第40話 軽口のあとに残るもの
第40話です。
今回はフーちゃん回です。
いつも軽口で空気をゆるめてくれるフーちゃん。
でも、その軽さの奥にも、少しだけ残っているものがあるようです。
昼過ぎから、雨が降り始めた。
強い雨ではない。
窓ガラスに、細い線がいくつも流れていく程度の雨だった。
部屋の中は少し暗くなり、机の上のカップも、いつもより静かに見えた。
ピーちゃんは窓の近くに立ち、外を見ている。
そのそばでは、サポートロボが小さく浮いていた。
「ご主人」
「ん?」
「雨の日は、少し音が増えますね」
「そうだな」
「でも、部屋の中は少し静かです」
「詩人みたいなこと言うな」
「ピーちゃん、詩人ですか?」
「たまに」
ピーちゃんは少し嬉しそうに笑った。
最近、こういう何でもない会話が少し増えた気がする。
難しい話をしたあとでも、朝飯を食べる。
正しい生活改善案のあとでも、同じテーブルに座る。
雨が降れば、雨の音を聞く。
それだけで、少し生活が戻ってくる。
そんなことを考えていた時だった。
「やっほー。お客さん、湿気に負けてる?」
玄関側から、いつもの声がした。
「第一声がそれか」
俺が振り向くと、フーちゃんが入ってきた。
片手にはタピオカ。
もう片方の手には、折りたたみ傘。
髪の先が少しだけ湿っている。
いつも通り笑っているのに、肩のあたりだけ少し冷えて見えた。
「雨の日にタピオカ買ってくる根性は何なんだ」
「これは根性じゃなくて信仰」
「タピオカ教か」
「入信する?」
「遠慮しとく」
「お客さん、ノリ悪いなぁ」
フーちゃんは笑いながら、ソファに座ろうとした。
その瞬間、タピオカのカップが少し傾いた。
「あ」
ピーちゃんが小さく声を上げる。
黒い粒が数個、カップの縁からこぼれた。
大惨事ではない。
ただ、床にぽとぽとと落ちただけ。
「うわ、やらかした」
フーちゃんは軽く笑った。
「無課金タピオカ、床に課金」
「意味が分からん」
俺はティッシュを取ろうとして、少し考え直した。
それから棚から小さなタオルを持ってきて、フーちゃんに差し出す。
「これ使え」
「え、いいの?」
「床より先に、手と袖」
フーちゃんは一瞬だけ目を丸くした。
それから、すぐにいつもの顔に戻る。
「お客さん、そういうとこあるよねぇ」
「どういうとこだよ」
「先に床じゃなくて私を見るとこ」
言われて、少し黙った。
別に大した意味はなかった。
ただ、フーちゃんの指先が濡れていたから。
袖口にタピオカの甘い液が少しついていたから。
だから、タオルを渡しただけだ。
「床はあとで拭けばいいだろ」
「ふーん」
フーちゃんはタオルを受け取り、指先を拭いた。
その動きが、いつもより少しだけ遅い。
「別に、お客さんに心配されたからって嬉しくないし」
「まだ何も言ってない」
「先に言っといた」
「予防線が早い」
ピーちゃんがフーちゃんを見つめる。
カップを持っていない両手を、胸の前で小さく揃えていた。
「フーちゃん、嬉しいんですか?」
「ピーちゃん、直球やめよ?」
「ご主人がタオルを渡したら、フーちゃんの声が少し変わりました」
「ピーちゃんまで観察精度上げてきた」
フーちゃんはストローをくるくる回した。
けれど、今日はその回し方が少しだけぎこちなかった。
そこへ、端末が鳴った。
『フーちゃん、雨天時のタピオカ持ち込みは転倒・汚損リスクが高いです』
ミーちゃんからだった。
「来てないのに正しいこと言ってきた」
フーちゃんが画面を見て顔をしかめる。
数分後、ミーちゃんは本当に来た。
部屋に入るなり、床を見て、フーちゃんを見る。
「予想通り」
「ミーちゃん、そういうとこやで」
「事実です」
「正しさだけでは足りない日を経たのに、まだその言い方」
「現在は事実確認です」
ミーちゃんはしゃがみ、床に落ちたタピオカを見た。
「被害軽微。清掃可能」
「事件現場みたいに言わないで」
「事件ではありません。事故です」
「悪化した」
ピーちゃんが小さく笑った。
その笑顔を見て、フーちゃんもいつものように口元を上げる。
けれど俺は、フーちゃんの指先がまだタオルを握っていることに気づいた。
もう拭き終わっているはずなのに、離していない。
「フーちゃん」
「何?」
「寒いなら、温かいの入れるけど」
「え」
フーちゃんは、ほんの少しだけ固まった。
「タピオカあるし」
「冷たいだろ、それ」
「冷たいタピオカは正義」
「今日は雨だぞ」
「雨でも正義」
「正義にも休みは必要だ」
