための措置だ。金融機関からの追加要請を受ける。供給拠点と受渡時間を広げてくれ」
別の担当者が、現金輸送会社から届いた報告を画面へ表示した。
輸送車両と警備要員には限りがある。通常の補充経路をそのまま増やすだけでは、対応できる地域に偏りが生じる。現金を運ぶための燃料も、警備を維持する人員も、以前と同じ条件では確保できなくなっていた。
「財務省、警察庁、国土交通省と調整します。現金輸送を優先業務として扱い、主要拠点への輸送経路を確保します」
「銀行には、払戻上限を一律に上げさせるな」
菅野は言った。
「供給量が増えたという情報だけが先に広がれば、引き出しが集中する。給与、生活費、医療、介護など、利用目的に応じた窓口対応も残す必要がある」
「利用者から見れば、口座にある自分の預金です」
「分かっている。だからこそ、引き出せる人だけが先に持ち出す状態にはできない」
会議室の正面には、電子決済の稼働状況が残されていた。
停止しているわけではない。処理は続いている。だが、確認、保留、受取拒否が重なり、小口の支払いにも不安定さが残っていた。
それは、電子決済を断念する判断ではなかった。
安定を取り戻すまでのあいだ、市民が口座の預金を紙幣として使える範囲を広げる判断だった。
菅野は、現金供給拡大と並んで表示された、もう一つの資料へ目を移した。
自治体による生活物資の配布状況。
米、飲料水、乳幼児用食品、紙おむつ、生理用品。現金を用意できない世帯だけでなく、現金を持っていても必要な商品を買えない世帯から、相談が増えていた。
金融の問題として始まった危機は、すでに生活の側へ移っていた。
【2028年9月28日 6時42分(日本時間)|日本・東京|東都テレビ 報道局 経済部】
東都テレビの報道フロアでは、早朝から各地の映像が切り替わっていた。
銀行の現金輸送口。営業開始前のATM。スーパーの店頭。区民施設に設けられた食料配布所。
どの映像にも列があった。
久保田は、取材先一覧を佳奈の端末へ送った。
「ATMだけ撮って終わるな」
「区の食料配布も始まっています」
「引き出せなかった人が、そのあとどこへ行くのか見てこい。引き出せた人が、何を買えるのかもだ」
佳奈は一覧を確認した。
午前7時、銀行の臨時補充。
午前8時、区民施設で生活物資の配布開始。
午前9時、スーパー開店。
その下に、午後の取材先として、東都大学の名が入っていた。
「村瀬先生にも話を聞くんですか」
「現金を増やせば何が戻って、何が戻らないのか。現場を見たあとで聞いてこい」
「現金供給が増えたという話ではなく、その先までですね」
「金の話が、いつ生活の話へ変わったのかを押さえろ」
久保田は別の画面を指した。
コンビニの弁当棚を映した写真だった。照明はついている。レジにも店員がいる。だが、弁当、おにぎり、パンの棚には、ほとんど商品がなかった。
「店が開いていることと、買い物ができることは、もう同じじゃない」
佳奈は端末を手に取り、野田とともに報道フロアを出た。
【2028年9月28日 7時21分(日本時間)|日本・東京|城南中央銀行 西大森支店前】
現金輸送車が裏口へ入ると、ATMコーナーの前に並んでいた人々が一斉に顔を上げた。
北川陽菜は、列の脇に立ちながら、その動きを見ていた。
営業開始までは、まだ40分近くある。
銀行員は、払戻上限と窓口対応について書かれた掲示を入口へ貼った。
>ATMでの1日当たり払戻上限 50,000円
>生活維持に必要な追加払戻しについては、窓口でご相談ください
>現金の在庫状況により、取扱いを一時停止する場合があります
掲示を読んだ男性が、銀行員に詰め寄った。
「昨日は30,000円までだった。今日は50,000円出せるんだな」
「現時点では、その予定です。ただし、多くのお客さまが並ばれているため――」
「予定じゃ困るんだよ。口座には入ってるんだ」
後ろから、別の声が重なった。
「窓口ならもっと出せるのか」
「何時まで持つんですか」
「高額紙幣しか出ないという話は本当ですか」
陽菜は声を張り上げるのではなく、列の先頭へ静かに近づいた。
「銀行から順番に案内があります。入口を塞がないよう、白線の内側でお待ちください」
男性は不満を残したまま、列へ戻った。
ATMの列は、現金を受け取るための列だった。
道路を挟んだ区民施設の前には、米と飲料水を受け取るための列ができていた。折り畳み机の横に段ボール箱が積まれ、区の職員と地域のボランティアが受付を準備している。
両方の列を見比べている人がいた。
ATMで引き出せればスーパーへ行く。引き出せなければ配布所へ行く。最初から配布所へ並びながら、家族をATMの列へ向かわせた人もいた。
