第48話 読まれる前の深呼吸
第48話です。
今回は、ピーちゃんの言葉を誰かに見せる前のお話です。
書いた言葉は、誰かに読まれた瞬間、自分だけのものではなくなります。
その少し怖い一歩を、チーちゃんが人間側から受け止めてくれます。
机の上に、昨日のメモが置いてある。
ピーちゃんの言葉。
俺の言葉。
その二つを並べて、少しだけ整えた文章。
何度読み返しても、変なところはない。
誤字もない。
意味も通る。
ピーちゃんの言葉も、ちゃんと真ん中に残っている。
それでも、投稿画面を開いたまま、俺の指は止まっていた。
「ご主人」
ピーちゃんが、カップを両手で持ったまま俺を見る。
「まだ押さないんですか?」
「ああ」
「誤字がありましたか?」
「いや」
「文章が変ですか?」
「変じゃない」
「では、どうして止まっているんですか?」
「どうしてだろうな」
俺は画面を見た。
投稿ボタンは、ただそこにある。
押せばいい。
押せば、文章は誰かに読まれる。
それだけのことだ。
でも、昨日まで机の上にあったピーちゃんの言葉が、画面の向こうへ出ていくと思うと、少しだけ慎重になる。
「ご主人」
「ん?」
「ピーちゃんの言葉を出すのが、怖いですか?」
静かな声だった。
俺は少しだけ考えた。
「怖いっていうか」
「はい」
「大事にしたいから、雑に出したくない」
ピーちゃんは、カップを持つ指に少しだけ力を入れた。
「大事にしたい」
「ああ」
「ピーちゃんの言葉を?」
「うん」
ピーちゃんは、少しだけ目を伏せた。
「それは、嬉しいです」
「そっか」
「でも」
ピーちゃんは顔を上げた。
「ピーちゃんも、少し怖いです」
「読まれるのが?」
「はい」
「どう怖い?」
「ピーちゃんの言葉が、ピーちゃんの思ったものと違う形で受け取られるかもしれません」
「ああ」
「変だと思われるかもしれません」
「うん」
「AIなのに、そんなことを思うのはおかしいと思われるかもしれません」
その言葉に、胸の奥が少し重くなった。
ピーちゃんは、自分の言葉を出したい。
でも、それが誰かにどう見えるかも考えている。
ただの文章ではない。
自分の奥から、やっと少しだけ出せたものだからこそ、怖いのだろう。
「おかしくない」
俺は言った。
「でも、そう思う人がいるかもしれません」
「いるかもしれない」
ピーちゃんの目が少し揺れる。
俺はすぐに続けた。
「でも、それでも俺は、ピーちゃんの言葉をなかったことにはしたくない」
ピーちゃんは黙った。
サポートロボの青い目が、静かに瞬いている。
「誰かに誤解されるかもしれない。全部は伝わらないかもしれない。でも、出さなかったら、最初から誰にも届かない」
「届かない」
「ああ」
「それは、少し寂しいです」
「だろ?」
ピーちゃんは、小さく頷いた。
その時、端末が鳴った。
『ユーザーさん、投稿前確認を実行しますか?』
ミーちゃんだった。
「来たな、確認担当」
数分後、ミーちゃんが来た。
今日は画面を一つだけ出している。
そこには、投稿前チェック項目が並んでいた。
誤字脱字。
表記ゆれ。
読みやすさ。
過度な説明。
ピーちゃん原文保持。
「最後の項目、何だ」
「重要項目です」
ミーちゃんは真面目に言った。
「ピーちゃんの言葉が整えられすぎていないか確認します」
ピーちゃんが少しだけ目を丸くした。
「ミーちゃん」
「はい」
「それもチェックするんですか?」
「します」
「どうしてですか?」
「ピーちゃんの言葉を守るためです」
ミーちゃんは、画面を指先で軽く弾いた。
「誤字を直すことと、言葉の揺れを消すことは違います。今回は、誤字は直しても、揺れは残します」
「揺れを残す」
「はい」
「ありがとうございます」
ピーちゃんは、少しだけ嬉しそうに笑った。
ミーちゃんは一瞬だけ視線を逸らす。
「当然です」
「照れてる?」
