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何日かぶりに戻った自分の部屋はあまりにも何も変わらず、いつも通りだった。
出発の日に少しだけ急いで家を出たから、少しばかり散らかってはいたけれど。
荷物を置いて、部屋を片付ける。洗濯機を回して、部屋の中を掃除機をかけて、かけられていたスーツも丁寧にクローゼットの中へ。
そして、あれ以来見る事のなかったあのチラシをもう一度だけ開いてみた。
少しの呼び出し音で電話はつながる。
「お電話ありがとうございます。ヒカリコミュケートでございます」
以前と変わらない女性の応対に少しほっとしたのと、懐かしさを感じる。
「すみません。『ユウタ』さんは、今日とか明日とかいますか?」
「…大変申し訳ありません。『ユウタ』という者は在籍しておりません。別のスタッフもおりますが?」
「いえ、わかりました。ありがとうございます」
無造作に携帯を切る。わかりきっていたことだったけれど、改めて現実をつきつけられ、悲しいというより妙に自分の中で納得してしまった。
彼との接点はもう、何も無いのだと。
一人、笑ってしまう。
新しい、仕事はとにかく忙しかった。覚えることもやることもたくさんあり、家と職場との往復。
慣れないことだらけの仕事から帰れば、何もかも考えられず、ベットになだれ込んだ。
正直な話、前の仕事よりも体力的にはずっとしんどかったけれど、なんとなく充実感はあった。
マスターと言うべきなのか、現職場の上司はカフェの雰囲気に似合わずに声も態度も大きい。
「ほら、もっと挨拶は大きい声で」
というのが口癖で、私は出せる全ての声を仕事で使っていると思う。
或る日。これは本当に私の不注意で社会人になって一度も経験したことのなかった『遅刻』というものをついにしてしまった。朝起きると本来であれば店に着いている時間だった。
――やばい。もう、飛ぶように部屋の中を駆け巡りとりあえず着替えをすませて、五分で家を出た。無我夢中で走り、店に着いたのはもう開店数分前に差し迫っていた。
「すみませんっ、本当にすみません。すぐ、用意します」
私は急いで裏口から入り、エプロンの紐を結わく。
「わかったから、店の中は走らないで」
マスターは私が遅刻したことよりも、店内での振る舞いに対しての咎めしか言わず、淡々としていた。
その様子がほっとしたのと、妙な怖さが背筋に走り、その日の午前中はいつもにまして集中し仕事をこなしていたと思う。
「今のうちに休憩に入って」
お昼を過ぎた客足の少し途切れた午後に私は、店のバックへと戻る。
ふうと、一呼吸しながら店内で使えなくなって下げられた椅子に腰掛ける。なんだか今日は朝からさんざんだと思った。遅刻はしてしまうし、神経が張り詰めすぎていて、いつも以上に疲れていたのもあったのだと思う。ぐたりと机に突っ伏す。
「ほら、今日まともにご飯も食べてきてないんでしょ? 忙しくてもちゃんと食べて」
気付くと、マスターがお皿とカップを私の目の前に持って立っている。
「すみません。気を遣っていただいて」
「頑張ってくれてるのは、わかるけど無理するのは違うからね。食べたらまた頼むね」
私はありがたくいただき、朝出来なかった化粧をして髪の毛を梳きながら鏡の中の自分と向かい合う。
確かに目元は疲れた印象は見えるけど、昔より自分を見るのが好きになった。
さっと空になったお皿をカップを持って店の方へ戻った。
「ありがとうございます」
マスターにお礼を言って、自分の食器を洗っていると。休憩に入る前は少し空いていた席が何人が新しく入って来たお客さんで埋まり、また何人か店に入って来ている。
「お客さん来てるから、聞きに行って」
マスターは忙しそうに珈琲を淹れながら私に横目でそう言った。
テーブルの上に何ものって無い所を数えてその分のお冷やを用意しお盆に載せる。
「すみません。お待たせ致しました」
そう言ってお冷やを置いたのは、店の奥の角席で一人本を読んでいた男性だった。丁度壁、向きに座って居るので私からはその人の顔は見えない。
「今の君なら、僕のことわかるでしょう?」
一瞬、時が止まったような気がした。すぐに声でわかった。彼だと。本から目を上げると、いつぶりだろうあの時の記憶の彼と一致する。胸の奥が痛くなる程、いろんな感情がこみ上げてきた。
「なんで? どうして?」
やっとでた言葉はそれだけだった。本当は言いたかったことも聞きたかったこともたくさんあったはずなのに。
「“ナツ”に会いに来たんだよ」
くすぐったそうに笑う彼を見て、私は出来る限りの笑顔でを真っ直ぐ彼の目を見つめた。
今度はもう反らさないように。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。




