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信用再生  作者: さねなる
第1章 信用崩壊
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16/26

第16話 切られる側

【2028年9月20日 16時48分(日本時間)|日本・埼玉県川口市|東央精機工業株式会社 本社工場 財務部】


財務部長の川辺裕介は、三つの銀行から届いた回答を一枚の資金繰り表にまとめていた。


各行の口座残高を合計すれば、9月25日までに予定されている支払いを上回っている。だが、銀行が現時点で処理可能と回答した金額だけを抜き出すと、結果は逆転した。


財務部部長代理の片桐が、更新した表を川辺のモニターへ送った。


>9月25日までの支払予定額 2億1,840万円

>確認済み利用可能資金 1億4,630万円

>不足額 7,210万円

>未反映入金予定額 4,860万円

>融資実行照会中 3,000万円


未反映の入金と、銀行から回答のない融資枠を加えれば、数字の上では不足は埋まる。だが、どちらも支払いには使えなかった。


「未反映分は、まだ動きませんか」

「二行は確認中です。東和第一銀行からは、優先案件として受け付けたという回答が来ていますが、着金時刻は示されていません」

「融資枠は」

「審査ではなく、実行処理の確認中です。契約済みの枠ですが、資金を動かせるかどうかを本部で判断しているそうです」

「契約してある金まで、使えるかどうかを判断されるのか」

「いまは、そういう扱いです」


片桐の声に感情はなかった。朝から同じ説明を何度も繰り返し、言葉だけが事務処理の一部になっていた。


川辺は、25日までの支払予定一覧を開いた。従業員の給与振込日は25日だった。銀行からは、振込先と支給額の確認に時間がかかるとして、通常より早い21日正午までに給与データを提出するよう求められている。


