第17話 狭まる信用
【2028年9月20日 20時07分(日本時間)|日本・東京・霞が関|外務省 国際信用危機対策チーム】
牧島俊介が会議室へ戻ると、壁面モニターの右上に表示された数字が、四十七から五十一へ変わっていた。
正午前、経済局から主要な在外公館へ発出された緊急照会。その第一報が届いた公館数だった。
照会先は、日本大使館、総領事館、政府代表部。回答は経済局が用意した共通様式へ入力され、対象国を担当する各地域局にも同時に共有されている。
その情報を横断して読むために設置されたのが、国際信用危機対策チームだった。事務局を務める経済局のほか、総合外交政策局、各地域局、国際情報統括官組織から職員が集められている。
牧島は総合外交政策局から参加し、全体の取りまとめと多国間調整を担当していた。
正面のモニターには、照会への回答状況が並んでいた。
>回答受領 51公館
>確認継続 23公館
>現地当局への照会中 14公館
>日本企業への影響確認中 9公館
未回答が多いわけではない。現地政府や中央銀行から正式な回答が得られず、確認を続けている公館が多かった。
牧島は自席に座り、最上段に表示されている報告を開いた。東南アジアの日本大使館から届いた第一報だった。
最初に現地の日本企業から相談が入ったのは、前日の午後。従来はオンラインで完結していた海外送金について、現地銀行から契約書と請求書の再提出を求められたという。
その後、日本商工会を通じて確認したところ、同じ銀行を利用する複数の企業で、同様の要求が出ていることが分かった。
大使館の経済班は、現地中央銀行と主要銀行へ照会していた。中央銀行は、新たな送金規制の導入を否定した。一方、銀行側は、国際決済環境の変化を踏まえた一時的な顧客保護措置だと説明していた。
報告書の末尾には、在外公館の評価が記されていた。
>正式な資本移動規制は確認されていない。
>ただし、複数行において一定額以上の海外送金に追加書類を求める動きがある。
>中継銀行の選択肢も限定されており、実務上の処理期間は延びる可能性が高い。
海外送金が禁止されたわけではない。送金に必要な条件が増えただけだった。
牧島は次の報告を開いた。こちらは外貨不足が続いていた国からのものだった。
現地の日本企業が、製造設備の代金を送るためにドルを購入しようとしたところ、銀行から中央銀行の個別承認が必要だと告げられた。
現地当局は、外貨市場を閉鎖していない。ただし、限られた外貨をどの用途に割り当てるかについて、銀行へ優先順位を示していた。
>第1順位 食料、燃料、医薬品
>第2順位 発電、通信、物流設備の保守部品
>第3順位 主要輸出産業に必要な原材料
>個別審査 設備投資、配当、関連会社間の資金移動
設備投資が認められなくなったわけではない。ただ、食料や燃料より後に回される。
その順番がいつ回ってくるのかは、誰にも説明できなかった。
牧島は画面をスクロールした。
湾岸地域からは、液化天然ガスの取引条件変更が報告されていた。売り手企業は、次回の船積み分から契約額の一部を前払いするよう求めている。残額についても、売り手が指定する第三国銀行による信用状の確認が必要とされた。
買い手側には政府系金融機関の保証が付いていた。売り手企業は、その保証を拒絶してはいない。保証は有効だと認めたうえで、追加条件を要求していた。
食料輸出国から届いた報告では、別の問題が起きていた。
日本企業からの支払いは完了している。受取銀行への記帳も確認されている。それでも、小麦の輸出許可が出ていなかった。
現地政府は、国内在庫と今後の収穫量を再確認していると説明していた。
金が届いていても、物が出ない。
別の国では、物を出す用意があっても、金が届く経路を相手が認めない。
一件ごとに理由は異なっていた。
牧島は、国別に並んだ回答一覧を見つめた。
アメリカ。イギリス。ドイツ。フランス。スイス。シンガポール。中国。インド。アラブ首長国連邦。ブラジル。オーストラリア。
国名を追っているだけでは、異なる制度の説明ばかりが目に入る。
政府が銀行へ非公式に指示している国。中央銀行が正式な外貨割当てを始めた国。政府は何も命じていないが、銀行が自主的に信用枠を縮小している国。国内物価を理由に輸出許可を止めている国。