陽菜には、どちらの列が長いかより、同じ顔が二つの列を行き来していることの方が気になった。
列の中ほどで、高齢の女性が警察官を呼んだ。
「すみません。ここに並べば、お金がなくてもお米をもらえるんでしょうか」
女性が指したのは、道路の向こう側だった。
「配布の条件は区の職員が確認します。向こうの受付で相談できます」
「先に銀行へ行った方がいいんでしょうか。でも、機械の操作がよく分からなくて」
陽菜は周囲の警戒を同僚へ頼み、女性を横断歩道まで案内した。
口座に預金があるかどうかを、陽菜は知らなかった。
あったとしても、女性がそれを今日の食事へ変えられるとは限らなかった。
【2028年9月28日 8時36分(日本時間)|日本・東京】
坂井美咲は、引き出した50,000円を財布へ入れた。
一度にこれほど多くの紙幣を持ち歩くのは久しぶりだった。
ATMの画面に残高が表示されても、それだけでは安心できなかった。紙幣が手元へ出てきて、初めて自分の預金を使える状態になったと感じた。
それでも、列を離れたときには後ろに100人近くが並んでいた。
美咲がスーパーへ向かう途中、2軒のコンビニの前を通った。
1軒目は営業していた。照明もつき、レジには店員が立っている。だが、弁当、おにぎり、パンの棚はほとんど空だった。冷蔵棚には飲料がまばらに残り、商品より値札の方が多く見えた。
店内へ入った男性は、棚を一周すると、何も持たずに出てきた。
2軒目の入口には、紙が貼られていた。
>弁当・おにぎり・パン 次回入荷未定
>現在、現金のみのお取り扱いとなります
>釣り銭不足のため、10,000円札でのお支払いはご遠慮ください
美咲は財布の中を見た。
ATMから出てきたのは、10,000円札が5枚だった。
現金を持っていても、そのままでは使えない店があった。
【2028年9月28日 9時08分(日本時間)|日本・東京|しろかねマート 西大森店】
開店したばかりの店内には、すでに多くの客がいた。
入口近くの青果売場では、少量の野菜が広い間隔で並べられていた。商品を多く見せるために置かれた籠のあいだに、空いた台が残っている。
牛乳と卵の棚には、「次回入荷未定」と書かれた札があった。
米、乾麺、缶詰、紙おむつ、生理用品には、「お一人さま1点まで」という紙が貼られていた。トイレットペーパーの棚は空だった。
商品がまったくないわけではない。
だが、必要なものを選んで買える店ではなくなっていた。
客は棚に残っているものを見てから、今日の食事を決めていた。
美咲は、米の売場へ向かった。
棚には商品がなく、店員が「本日分は終了しました」と書かれた紙を貼っているところだった。
「開店したばかりですよね」
美咲が尋ねると、店員は申し訳なさそうに頭を下げた。
「入荷が少なくて、整理券分で終わってしまいました。次の入荷日は、まだ分かりません」
卵は残っていた。牛乳も、銘柄を選ばなければ買えた。美咲は一つずつ籠へ入れた。
肉売場にはひき肉が少量あり、鮮魚売場には冷凍品が並んでいた。生鮮品は、残っている物と空になった場所が不規則に入り交じっている。
美咲は、予定していた献立を諦めた。
残っていた野菜、缶詰、乾麺、卵、牛乳。数日分の食事になるように組み合わせながら、籠へ入れていった。
レジの列は、売場の通路まで延びていた。
キャッシュレス専用だったレジは閉じられ、有人レジだけが動いている。購入点数の確認と紙幣の受渡しに時間がかかり、列はなかなか進まなかった。
美咲の前に並んでいた女性の籠には、紙おむつが一袋入っていた。
会計の直前、女性は財布から10,000円札を出した。
「細かいお金はありませんか」
「これしかなくて」
店員はレジの中を確認し、隣のレジへ声をかけた。釣り銭を集めるまで、列が止まった。
女性は何度も謝った。
誰も責めなかった。
ただ、後ろに並ぶ人々は、財布の中を確かめ始めた。
美咲も紙幣を見た。銀行で現金を受け取ったときには、これでしばらく暮らせると思った。
だが、現金を持っていることと、必要なものを買えることは別だった。
店を出ると、入口の横で佳奈が取材をしていた。
野田のカメラは、空になった棚ではなく、買い物を終えた人の籠を撮っていた。
「何を買えましたか」
佳奈に尋ねられた男性は、袋の中を見せた。
「欲しかった物じゃないです。残っていた物です」
「何日分になりますか」
「分かりません。明日また来ても、何があるか分からないので」
別の女性は、現金を引き出せなかったため、買い物を諦めて区民施設へ向かうと答えた。
美咲は自分の袋を見下ろした。
手に入った物だけを見れば、買い物はできている。
それでも、以前の生活が戻ったとは思えなかった。
【2028年9月28日 10時17分(日本時間)|日本・東京|西大森区民施設】