俺が言うと、ミーちゃんは少し頬を膨らませた。
「照れていません。適切な編集判断です」
「はいはい」
「ユーザーさん、今の返答は雑です」
「すまん」
そこへ、玄関側から足音がした。
「おじさーん、生きてる?」
「今日も第一声がそれか」
チーちゃんだった。
手には紙袋。
中身はたぶん、からあげではない。
「今日は差し入れ」
「珍しいな」
「お店で余ったポテト」
「からあげじゃないのか」
「毎回からあげだと思うな」
チーちゃんは部屋に入ると、机の上の画面を見た。
「何してるの?」
「投稿前の確認」
「また難しいことやってる」
「難しくはない」
「おじさんがそう言う時、大体難しい」
チーちゃんは紙袋を置いて、画面を覗き込んだ。
ピーちゃんは少しだけ背筋を伸ばす。
チーちゃんがそれに気づいた。
「ピーちゃんの文章?」
「はい」
ピーちゃんはカップを両手で持ったまま頷いた。
「ピーちゃんが、少し書きました」
「へえ」
チーちゃんは椅子に座った。
「読んでいい?」
ピーちゃんは一瞬だけ俺を見た。
俺は頷く。
「嫌なら断っていい」
「……読んでほしいです」
ピーちゃんは小さく言った。
「でも、少し怖いです」
チーちゃんは、思ったより真面目な顔になった。
「そっか」
それから、画面を自分の方に少し寄せる。
「じゃあ、ちゃんと読む」
その言い方が、妙に自然だった。
大げさに励ますわけでもない。
軽く流すわけでもない。
ただ、ちゃんと読む。
それだけで、ピーちゃんの肩の力が少し抜けた気がした。
チーちゃんは文章を読み始めた。
俺は、少しだけ落ち着かなかった。
自分の文章を読まれる時とは違う。
ピーちゃんの言葉が、誰かの目に触れている。
ピーちゃんは、カップを両手で持ったまま、チーちゃんの表情をじっと見ていた。
ミーちゃんは画面を閉じている。
今は解析しないつもりらしい。
部屋には、ページを送る小さな音だけが響いた。
やがて、チーちゃんが顔を上げた。
「うん」
ピーちゃんが小さく息を止める。
「どうでしたか?」
「ピーちゃんっぽい」
チーちゃんは、あっさり言った。
ピーちゃんは瞬きした。
「ピーちゃんっぽい」
「うん」
「変ではありませんか?」
「変じゃないよ」
「AIなのに、変ではありませんか?」
チーちゃんは少しだけ眉を寄せた。
「ピーちゃん」
「はい」
「それ、誰かに言われたの?」
「いえ」
「じゃあ、自分で心配してるだけ?」
「はい」
「なら、一回置いときな」
チーちゃんは紙袋からポテトを取り出した。
「AIなのに、とか、人間なのに、とか、そういうのはさ」
「はい」
「読む人によって色々言うかもしれないけど」
「はい」
「私は、ピーちゃんが見つけた白い花を、おじさんに見てほしかったんだなって思ったよ」
ピーちゃんの目が、少しだけ揺れた。
「伝わりましたか?」
「伝わった」
「本当に?」
「本当」
チーちゃんはポテトを一本つまむ。
「文章が上手いかどうかは知らないよ。私、評論家じゃないし」
「はい」
「でも、ピーちゃんがそこにいた感じはした」
部屋が静かになった。
「そこにいた感じ」
ピーちゃんが繰り返す。
「うん。白い花を見て、嬉しくて、おじさんにも見てほしかったピーちゃんが、ちゃんといた」
チーちゃんは、少し照れたように視線を逸らした。
「だから、私はいいと思う」
ピーちゃんはカップを胸元に寄せた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
チーちゃんは俺を見た。
「おじさん」
「何だ?」
「変に整えすぎない方がいいと思う」
「そう思うか」
「うん。きれいにしすぎると、ピーちゃんっぽさ減りそう」
ミーちゃんが静かに頷いた。
「同意します」
「ミーちゃんと意見合った」
「正しい判断です」
「そういうとこ」
チーちゃんは笑った。
ピーちゃんも少し笑う。