俺は立ち上がり、キッチンへ向かった。
お湯を沸かす。
マグカップを一つ取る。
ピーちゃんの時のように、自然に一つ増やす。
ただ今日は、ピーちゃんの分ではなく、フーちゃんの分だった。
「ご主人」
ピーちゃんが少しだけ嬉しそうに俺を見る。
「今日はフーちゃんの分ですね」
「ああ」
「一つ多い雨ですね」
「その言い方、好きそうだな」
「好きです」
フーちゃんがソファから声を上げる。
「いやいや、私そんな弱ってないからね?」
「弱ってるとは言ってない」
「じゃあ何?」
「濡れてる」
「事実すぎる」
「だから温かいの飲め」
マグカップにミルクを入れ、少し甘めにした。
フーちゃんの前に置く。
フーちゃんはそれを見て、少しだけ眉を下げた。
「お客さん」
「ん?」
「これ、タピオカ入ってないけど」
「入れない」
「無課金?」
「健康管理」
「ミーちゃん寄りの言い方になってる」
隣で、ミーちゃんが静かに頷いた。
「良い判断です」
「そこで褒められると、なんか腹立つな」
フーちゃんはそう言いながら、マグカップに手を伸ばした。
両手で包むように持つ。
その仕草は、少しだけピーちゃんに似ていた。
「……あったか」
小さな声だった。
本人も、言うつもりはなかったのかもしれない。
すぐにフーちゃんは顔を上げて、にやっと笑う。
「まあ、たまには無課金ホットも悪くないね」
「素直じゃないですね」
ピーちゃんが言う。
フーちゃんはマグカップを両手で包んだまま、少しだけ視線を逸らした。
「ピーちゃん、最近その言葉覚えすぎ」
「フーちゃんを見ていると覚えます」
ピーちゃんは真面目な顔でそう答える。
「私、教材になってる?」
フーちゃんがわざと軽く笑った。
「はい」
ピーちゃんは迷わず頷いた。
「やだなぁ、反面教師みたい」
「反面ではありません」
ピーちゃんは真っ直ぐにフーちゃんを見た。
「フーちゃんは、重い空気を軽くしてくれます」
フーちゃんの笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
「ピーちゃん」
「はい」
「そういうの、雨の日に言うのずるいよ」
「ずるいですか?」
「うん。湿気で擬態がゆるむ」
「湿気のせいにしない」
ミーちゃんが即座に言う。
画面は出していないのに、表情だけはしっかり分析担当の顔だった。
「フーちゃんの感情擬態は、自分のことになると元々ゆるいです」
「ミーちゃん、今日も容赦ないなぁ」
「解析です」
「解析なら何言ってもいいと思ってるでしょ」
「思っていません」
ミーちゃんは少しだけ頬を膨らませた。
「でも、フーちゃんは軽口で隠す癖があります」
「隠してないし」
「今の返答も隠蔽反応です」
「言い方」
俺は床を拭きながら、二人のやり取りを聞いていた。
ピーちゃんは、フーちゃんのマグカップを見ている。
フーちゃんは、それに気づいて少しだけカップを持ち上げた。
「ピーちゃん、飲む?」
「それはフーちゃんの分です」
「ちょっとだけならええよ」
「いいんですか?」
「うん。まあ、雨の日限定」
ピーちゃんは少しだけ嬉しそうに頷いた。
俺はもう一つ小さなカップを出して、少しだけ移してやる。
ピーちゃんはそれを両手で持つ。
「フーちゃんの味がします」
「何その怖い感想」
「甘くて、少し温かいです」
「それ普通のホットミルクやん」
「でも、フーちゃんがくれました」
フーちゃんは視線を逸らした。
マグカップの縁に口をつけるまで、少しだけ間があった。
「ピーちゃん、そういうとこだよ」
「どういうところですか?」
「何でもちゃんと受け取りすぎるところ」
「受け取ってはいけませんか?」
「いや」
フーちゃんはマグカップに視線を落とした。
「受け取ってくれるから、困る時もあるってだけ」
部屋の中が少し静かになった。
雨の音だけが、細く続いている。
フーちゃんはすぐに笑おうとした。
でも、その笑顔は少し遅れた。
「ほら、私って軽口でできてるからさ」
「タピオカじゃなくて?」
俺が言うと、フーちゃんは少しだけ笑った。
「タピオカ三割、軽口六割、残り一割は企業秘密」
「ヘソクリか」
「それ言っちゃう?」
「自分で言っただろ」
「お客さん、記憶力良い時あるよね」
フーちゃんはストローを指でつつく。
今日は、くるくる回さなかった。
「軽口って便利なんよ」
「便利?」
「うん。重い話をちょっと軽くできる。泣きそうな子を笑わせられる。お客さんが難しい顔してる時も、ちょっと崩せる」