同じ危機に対する対応とは思えないほど、方法はばらばらだった。
牧島は、向かい側で集計表を確認していた経済局の職員へ声を掛けた。
「国別の一覧とは別に、取引目的で並べ直せますか」
「食料やエネルギーといった分類でしょうか」
「それだけではなく、配当、設備投資、企業間融資、政府調達も分けてください。可能なら、使用通貨と追加条件も付けてほしい」
「各公館の回答は、共通様式に入っています。項目を組み替えれば暫定集計は出せます」
「お願いします。国ごとの制度ではなく、何が残されて、何が後回しにされているのかを見たい」
職員は頷き、近くの課員へ声を掛けた。
牧島は再び画面へ目を戻した。
主要国が午後に発表した共同声明には、国際協調を維持するという言葉が並んでいた。
>国境を越える決済網の安定的な運用を維持する
>食料、エネルギー、医薬品その他の重要物資の流通を確保する
>一方的かつ過度な資本移動制限を回避する
>各国当局は必要な情報を共有し、市場の安定に向けて協調する
声明の内容は間違っていなかった。
各国政府は情報を交換している。主要な決済網も稼働している。中央銀行間の協議も続いていた。
海外送金を一律に停止した主要国はない。
それでも、現地で起きている事象を並べると、共同声明だけでは見えないものがあった。
国際協調を守ることと、国内を守ることは、平時には両立していた。
今は、その二つが同じ方向を向いていない。
【2028年9月20日 21時16分(日本時間)|日本・東京・霞が関|外務省 国際信用危機対策チーム】
目的別に組み替えた暫定集計が、牧島の端末へ送られてきた。
受領済みの五十一公館分だけを対象としたもので、未確認情報も含まれている。件数の大小を統計として比較できる段階ではない。
それでも、傾向ははっきりしていた。
優先処理、外貨割当て、輸出許可の対象として多く挙げられていたのは、食料、燃料、医薬品、発電設備、通信設備だった。その次に物流、公共交通、主要産業の保守部品が続く。
一方、追加審査や延期の対象となっていたのは、海外投資、企業買収、配当、関連会社間の資金移動、長期設備投資だった。
同じ品目でも、用途によって扱いが異なっていた。
通信設備は、基幹網の修理に使うなら優先され、新規事業に使うなら個別審査に回される。
燃料は、発電所や公共交通向けなら優先され、企業の在庫積み増しなら後回しになる。
工作機械の部品も、食料工場の生産維持に使う場合と、生産能力の拡大に使う場合では扱いが違った。
目的別に並べると、各国が守ろうとしているものが見えた。
>国内預金の払戻しおよび国内銀行間決済
>給与、年金その他の生活関連支払い
>食料、燃料、医薬品の輸入
>発電、通信、物流その他の基幹機能
>主要産業の操業維持に必要な原材料および保守部品
その下に、後回しにされている項目が並んでいた。
>海外投資
>企業買収
>配当
>関連会社間の資金移動
>長期設備投資
牧島は、集計表の右側にある追加条件の欄を開いた。
契約書の再提出。
最終受益者情報の確認。
一部前払い。
外貨建てエスクローへの預託。
指定銀行による信用状確認。
中継銀行の限定。
船積み前の最終決済確認。
どの条件も、単独で見れば異常ではない。国際取引では、以前から使われてきた手段だった。
違うのは、それまで取引実績だけで認められていた企業にも、一斉に求められ始めたことだった。
牧島は、政府保証が付いた取引だけを抽出した。
該当した案件は、まだ多くない。その一つに、緊急通信設備の納入契約があった。
買い手国の政府が保証し、政府系金融機関が支払いを裏付けている。それにもかかわらず、売り手企業は、一部前払いと第三国銀行による信用状の確認を求めていた。
相手企業が問題としていたのは、買い手国政府の支払能力ではなかった。
保証は買い手国の通貨建てだった。しかし、売り手企業が原材料の調達に必要としているのはドルだった。
保証が履行されても、その通貨をドルへ交換できるかは分からない。履行までにどれだけ時間がかかるかも明確ではない。
送金には二つの中継銀行を通す必要があり、そのうち一行が買い手国の銀行に対する信用枠を縮小していた。
保証があることと、必要な期日に必要な通貨を受け取れることは、同じではなかった。
牧島は、分析欄に短く入力した。
