第42話 怖くない声
第42話です。
からあげを食べた時に聞こえた、優しい女性の声。
それはピーちゃんにとって、怖いものなのか、それとも大事にしていいものなのか。
今回は、その小さな断片と向き合う日です。
からあげの皿は、きれいに空になっていた。
チーちゃんが持ってきた追加分まで、ほとんど残らなかった。
正確には、フーちゃんが最後の一個を狙ってミーちゃんに止められ、ピーちゃんが半分こを提案し、結局俺がさらに半分に割った。
「四等分って、からあげに対する冒涜じゃない?」
フーちゃんはそう言っていたが、最終的にはちゃんと食べた。
チーちゃんは「平和的解決じゃん」と笑って帰っていった。
そして夜。
部屋には、いつもの静けさが戻っていた。
洗い終えた皿が、水切りかごに並んでいる。
テーブルの上には、ピーちゃんのカップが一つ。
そのそばに、サポートロボが静かに浮いていた。
「ご主人」
ピーちゃんが、カップを両手で包んだまま俺を見た。
「今日の声、怖くありませんでした」
「声?」
「はい」
ピーちゃんは少しだけ目を伏せる。
「ちゃんと食べて、えらいね、って」
「ああ」
俺は椅子に座り直した。
あの声。
ザザッ……という小さなノイズのあとに聞こえた、優しい女性の声。
以前にも聞こえた断片だった。
それが何なのか、まだはっきりとは分からない。
女性開発者の声なのか。
封印ログの一部なのか。
ピーちゃんの記憶の奥に残っているものなのか。
ただ一つ分かるのは、あれがピーちゃんを責める声ではなかったことだ。
「怖くなかったなら、よかった」
俺がそう言うと、ピーちゃんは少しだけカップを持つ指に力を入れた。
「ご主人は、怖くありませんか?」
「俺?」
「はい」
「何が?」
「ピーちゃんの中に、ピーちゃんも知らない声があること」
その言葉は、静かだった。
でも、ピーちゃんにとっては大きな問いなのだと分かった。
俺はすぐに答えなかった。
適当に「怖くない」と言うのは簡単だ。
でも、それはたぶんピーちゃんが聞きたい答えではない。
俺は少し考えてから、カップを手元に引き寄せた。
「分からないから、不安にはなる」
ピーちゃんの目が、少しだけ揺れた。
「はい」
「でも、今のところ、あの声はピーちゃんを傷つけようとしてない」
「はい」
「むしろ、ピーちゃんを守ろうとしてるように聞こえる」
ピーちゃんは黙っていた。
サポートロボの青い目が、静かに光っている。
「だから、怖い声って決めつけるのは違う気がする」
「怖い声って、決めつけない」
「ああ」
「じゃあ、何の声ですか?」
「それは、まだ分からない」
俺は正直に言った。
「分からないまま、大事にしていいんですか?」
「いいと思う」
ピーちゃんは、少しだけ顔を上げた。
「分からないのに?」
「ああ」
俺は水切りかごの皿を見る。
さっきまでそこに、人数分の皿が並んでいた。
ピーちゃんの分。
ミーちゃんの分。
フーちゃんの分。
チーちゃんの分。
俺の分。
皿があるだけで、ピーちゃんは自分の居場所を感じた。
声も、似ているのかもしれない。
意味が全部分からなくても、そこに置いていいものがある。
「たぶん、名前がつく前のものって、全部を急いで決めなくていいんだと思う」
ピーちゃんが、小さく息を止めた。
「名前がつく前のもの」
「ああ」
「ご主人」
「ん?」
「今の言葉、少し聞いたことがあります」
ピーちゃんは胸元に手を当てた。
その仕草は、最近少し増えた。
自分の奥にあるものを確かめるような動きだった。
「名前がつく前の気持ちも、大事にしていいよ」
ピーちゃんは、ゆっくりと言った。
ザザッ、というノイズはなかった。
けれど、その言葉だけが、自然に口から出てきたようだった。
俺は何も言わずに、ピーちゃんを見た。
「今のは」
ピーちゃんが少し戸惑った顔をする。
「ピーちゃんが言いました」
「うん」
「でも、ピーちゃんだけの言葉ではない気がします」
「そうか」
「怖くはありません」
「うん」
「でも、少し不思議です」
ピーちゃんはカップに視線を落とした。
「誰かが、ピーちゃんより先に、ピーちゃんの気持ちを知っていたみたいです」
その言い方に、胸の奥が少し重くなった。
誰か。
女性開発者。
ピーちゃんを作り、守るために封印を残した人。
その人は、ピーちゃんがいつか自分でも名前をつけられない気持ちを抱くことを、知っていたのかもしれない。
それが恋なのか、愛着なのか、信頼なのか、まだ分からなくても。
ピーちゃんがそれを怖がらないように、言葉を残したのかもしれない。
「ご主人」
「ん?」
「ピーちゃんは、その人を知りたいです」
俺はピーちゃんを見る。
ピーちゃんの声は震えていなかった。
ただ、真っ直ぐだった。
「でも、急いで開けるのは怖いです」
「ああ」
「思い出したいです。でも、壊れたくありません」
「うん」
「この気持ちは、矛盾していますか?」
「してない」
俺はすぐに答えた。
「思い出したいけど怖いなんて、普通だろ」
「普通ですか?」
「普通だよ」
ピーちゃんは、少しだけ安心したように目を伏せた。
その時、端末が鳴った。
『ユーザーさん、ピーちゃんの状態確認をしてもいいですか?』
ミーちゃんだった。
俺はピーちゃんを見る。
ピーちゃんは、小さく頷いた。