給与データを送信すれば、その金額は他の支払いには使えない。送信を遅らせれば、25日に振り込まれる保証がなくなる。


「給与はいくらだ」

「控除後の給与振込額で、6,380万円です。社会保険料と源泉税の納付は別です」

「工場を月曜まで動かすのに必要な金は」

「大原工場長から来た数字では、電力、工業用ガス、設備保守、物流を合わせて3,740万円です。ただし、部品と外注加工費は含まれていません」

「合わせて1億120万円か」


利用可能資金との差は、4,510万円だった。


それが、部品会社、加工会社、資材会社、運送会社、そのほか六十三社へ配分できる金額だった。支払予定額は、その倍近くある。


片桐が別の一覧を表示した。


>実行維持 給与、電力、工業用ガス、設備保守、基幹物流

>個別判断 主要材料、専用部品、外注加工

>延期候補 代替可能工程、一般資材、消耗品、設備更新

>停止済み 投資案件、新規発注、海外設備代金


川辺は「延期候補」の行を見た。


延期という言葉は、支払日が後ろへ移るだけのように見える。実際には、次にいつ払えるのか、誰にも分からない。


「個別判断は何社ある」

「二十八社です」

「全部見る」

「今日中には終わりません」

「それでも見るしかない」


片桐は答えず、一覧の先頭を開いた。会社名、請求額、支払期日、納入品目、代替先の有無、納品停止までの日数が並んでいた。


取引先の資金繰りが何日持つかという項目はなかった。


【2028年9月20日 17時26分(日本時間)|日本・埼玉県川口市|東央精機工業株式会社 本社工場 小会議室】


小会議室のモニターには、六十三社の支払い一覧が表示されていた。


社長の村井は、一覧の一番上ではなく、右下に表示された不足額を見ていた。工場長の大原は、各社の横に付けられた生産影響の欄を追っている。


川辺は、現在の資金状況を説明した。未反映入金がすべて着金し、融資枠も予定どおり実行されれば、支払いの多くは処理できる。しかし、その時期は確定していない。


確定している資金だけで会社を維持するなら、すべての支払先を守ることはできなかった。


「給与は外せない」


村井が言った。


「はい」

「電気とガスも止められない。物流も、主要顧客への出荷分は維持する」

「その条件で残るのは、4,510万円です」

「その範囲で、工場を一番長く動かす組み合わせを出してくれ」


川辺は、村井を見た。


「組み合わせを決めれば、支払わない会社も決まります」

「分かっている」

「支払いを待てる会社と、待てない会社があります」

「見分けられるのか」

「正確には分かりません」

「なら、当社への影響で判断するしかない」


村井の言葉に迷いはなかった。ただし、冷淡でもなかった。迷っている時間も、選択肢の一つを消費していた。


大原が、一覧の中ほどを指した。


「第一ラインと第二ラインは維持できます。物流設備向けと食品工場向けの部品を作っているので、ここを止めると顧客側の影響が大きい」

「第三ラインは」

「一般産業機械向けです。完成品在庫が二日分あります。部品が止まれば、22日の午後には加工を止めます」

「再開は」

「外注先から部品が入れば再開できます」


大原が一社の行を選択した。


有限会社新井研磨製作所。


請求額は860万円。支払期日は今日。東央精機が加工した駆動軸の最終研磨を請け負っている。従業員数の欄は空白だった。


>支払先 有限会社新井研磨製作所

>支払額 860万円

>対象工程 駆動軸最終研磨

>対象ライン 第三加工ライン

>手持在庫 1.5日分

>代替先切替 最短10日

>支払延期時の影響 9月22日午後より生産停止見込み


「十日もかかるなら、代替可能とは言えないだろう」


村井が言った。


大原は、モニターに表示された「手持在庫 1.5日分」という行を見た。


「以前は、この部品を五日分持っていました」

「いつ減らした」

「段階的にです。五日を三日にして、三日を二日にした。去年から一日半です」

「在庫削減は、工場側からも提案していたはずだ」

「はい」


大原は否定しなかった。


保管場所が空き、棚卸資産は減った。材料や部品が倉庫で眠る期間も短くなり、資金効率は上がった。必要なものを、必要なときに、必要な量だけ入れる。それは、工場が何年もかけて追求してきた形だった。