区民施設の体育室には、生活物資が品目ごとに積まれていた。
1世帯につき、米2キログラム、飲料水2本、缶詰数個。乳幼児のいる世帯には、在庫がある範囲で乳児用ミルクと紙おむつが追加される。
入口では、区の職員が住所と世帯人数を確認していた。
証明書を持っていない人、住民登録と現在の居住地が異なる人、同居人の分も受け取りたい人。受付では、一人ずつ事情を聞かなければならなかった。
列は、配布が始まってからも短くならなかった。
佳奈は、受け取った物資を袋へ詰めている男性に声をかけた。
「銀行には行かれましたか」
「昨日も今日も行きました。昨日は途中で止まって、今日は仕事を休めなくて」
「口座には預金がある?」
「ありますよ。でも、使えなければ、ここではないのと同じです」
男性は、缶詰の入った袋を持ち上げた。
「これで、子どもには食べさせられます」
取材を終えた佳奈は、体育室の奥を見た。
物資は積まれていたが、すべての住民へ配り続けられる量ではない。職員は、午後の途中で一部品目がなくなる可能性を、並んでいる人へ説明していた。
現金を得られない人へ、商品そのものを渡す。
それは今日を支える方法ではあっても、明日以降の供給を作る方法ではなかった。
【2028年9月28日 13時46分(日本時間)|日本・東京|東都大学 経済学部 村瀬研究室】
村瀬邦彦は、佳奈が持ち込んだ映像を止めた。
画面には、スーパーの空いた棚と、入荷未定の札が映っている。
「現金供給によって、何が回復したと考えればいいでしょうか」
「棚に残っている商品を買う機会です」
村瀬は答えた。
「口座の預金を紙幣に換え、その紙幣を受け取る店であれば、売買を成立させられる人が増えました」
「でも、現金を持っていても、必要な商品が買えるとは限らない」
「ええ。店が卸売業者へ発注し、卸売業者がメーカーから仕入れ、物流会社が運ぶ。そのすべてが、以前より遅くなっています。現金を店頭へ増やしても、その経路までは戻りません」
佳奈は、食料配布所の映像へ切り替えた。
「こちらは、市場を通さずに物を渡しています」
「現金を得られない人や、店頭で商品を買えない人には、現物を渡すしかありません。信用が機能しているあいだ、生活は市場を通して支えられます。しかし、その経路が止まれば、行政や地域が、市場を通さずに生活を支えなければならない」
「すべての人を、長く支えることはできません」
「その通りです。自治体の備蓄も、人員も、輸送力も限られています」
村瀬は、停止した画面を見た。
「現金供給は、生活に必要な売買を残すために時間を買う政策です。現物支給は、その時間からもこぼれ落ちる人を支える措置です。どちらも必要ですが、どちらも商品の供給そのものを回復させる仕組みではありません」
「生活必需品の決済は、優先されているはずです」
「優先されることと、すぐに処理されることは同じではありません。ほかの支払いより先に確認されるだけで、その確認自体は残っています。受取側が支払いを確実だと判断しなければ、商品は動きません」
「では、いま店頭で起きているのは、生活の回復ではない」
村瀬は、しばらく考えてから答えた。
「残っている物資を、動かせる範囲で配り直している段階です」
佳奈は端末へ、その言葉を入力した。
「紙幣を増やしても、空になった棚は埋まらない」
「ええ。棚を埋めるには、その後ろにある取引を動かさなければなりません」
【2028年9月28日 18時03分(日本時間)|日本・東京|東都テレビ 報道局】
夕方のニュースで、佳奈はATMの前に立つ人々の映像から伝え始めた。
>日本銀行による現金供給の拡大を受け、各金融機関では、ATMや窓口での払戻対応を広げています。
映像は、現金輸送車から、スーパーの店内へ切り替わった。
>一方、世界的な決済の混乱が始まってから10日が経過し、その影響は生活必需品の供給にも広がっています。現金を引き出せても、必要な商品を購入できるとは限りません。
空になった弁当棚。
購入点数を制限するスーパー。
食料配布所で米を受け取る家族。
>自治体では、現金を確保できない人や、生活物資を購入できない世帯への現物支援を始めています。しかし、備蓄量や配布体制には限界があります。
最後に、レジの列で財布の中を確認する人々の姿が映った。
>預金を紙幣へ変えられる人。紙幣を商品へ変えられる人。そのどちらもできず、支援を必要とする人。現金供給の拡大は小口の売買を一部で支える一方、市民の生活を分ける新たな境界も明らかにしています。
放送を終えた佳奈は、消音されたモニターを見つめた。
現金は、棚に残っている商品を動かした。
だが、空になった棚へ、次の商品を運んではくれなかった。