>政府保証のみでは、通貨交換、履行時期、決済経路に関する不確実性を解消できない事例が発生。
入力した文を読み返す。
政府保証が信用されなくなったわけではない。
保証だけでは足りなくなった。
その違いは大きかった。
国家保証そのものを拒絶されたのなら、政府は相手国へ説明を求めることができる。
だが、保証は認める。ただし、前払いも必要だと言われれば、何を不当として抗議すべきかは曖昧になる。
売り手企業は、通常のリスク管理だと説明する。取引銀行は、顧客保護のためだと説明する。相手国政府は、民間契約には介入できないと答える。
誰も取引を拒絶してはいない。
以前と同じ条件では受け入れないだけだった。
【2028年9月20日 22時24分(日本時間)|日本・東京・霞が関|外務省 北庁舎 会議室】
危機発生後、三回目となる関係省庁実務者連絡会議が始まった。
外務省側は会議室に集まり、財務省、金融庁、日本銀行の担当者はオンラインで参加している。日本銀行の画面には、菅野雅彦の姿があった。
経済局の職員が、主要在外公館からの暫定回答を説明した。
正式な海外送金停止を発表した主要国はない。外貨不足が深刻な一部の国を除き、包括的な資本移動規制も確認されていない。食料やエネルギーに関する輸出許可の厳格化は見られるが、恒久的な輸出禁止ではなく、国内需給を確認するための一時措置と説明されている。
説明が終わると、財務省の担当者が口を開いた。
「現段階で、国際決済網が国単位で分断されているとは評価できません。主要通貨の取引も続いています」
「追加書類や中継銀行の限定についても、金融機関が信用リスクを見直した結果と考えられます。危機時の措置としては、必ずしも不合理ではありません」
金融庁の担当者の発言に、牧島は頷いた。
「個々の判断が不合理だと申し上げているわけではありません」
「では、外務省として何を問題視しているのでしょうか」
牧島は、画面に目的別の暫定集計を表示した。
国名は外してある。何のための支払いか。どのような追加条件が求められたか。その二点だけを並べたものだった。
「国ごとの制度ではなく、その結果です」
金融庁の担当者が画面を見た。
「政府が銀行へ重要分野の優先を求めている国があります。銀行が自主的に対外信用枠を縮小している国もあります。外貨不足から正式な割当制度を導入した国もあります。手段は違いますが、食料、エネルギー、医療、物流、通信など、国内を維持するための支払いを残そうとしている点は共通しています」
「国内優先ということですか」
「各国政府が、その言葉を使っているわけではありません」
「しかし、結果としてはそう見える」
「はい」
菅野が口を開いた。
「主要な国際決済システムは動いています。主要中央銀行による流動性供給も続いている。処理量は落ちていますが、制度そのものが停止した状態ではありません」
「その認識は同じです。問題は、制度が動いていても、個別の取引が以前と同じ条件では成立しなくなっていることです」
「条件が厳しくなっただけではないですか」
「一つひとつは、そうです」
牧島は表示を切り替えた。
追加条件を満たせず、延期または再交渉となった案件が並ぶ。
「書類を一つ追加する。前払いを求める。指定銀行を通す。信用状に第三国銀行の確認を付ける。どれも合理的な要求です。しかし、条件が増えるたびに、それを満たせない企業と国が取引から外れます」
会議室の正面で、菅野が資料へ視線を落とした。
金融庁の担当者が尋ねた。
「各国が国際協調から離脱し始めた、という評価ですか」
「離脱ではありません。協調を続けながら、協調する相手と対象を選び始めています」
「国別の選別が始まっている根拠はありますか」
「明示的な国別規制は、まだ限定的です。ただ、同じ目的の支払いでも、相手国の通貨、銀行、中継経路によって求められる条件が違います。現時点では金融機関の信用判断として現れていますが、この差が固定されれば、結果として国ごとに利用できる決済経路が変わります」
財務省の担当者が腕を組んだ。
「日本としても、重要な輸入決済は確保しなければなりません」
「優先する品目は整理されていますか」
経済局の職員が尋ねると、財務省の担当者は手元の資料を確認した。