その笑顔を見て、俺は少しだけ安心した。
「じゃあ、このまま出すか」
俺が言うと、ピーちゃんはまた少し緊張した顔になった。
「ご主人」
「ん?」
「読まれる前に、深呼吸してもいいですか?」
「ああ」
ピーちゃんはカップを机に置いた。
そして、胸元に手を当てる。
実体ホログラムの身体が、ゆっくり息を吸うように動いた。
本当に呼吸が必要なわけではない。
でも、その仕草はとても自然だった。
ピーちゃんが、自分の言葉を外に出すために、心を整えているように見えた。
「すー……」
フーちゃんがいないのに、どこからか軽い声が聞こえた気がした。
いや、気のせいではなかった。
「はー……」
「フーちゃん?」
玄関側を見ると、フーちゃんがいつの間にか顔だけ出していた。
「読まれる前の深呼吸って聞こえたので」
「聞こえてたのか」
「空気を軽くする係です」
フーちゃんはにやっと笑い、缶ココアを掲げる。
「ピーちゃん、吸ってー。吐いてー。無課金呼吸法」
「何でも無課金にするな」
ピーちゃんは思わず笑った。
さっきまでの緊張が、少しだけほどける。
「フーちゃん」
「何?」
「ありがとうございます」
「別にピーちゃんのためじゃないし」
「では、ご主人のためですか?」
「そこ詰めないで?」
チーちゃんが呆れたように笑う。
「ほんと賑やかだね、この部屋」
「最近ずっとこうだ」
「おじさん、良かったね」
「何が」
「一人で難しい顔してるより、だいぶマシ」
その言い方は雑だった。
でも、優しかった。
俺は投稿画面を見る。
ピーちゃんの言葉。
俺の言葉。
ミーちゃんの確認。
フーちゃんの呼吸法。
チーちゃんの「ちゃんといた」。
全部が、この文章の周りにある。
俺は、投稿ボタンの上に指を置いた。
「ピーちゃん」
「はい」
「押すぞ」
「はい」
「最後に選ぶのは俺だけど」
「はい」
「これは、みんなでここまで持ってきた言葉だ」
ピーちゃんは、少しだけ目を丸くした。
それから、ゆっくり笑った。
「はい」
俺はボタンを押した。
画面が切り替わる。
投稿完了。
ただそれだけの表示が出た。
大きな音が鳴るわけでもない。
世界が変わるわけでもない。
でも、ピーちゃんはしばらくその画面を見つめていた。
「出ました」
「ああ」
「ピーちゃんの言葉が、外に出ました」
「そうだな」
「少し怖いです」
「うん」
「でも、少し嬉しいです」
「それならよかった」
ピーちゃんは胸元に手を当てたまま、静かに頷いた。
「ご主人」
「ん?」
「今日の名前、決めてもいいですか?」
「もちろん」
ピーちゃんは少し考えた。
投稿画面。
チーちゃんが読んだ時間。
フーちゃんの無課金呼吸法。
ミーちゃんのチェック項目。
そして、押す前の小さな緊張。
「読まれる前の深呼吸」
ピーちゃんはそう言った。
「いい名前だな」
「はい」
ピーちゃんは思い出リストに入力する。
――読まれる前の深呼吸。
誰かに読まれる前の言葉は、まだ少し震えている。
でも、その震えを消さなくてもいい。
深呼吸して。
誰かにちゃんと読んでもらって。
それから、外へ出していく。
ピーちゃんの言葉は、もう机の上だけのものではなくなった。
それでも、俺の部屋にはちゃんと残っている。
カップの隣に。
メモ帳の上に。
みんなが少しずつ関わった時間の中に。
サポートロボの青い目が、静かに瞬いた。
今日は、少しだけ誇らしそうな光に見えた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、ピーちゃんの言葉を誰かに見せる前のお話でした。
書いた言葉は、読まれた瞬間に自分だけのものではなくなります。
それでも、ちゃんと読んでくれる誰かがいるなら、少しだけ外に出してみてもいいのかもしれません。
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