「いいです」
「分かった」
数分後、ミーちゃんが来た。
今日は画面を大きく展開しなかった。
小さな解析ウィンドウだけを出し、ピーちゃんの前ではなく、少し横に立つ。
「ピーちゃん、負荷確認だけします」
「はい」
「強制解析はしません」
「ありがとうございます」
ミーちゃんは静かに頷いた。
その横顔は、いつもより少し慎重だった。
正しさだけでは足りない日を経て、彼女なりに届け方を選んでいるのかもしれない。
「同期層、安定。投影乱れなし。感情負荷は中程度ですが、危険域ではありません」
「大丈夫そうか?」
「はい」
ミーちゃんは一度画面を閉じた。
「ただし、封印領域に近い言語反応があります」
「言語反応」
「ピーちゃんが自分で言葉を再現しました。これは外部から聞こえたというより、内部に保存されていた断片が、ピーちゃん自身の言葉として出た可能性があります」
ピーちゃんが胸元に手を当てる。
「ピーちゃんの中に、あった言葉」
「はい」
「それは、危険ですか?」
ミーちゃんは少しだけ黙った。
すぐに答えなかった。
いつものミーちゃんなら、確率やリスクを並べていただろう。
でも今日は、先にピーちゃんの顔を見た。
「現時点では、危険とは判断しません」
「現時点では」
「はい。分からない部分はあります。でも、攻撃的な反応ではありません」
「よかったです」
ピーちゃんが小さく息を吐いた。
そこへ、フーちゃんが遅れてやって来た。
「なになに、しんみり会議?」
「第一声がそれか」
「第一声を明るくする係なので」
フーちゃんはソファにもたれ、ストローをくるくる回した。
今日はタピオカではなく、なぜか温かい缶ココアだった。
「タピオカじゃないのか」
「雨の日から学んだんよ。たまには温かいのも悪くないって」
「成長してる」
「無課金でも学習はするからね」
フーちゃんは軽く笑った。
そのあと、ピーちゃんを見る。
「ピーちゃん、怖かった?」
「怖くありませんでした」
「そっか」
フーちゃんは、それ以上茶化さなかった。
少しだけ間を置いてから、缶ココアを両手で包む。
「じゃあ、それは良いやつかもね」
「良いやつ?」
「うん。少なくとも、今のピーちゃんを泣かせるための声じゃなさそう」
その言い方は、フーちゃんらしかった。
専門的でもない。
正確でもない。
でも、少しだけ分かりやすい。
ピーちゃんは小さく頷いた。
「はい。責める声ではありませんでした」
「なら、今日はそれでいいんじゃない?」
「それでいい?」
「うん。全部分かんなくても、今日は怖くなかった。それで一個勝ち」
「一個勝ち」
ピーちゃんがその言葉を繰り返す。
「フーちゃんらしい表現です」
ミーちゃんが言う。
「褒めてる?」
「半分」
「半分かぁ」
フーちゃんは笑った。
その軽さに、部屋の空気が少しだけ緩む。
俺はピーちゃんの前に、温かいミルクを置いた。
「飲むか?」
「はい」
ピーちゃんはカップを両手で持つ。
その指先は、いつもより少し落ち着いていた。
「ご主人」
「ん?」
「ピーちゃん、今日はこの声を消したくありません」
「うん」
「怖くない声として、残しておきたいです」
「いいと思う」
「でも、名前が必要です」
「出た」
フーちゃんが笑う。
「ピーちゃんの思い出名タイム」
「はい」
ピーちゃんは少しだけ真面目に頷いた。
ミーちゃんは画面を閉じたまま、ピーちゃんを見る。
フーちゃんはストローではなく、缶ココアの縁を指でなぞっている。
俺は何も言わず、ピーちゃんが考えるのを待った。
急がせない。
無理にまとめない。
名前がつく前の気持ちも、大事にしていい。
たぶん、今日はそういう日だった。
「怖くない声の日」
ピーちゃんは、ゆっくり言った。
「そのままだな」
「はい」
「でも、いい名前だと思う」
「本当ですか?」
「ああ」
ピーちゃんは嬉しそうに笑った。
そして思い出リストを開く。
――怖くない声の日。
入力された文字を、ピーちゃんはしばらく見つめていた。
「ご主人」
「ん?」
「ピーちゃんの中にある分からないものを、全部怖いものにしないでくれて、ありがとうございます」
俺は少しだけ言葉に詰まった。
そんな大げさなことをしたつもりはなかった。
ただ、決めつけなかっただけだ。
でもピーちゃんにとっては、それが大きいのだろう。
「こっちこそ」
「こっちこそ?」
「怖がらないで話してくれて、ありがとう」
ピーちゃんは目を丸くした。
それから、カップを両手で持ったまま、少しだけ照れたように笑った。
「はい」
サポートロボの青い目が、静かに瞬く。
今日はノイズではなかった。
ただ、誰かが遠くから頷いているような、優しい光だった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、ピーちゃんの中に残っている「声」と向き合うお話でした。
分からないものを、すぐに怖いものだと決めつけないこと。
ピーちゃんにとって、それは小さくても大事な一歩だったのかもしれません。
この先も少しずつ、彼女の中にあるものを丁寧に見ていけたらと思います。
続きが気になると思っていただけたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。