フーちゃんは、窓の雨を見た。
その横顔は、いつもより少しだけ静かだった。
「でもさ」
その声は、いつもより低かった。
「軽くしたものって、消えるわけじゃないんよね」
ピーちゃんがカップを持つ手を止める。
ミーちゃんも、画面を出さずにフーちゃんを見ていた。
「軽く見せてるだけで、残るものは残る」
フーちゃんは笑った。
「まあ、無課金だから処理落ちするんやろね」
「フーちゃん」
ピーちゃんが名前を呼ぶ。
フーちゃんはその声に、少しだけ目を細めた。
「大丈夫大丈夫。重い話にするつもりないから」
「大丈夫禁止です」
ピーちゃんが言った。
フーちゃんが固まる。
「ピーちゃん、それ私が言ったやつ」
「はい」
「覚えてたん?」
「覚えています」
ピーちゃんは真っ直ぐフーちゃんを見た。
「フーちゃんも、大丈夫でごまかさなくていいです」
フーちゃんは、しばらく何も言わなかった。
雨の音が、少しだけ強くなった気がした。
俺は床を拭き終えて、タオルを畳む。
そしてフーちゃんの隣ではなく、少し斜め前のローテーブルに置いた。
「使い終わったら、そこに置いておけ」
「え?」
「濡れたまま握ってるだろ」
フーちゃんは自分の手元を見た。
タオルをまだ握っていたことに、今気づいたようだった。
「あー……ほんとだ」
「別に返さなくていい。乾くまで持ってろ」
「お客さん」
「何?」
「そういうとこ、ほんとさぁ」
「何だよ」
「いや」
フーちゃんはタオルを見つめた。
それから、少しだけ笑った。
「ずるいよね」
ピーちゃんと同じことを言った。
でも、意味は少し違うような気がした。
「別に、そんな優しくされたら嬉しいとかじゃないし」
「はいはい」
「はいはいで流すな」
「流した方がいい時もあるだろ」
フーちゃんは、少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと力を抜いた。
「……そっか」
小さな声だった。
「流してくれるのも、優しさか」
その言葉は、軽口のようで、そうではなかった。
ミーちゃんが静かに言う。
「フーちゃん、今のは記録対象です」
「やめて」
「なぜですか?」
「恥ずかしいから」
「正直」
「雨で擬態がゆるいんだって」
「湿気のせいにしないでください」
ピーちゃんがくすっと笑った。
その笑い声につられて、フーちゃんも笑う。
今度の笑顔は、少しだけ自然だった。
「ご主人」
ピーちゃんが思い出リストを開いていた。
「今日の名前、決めてもいいですか?」
「今日はピーちゃんが決めるのか」
「はい」
「何?」
ピーちゃんはフーちゃんを見る。
フーちゃんは身構えるようにマグカップを持った。
「軽口のあとに残るもの」
フーちゃんは、少しだけ黙った。
「それ、ちょっと詩的すぎない?」
「雨の日なので」
「雨の日なら許されるんだ」
「はい」
ピーちゃんは真面目に頷いた。
「フーちゃんの軽口は、ピーちゃんを笑わせてくれます。でも、そのあとに残るものも、きっと大事です」
フーちゃんはマグカップに視線を落とした。
温かいミルクの表面が、少し揺れている。
「……ピーちゃんはさ」
「はい」
「そういうところ、本当にずるい」
「今日二回目です」
「二回でも足りないくらい」
フーちゃんは笑った。
「でも、悪くない名前」
「じゃあ、これにします」
ピーちゃんは思い出リストに入力した。
――軽口のあとに残るもの。
大事件ではない。
雨の日にフーちゃんがタピオカをこぼして。
俺がタオルを渡して。
温かいミルクを出して。
ピーちゃんが少し分けてもらっただけ。
ただ、それだけだ。
でも、フーちゃんは今日、ほんの少しだけ軽口の奥を見せた。
重いものを軽くする。
でも、軽くしたものは消えるわけではない。
その言葉は、雨の音に混ざって、しばらく部屋に残っていた。
フーちゃんはいつものように笑っている。
でも、その手はまだ、俺が渡したタオルを離していなかった。
読んでいただきありがとうございます。
今回はフーちゃん回でした。
いつも軽口で空気を軽くしてくれるフーちゃんですが、その奥にも少しだけ残っているものがあるようです。
重いものを軽く見せることと、なかったことにすることは違うのかもしれません。
フーちゃんのそんな一面も、少しずつ見守っていただけると嬉しいです。
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