「原油、LNG、食料、飼料、医薬品、医療材料、発電設備、通信設備。半導体と防衛装備の保守部品も対象です。国内産業を停止させるおそれのある重要部材については、個別に判断します」
牧島は、その説明を聞きながら、画面に表示された各国の優先項目を見た。
日本も同じだった。
他国だけが国内を優先し、日本だけが国際協調を守ろうとしているわけではない。
日本政府も、日本銀行も、国内の給与、預金、食料、エネルギー、医療、物流を維持しようとしている。そのために、限られた決済能力と外貨を、必要性の高い取引へ集中させようとしている。
各国が同じ判断をすれば、国際協調が消えるわけではない。
互いに必要だと判断した取引だけを残す協調へと変わる。
その外側に置かれた国や企業を、誰が支えるのかは決まっていなかった。
【2028年9月20日 23時18分(日本時間)|日本・東京・霞が関|外務省 北庁舎】
会議を終えた牧島が廊下へ出ると、スーツの内ポケットで公用スマートフォンが震えた。
画面には、菅野の名前が表示されていた。
「少し確認してもいいですか」
「どうぞ」
牧島は窓際で足を止めた。夜の霞が関には、まだ多くの明かりが残っていた。
「会議では触れませんでしたが、国内の決済でも似た動きが始まっています」
「優先順位ですか」
「給与、医療、物流、食品。限られた処理能力の中では、社会への影響が大きいものから通すしかない」
「海外でも、各国が同じことをしています」
「政府が決めている国もあれば、銀行が決めている国もある」
「方法は違っても、残されている支払いは似ています」
電話の向こうで、菅野がしばらく黙った。
「国際協調が終わったわけではない」
「終わってはいません」
「では、何が始まったんでしょう」
牧島は、会議で映した一覧を思い返した。
海外送金は止まっていない。政府保証も残っている。国際機関も、中央銀行も、各国政府も協議を続けている。
それでも、すべての支払いを同じようには扱えなくなった。
「各国が、協調の対象を選び始めています」
「何を基準に選ぶんですか」
牧島は窓の外を見た。
「自国を止めないために必要かどうかです」
通話が終わったあとも、牧島はしばらくその場に立っていた。
各国が自国を守ろうとすること自体は、異常ではない。政府には、自国民の生活を守る責任がある。食料、電力、医療、治安を維持できなければ、国際協調を続けるための国内基盤そのものが失われる。
だから、必要な支払いを優先する。その判断を責めることはできない。
だが、すべての国が同じように内側を守れば、国境を越えて利用できる信用は少しずつ減っていく。
どの国も協調を壊そうとしていないまま、協調できる範囲だけが狭くなる。
【2028年9月20日 23時46分(日本時間)|日本・東京・霞が関|外務省 国際信用危機対策チーム】
会議室へ戻った牧島は、関係機関へ送る情勢分析の表題を見直した。
最初に入力していたのは、次の言葉だった。
>各国による海外決済制限の動向
牧島は削除した。
海外決済は、一律に制限されているわけではない。
次に入力した。
>国際協調体制の後退
それも削除した。
会議は続いている。情報共有も行われている。主要国は流動性を供給し、決済網を維持しようとしている。
協調が後退したと断定する段階ではなかった。
牧島は空欄になった表題を見た。しばらく考えたあと、新しい文字を入力した。
>国境を越える決済および取引条件の変化について
評価欄には、主要な国際決済網の全面停止は確認されていないことを記した。
続けて、各国で国内流動性、国民生活、基幹機能を維持するための優先措置が拡大していること、海外取引では用途、通貨、相手国、中継銀行に応じた追加審査や追加保証が求められていることを入力した。
政府保証付き取引についても、保証通貨、履行時期、決済経路を理由として、前払いや第三者による信用補完を求める事例が確認された。
最後の評価を入力する。
>国家間信用の消失ではなく、利用可能な信用範囲の縮小として注視する必要がある。
牧島は、その一行を読み返した。
国家間信用は、まだ失われてはいない。
信用される用途が選ばれ、信用される通貨が選ばれ、信用される銀行が選ばれ始めただけだった。
送金停止を伝える報告は、最後まで一件もなかった。
それでも、昨日までと同じ条件で成立する取引は、確実に減っていた。




