ダモクレスの剣
席を外すと言ってもそこまで遠くには離れない。今日も既に多くのメイドが働いており、本当に誰にも聞かれない場所をと思ったら寝室に向かうべきだからだ。だからその気になれば地獄耳の人間なら聞き取る事が可能。それくらいはかまわないという判断だろう。
詠奈は適当な所で手を離すと、手すりに寄りかかって目を閉じた。
「アイツは多分、君に手を出さない」
「何で?」
「理由はおよそ他人に納得させられる合理的な部分にないけど、君はアイツに殺害予告をしたでしょう? 死なない貴方を殺してみせる…………アイツはそういうチャレンジ精神が好きなのよ。襲撃の明けた直後、それは一番油断する瞬間よ。殺したかったり捕まえたいならそれ以上の好機はなかった。でもそうしなかった。幾ら君をバカにして見下していたって私へのダメージを把握しているならそれをしない手はないでしょう。ありとあらゆる状況が、君に手を出さない事を示している」
「…………まあ、それは俺も少し思ってたけどさ。お前と同じで説明出来ないから何とも言い難かったんだ。説明出来ないのに自信を持つのはただ危機感がないやつだからな。でも詠奈までそう思うのは本当なんだろう」
「そこで君には手紙を届けてもらいたいの。とても遠い場所に行く必要があるから、今すぐとは言わないわ。手紙自体は寝室に置いてあるから、然るべき時が来たらそれを同封した住所の場所に届けてくれる? 私からの指示はそれでおしまい。 理解した?」
「……色々言いたい事はあるけど、理解したよ」
「いい子ね。じゃあ戻りましょうか」
思ったよりも聞かれて問題ない内容だった。執務室に戻ると、聖だけが姿を消している。
「…………何をしているの? もう指示はないけど」
「私達は従来の業務に戻れという事でしょうか」
「うーん、それはそれで複雑ですよね~」
「八束と彩夏は外の捜査をお願い。昨夜の攻防は勝負という意味なら私達の負けよ。結局目的も現在地も掴めていない不利をどうにかしないと。春は友里ヱの所に行って護衛をしてあげなさい」
「はーい!」
各々が与えられた仕事の為に執務室を離れていく。少し待っていると先に離れていた聖が寝ぼけ眼を擦る千癒の手を引っ張ってやってきた。そこだけみると寝起きの子供を連れてきた保護者みたいだ。
「…………え、詠奈様? 何か御用……ですよね。私を呼んだなら。ひょ、ひょっとして国内秘の文書を持ち出したのを怒ってらっしゃいますか……?」
「景夜の調査に協力しただけなのだから怒っていないわ。別にこれを公開したくて持ち出したのではないし。それよりも森でメディアを目撃した話を聞かせてほしくてここに呼んだの。まず貴方がどうして夢遊病みたいに彷徨っていたのかなんだけど」
「……わ、私はこの体質のせいで生活リズムが滅茶苦茶で……ゆ、夢を見たんです。詠奈様が……詠奈様の死体を見る夢。わ、私な普段は気にしないんですけど…………その夢があんまり嫌だったから覚えてて。えっと。夢の中では屋敷に誰も居なかったんです。探したけど誰も見つからなくて、も、森を探してみたんです。そうしたら詠奈様が死んでて……」
「死因は?」
「ゆ、夢だから分からないです。きれいに死んでて、びっくりして目覚めたんです。居てもたってもいられなくて、様子を見に行って……朝の四時くらいに。でも夢が作る森と現実は景色が違うからちょっと同じ角度を探すのに時間がかかって……それで、見つけたんです。私の存在は見つからなかったけど、不自然に周辺にカメラを回してるマスメディアの人達が居まして……」
「それ以外には誰か居た?」
「いえ…………あ、でも。車が止まってました。マスメディアの車とは別に、でも無関係にしては近い距離に。番号は確か……」
千癒の記憶能力はやはり逸脱している。俺なら少し視界に入っただけの車体ナンバーなんていちいち覚えていない。車種にも詳しくないから言えるとすれば精々車の大きさと色くらいだ。
「ありがとう。彩夏に調べさせるから貴方はもう下がっていいわよ。聖は獅遠も連れて…………そうね。貯蓄が十分なら地下へ。そうでないなら買い出しに行ってくれるかしら」
「仰せのままに」
去り際に頭を下げて、聖も執務室を後にする。残されたのは俺だけで、何が何やらさっぱりだ。視線だけで困惑を受け取った詠奈は頷きながら部屋の電気を消した。