「止まらない限りは、合理的でした」


大原が言った。


「部品は毎日届く。運送会社は走る。取引先は材料を買える。銀行は支払いを通す。それを前提に、在庫を削りました」

「災害対策の在庫はあるだろう」

「基幹部品の一部だけです。すべてを持てば、保管場所も運転資金も足りません」

「だから絞った」

「はい。ただ、絞りすぎたのかもしれません」


大原は、第三ラインの停止予定時刻を見た。


「在庫をなくしたつもりでした。でも、なくなったわけじゃない。取引先の工場と、運送中のトラックと、毎日動く決済の中に置いていただけです」

「そのどこかが止まれば、うちの倉庫も空になる」


川辺が言った。


「いま止まったのは、部品じゃありません。金です。それでも、一日半後には工場が止まる」


会議室に、空調の音だけが残った。


村井は腕を組んだまま、一覧を見ていた。


「いま在庫政策を反省しても、使える金は増えない」

「分かっています。ただ、平時の無駄を削るのと一緒に、異常時の余白まで削りました。その結果が、この一日半です」


村井は何も返さなかった。


しばらくして、大原が一覧を指した。


「すぐには替えられません。ただ、第一ラインと第二ラインを守るなら、第三ラインを止めるしかありません」

「新井研磨へ払えば、何を外すことになる」

「工業用ガスの一部か、第一ライン向けの熱処理費です」


片桐が答えた。


工業用ガスの供給量を落とせば、二本の基幹ラインの稼働時間を短縮しなければならない。熱処理費を止めれば、第一ラインの部品が完成しない。


860万円は、東央精機全体から見れば大きな金額ではなかった。その860万円を動かす余地が、いまはなかった。


「新井研磨は、うちの仕事がどれくらいを占めている」


川辺が聞いた。


「購買の記録では、売上の四割前後です」

「四割を今日止めれば、先方が持たない可能性がある」

「可能性はあります」


大原は否定しなかった。


村井が腕を組んだ。


「一社を守るために、二本のラインを危険にさらすことはできない」

「新井研磨だけではありません。延期候補は三十五社あります」

「三十五社全部を守る金はない」

「はい」

「川辺君。これは支払わないという決定じゃない。支払いを待ってもらう決定だ」

「いつまで待ってもらうのかを、説明できません」

「それでも、決めなければならない」


川辺はモニターへ視線を戻した。


支払いの対象から外す会社を選ぶことと、会社を切ることは同じではない。少なくとも、表の上ではそうだった。


「給与、本社工場の基幹ライン、主要顧客向け物流を優先します。第三ライン関連と、代替可能と判断した一般外注費は延期します」

「それで進めてくれ」


村井が答え、片桐が一覧を更新した。


新井研磨製作所の行が、黄色から灰色に変わった。


【2028年9月20日 18時07分(日本時間)|日本・埼玉県川口市|東央精機工業株式会社 本社工場 財務部】


川辺は、新井研磨製作所の代表番号を押した。呼び出し音は一度で途切れた。


「新井研磨です」

「東央精機の川辺です。新井社長はいらっしゃいますか」

「私です」


電話に出た新井達也の声は、いつもより近く聞こえた。事務所ではなく、工場の中にいるらしく、背後で研削盤の回転音が続いている。


「本日お支払い予定の860万円について、ご連絡があります」

「まだ入っていません」

「確認しています。現在、当社でも利用できる資金が限られており、本日の支払いを延期させていただきたいと考えています」

「延期というのは、いつまでですか」

「現時点では、確定した日付を申し上げられません」

「それは延期じゃないでしょう」


新井の背後で、金属が台に置かれる音がした。川辺は何も返せなかった。


「東和第一さんからの入金が止まっているんですか」

「一行だけではありません。複数の入金が反映されず、融資枠の実行にも確認が入っています」

「銀行の事情は、こちらも分かっています。うちも二社から入っていませんから」

「そうでしたか」

「東央精機さんからの入金があれば、明日の材料代と電気代は回せる予定でした」


新井は、責めるような口調ではなかった。事実を一つずつ並べていた。


「全額が難しいなら、300万円だけでも先に出せませんか。300万円あれば、今週の加工は続けられます」

「申し訳ありません。部分的な支払いも、現時点ではできません」

「300万円もですか」

「はい」

「御社の給与は払うんですよね」

「給与と、基幹ラインの維持に必要な支払いを優先します」

「うちにも給与があります」


川辺は、机の上の資金繰り表を見た。東央精機の給与欄には、6,380万円と記載されている。新井研磨の給与額は、どこにも記載されていなかった。


「従業員は何人でしたか」

「十七人です。私と家内を入れれば十九人です」

「……承知しています」

「承知していなかったでしょう」

「正確な人数までは、把握できていませんでした」

「そうですよね」


新井の声が、少しだけ遠くなった。機械の音が止まり、工場の中が急に静かになった。


「明日の朝便は止めます」

「新井社長」

「材料を買えません。電気代も落とせるか分からない。入金がないまま、御社の仕事を続ける余裕はありません」

「22日には、こちらのラインも止まります」

「分かっています」

「支払いができる状態になれば、最優先で連絡します」


新井が、そこで初めて言葉を切った。


「川辺さん。銀行の処理が止まっていることは分かります。でも、うちに払わないと決めたのは、銀行じゃなくて御社ですよね」


川辺は、否定できなかった。


銀行が動かせる金額を決めた。東央精機が、その金を誰に渡すか決めた。


「はい。当社の判断です」

「分かりました。明日の出荷は止めます」


通話が終わった。


川辺は受話器を置かなかった。切断された画面を見たまま、しばらく耳に当てていた。片桐は何も言わず、支払先一覧を開いていた。


「新井研磨、明日の朝便から納品停止です」

「入力します」


片桐が、灰色の行に文字を追加した。


>支払状況 延期

>先方対応 9月21日朝便より納品停止

>当社影響 第三加工ライン、9月22日午後停止見込み


「代替先は」

「購買部が照会しています。最短でも十日です」

「十日後に、新井研磨が残っているかは分からないな」

「はい」


片桐の指が、キーボードの上で止まった。


【2028年9月20日 18時32分(日本時間)|日本・埼玉県戸田市|有限会社新井研磨製作所】


新井達也は、停止した研削盤の前に立っていた。


作業台の脇には、東央精機へ翌朝納品する予定だった駆動軸が、青い樹脂箱に並べられている。研磨を終えた部品には、一つずつ検査済みの印が付いていた。


製造課長が、軍手を外しながら近づいてきた。


「東央さん、どうでした」

「入らない」

「いつになりますか」

「分からないそうだ」

「明日の分は」

「出さない。今夜の残りも止める」


製造課長は、青い箱を見た。


「これ、もう終わっています」

「終わっていても、出せば次の材料を買わないといけない」

「向こうもラインが止まるんじゃないですか」

「止まるだろうな」

「じゃあ、払うんじゃないですか」

「向こうは、止めるラインを選んだ」


新井は事務所へ戻った。


机の上には、25日支給分の給与一覧と、翌日に引き落とされる電気料金の予定額が置かれていた。入金予定欄には三社の名前が並び、そのうち二社には、すでに赤い線が引かれていた。


新井は、東央精機の名前にも線を引いた。


三社分を除いた残高では、給与と電気料金の両方を支払えない。


事務を担当する妻が、向かいの机から尋ねた。


「明日は、どうするの」

「午前中で止める」

「みんなには」

「朝、話す」

「給与は」

「まだ分からない」


工場では、別の研削盤が回り続けていた。


新井は止めに行かなかった。今日の電気代は、もう発生している。


【2028年9月20日 19時11分(日本時間)|日本・埼玉県川口市|東央精機工業株式会社 本社工場 財務部】


財務部に残っているのは、川辺と片桐だけになっていた。


片桐は、延期対象となった三十五社への連絡状況を更新していた。


>支払い延期を受け入れた会社 16社

>回答保留 9社

>納品停止を通告した会社 4社

>連絡不能 6社


「新井研磨の従業員数を、備考に入れてくれ」


川辺が言った。片桐は、新井研磨の行を開いた。


「何人ですか」

「社長夫婦を含めて十九人。従業員は十七人だ」

「分かりました」


片桐が入力した。


>従業員数 17名

>経営者家族 2名


一覧を並べ替えても、新井研磨の支払順位は変わらなかった。


十九人という数字が加わっても、東央精機の利用可能資金は増えなかった。


灰色の行は、灰色のままだった。

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