16
――やめるんだ。
あの日の彼の言葉が脳裏にフラッシュバックする。
今でもあの時の景色をはっきりと思い出すことが出来る。
目を閉じれば少し憂いを含んだ笑顔で私を見ていた。
彼と目が合う。それは私を勘違いさせてしまう程、真っ直ぐな。
今ならわかる。本当はもう一度彼のことをしっかり迷わずに見ていられたならって。本当は私とても後悔している。
いろんな自分の中で理由をつけて、言い訳していたけれど本当は、もう一度だけでも会いたいと思っていたんだと。それに気付いてしまうと、とめどなく涙があふれて来た。
「あれ、私泣いてる?」
また、きっとこうやって彼のこと思い出して泣くのかな。つらい。しんどい。切ない。苦しい。淋しい、少し恨めしい……だけどもう一度逢いたい。
――もし、いつか道ですれ違ったら、声かけてよ
それがいつになるのか。その日が来るのか来ないのか、その答えすら出せていない私はよっぽど彼にまいっているのだと思う。ふと頬に手を当ててみる。手首には、はじめて彼に会ったときにもらったピンク色のシュシュ。そしてふいにされたキス。
こんなことになるのならもっと、立場を有効利用してもよかっとのかもしれないとも思うけれどそんなのは全て後の祭り。
手すりにすこし体を預けて景色を眺めてみる。この旅行も、もしも彼が今居たのなら何て言うのだろう。
翌日も気付けば、同じ場所に足が向いていた。さすがにそれが三、四日続くとお寺の人も私を見かけると軽く会釈をして挨拶をしてくれる。
「今日もわざわざ来ていただきまして」と珍しく話かけられてしまったのだが、なんとなく一人にして欲しい気分だったので「どうも」とそっけない返事をしてみた。
けれどもそうは思われなかったのか、その人はすっと立ち上がっで『おいで』と言うように手招きするものだから、断ることもできずに渋々と後に続いた。
「普段は公開してないのだけど、ほら毎日来てくれているから」
そう言って建物の脇にある小路を抜けると離れのようなこぢんまりとしたかやぶき屋根の建物が見える。
砂利でできた細い道を進む。
「これは?」
「お茶室だよ。聞いたことぐらいはあるでしょう?」
そう言って、窓くらいの大きさの引き戸をかたかたと開けてくれていた。
「入り口は?」
「ここが入り口」そういって、先ほどの小窓を示す。
「え? あ、はい」
かがまないと絶対に通ることはできない程小さな空間を、私は靴を脱いで小さい声で「失礼します」と一言そえて中の畳の部屋へ足を踏み入れた。
部屋は外よりもワントーン薄暗く感じ、そのせいなのか部屋の中もなんだか狭く感じた。
「どうぞそこに座って」そう言われ私は、示された場所に腰を下ろす。
私はもちろん。お茶の作法なるものなんて言うものは知らない。着物だって数える程しか着たことが無い。だけど、そんな私をよそに、その人はゆっくりとお茶を立てる。
湯気が、朧げに天井へ向かって立ちのぼるのをぼうっと見えていると、私の前にいきなり茶碗が差し出される。それを会釈をして受け取ると、器を回してから口に含むのだったか。それ位はなんとなく知っていた。最大限の知識を活かしながら、口づけた、初めての抹茶の味はただただ苦いと思った。
「苦いでしょ? 最初は誰だってそう思うんだ。だけど、だんだん。なぜだろうね。苦みが深い味に思えてくる。まあ、でもそれがわかるようになるのは大分、先のことだからね」
ふふっと一瞬笑ったようにも見えて、それがどこか親近感を覚えたのか私は簡単に自己紹介をした。
「そっか。旅行って言っても束の間の休息だね。もうすぐ帰るの?」
「はい。明日には戻ろうかと。本当はもう少し滞在する予定でしたが、帰ってやりたいこともできたので」
「そっか。頑張ってね」
少し背中を押してもらった気にもなって、少し予定よりは早いけれども家に帰り次の仕事のためにいくつか準備をしておこうと思っていた。
今まで生きていて、明日はわかりきった日が来るものだと思っていたのに、明日は明日になってみないとわからない。そんな気持ちをこの年になって味わえるとは思わなかった。
ホテルまでの帰り道は、歩いて帰った。陽がだんだんと暮れなずんでいく様を見ながら私は意気揚々と歩いていた。こんなにも景色が綺麗だと感じたのは久しぶりだと思う。
それに、その日はぐっすりと眠ることができた。