「今日は学校を休むのだから、少し遅いけど朝食にしましょうか。権力は機能せず、手足は十分動かした。打てる手を打って後は祈るだけ。詳しい事は最中で話しましょう」
今日は主要メイド達が主人の世話焼きに従事出来ないので普段は裏で作業ばかりする子が表に出るようになっている。朝食で言うなら彩夏さんのような手際の良さはないが、それどころではない詠奈にはついぞ咎められなかった。
「この家に広がる地下通路は、私が使わない場所も含めれば未知が多くて文字通りの迷宮になっている事は知っているわね。でもちゃんと機能が残されている場所は把握済み。この家にはシェルター化する機能があってね。ジリ貧にはなるけど、隠し通路はアイツが消えてから通過させたからそこを介して日常生活は一応可能よ。といっても君が想像するシェルターとは大きくかけ離れているから、使ってみない事には理解されないと思うけど」
今朝は熱々のシチューが舌によく絡んで、目を覚まさせてくれる。喉を通り抜け、胃に落下するその瞬間まで鮮烈な温度は続き、落ち切ったその瞬間、体中に熱が染み渡る。この熱さが甘さを贅沢に増やし、感覚的にも自分は栄養を摂取していると思わせてくれるのだ。
「学校がないと、途端に暇になるな」
「退屈は悪で、私を退屈させないでくれるような刺激は十分すぎるわね」
「それはもういいよ詠奈。実際はどう思ってるんだ?」
「刺激というのは私が簡単に対処出来るレベルであってほしかったわ。アイツが来るなんて聞いてない。私が蒔いた種だけども」
「まあそうだよな。じゃあ今日はどうする? ああでも、お前は一応仕事が出来るのか。じゃあ暇なのは俺だけ?」
「どうして危機に晒されているのに仕事をしないといけないのよ。私も君と同じで暇を持て余させてもらうわ。家デート……と言ってもいいのかしら。でも一般的な用法で言えば住む家が違う恋人同士がどちらかの家に行く事よね。この場合は家デート……なの?」
「どっちも家を知ってるから、あんまりワクワクはしないよな。地下迷宮をいっそ探索してみるか?」
ソテーされた魚にナイフを入れて、口に運ぶ。会話はともかく食事のペースは双方穏やか。緊張感ばかり続く状態が連続していたから、いつにもましてリラックス出来る。
「それはお互い戻れなくなりそうね。まあ……最後とは言わないけれど、いつにも増して子供っぽく、屋敷内を冒険でもしてみる? 思い出作りは大切だものね…………」
「はは。意外と乗り気なんだな。本当に子どもみたいな発想だ」
「お互い碌な幼少期を過ごしていないのだから、たまには童心に返ってもいいじゃない。今は急いでも仕方ないし……私の戦略がアイツを上回る事を願いましょう」
学生が登校を控えると途端にやる事がなくなる。ゲームをすればその手の退屈は紛れるが、俺達は体を動かす事を選んだ。ただし鬼ごっこは体力的な問題から詠奈の息があがってしまって勝負にならないので、地下でかくれんぼをする事になった。
ただし詠奈が把握している範囲に限定される。地下なのもメイドの仕事を邪魔しない為だ。
「おーい、詠奈。お前の位置はもう分かってるぞー。でてこーい」
情報アドバンテージは向こうにある。俺が出来る効率的な探し方は虱潰しが最善だ。『王奉院詠奈』におチビさんと言われているように彼女はかなり小さいから、入ろうと思えば何処でも入れるだろう。幸い、横幅がなければそこには居ないと断定出来る。
「詠奈ー」
放置された樽やら棺やら、何故存在するのかも疑問な物体の中を探す。隠れやすいから選ぶと当然思っていた。はてさて何処に居るのだろう。捜索を始めて一時間。隠れ場所に見当もつかず途方に暮れていると、壁に設置された内線が鳴り響いた。
「…………詠奈! 電話だぞ!」
などと言ってはみたが、電話と詠奈には関係ない筈だ。主人が出られなくても地下に電話したからには俺か彼女のどちらかには出てほしいと考えられる。少し待って、それでも詠奈が姿を現さなかったので仕方なく受話器を手に取った。
『もしもし』
『えい、あ、景夜さん!? あの、大変なんです! 門の所に死体があって、あ、慌てて回収したんですけど! え、詠奈様の死体があって!』
『へあ? 詠奈は俺と遊んでる最中だぞ。死体なんて―――』
いや。
死体は。
『詠奈様の、か、影武者だとは思うんですけど……!』
死体は。
死体が。
死体なんて。




