第37話 待たない足音
第37話 待たない足音
道場の朝は、いつもと変わらなかった。
窓から風が入り、床をすべる。
外では車が走り、どこかで犬が鳴いている。
――変わったのは、空気だけだ。
澪は木薙刀を手に取った瞬間、それを感じた。
(……来てる)
重くはない。
けれど、落ち着かない。
何かが近づいているのに、
地面が何も教えてくれない。
琥太郎はすでに入口に立っていた。
上着を羽織り、靴紐を結び終えている。
「街の方だな」
「うん」
澪は短く答えた。
キリンが少し遅れて顔を上げる。
胸元に手を当て、眉をひそめている。
「……人の声が、混じってる」
「敵?」
「分からない。
でも……逃げてる音がある」
その言葉で、澪は即座に決めた。
「行くよ」
迷いはなかった。
その声に、縁側の方で気配が動く。
亀王だ。
縁側に座ったまま庭を見ていた背中が、こちらを向いた。
「……俺も行く」
立ち上がろうとする。
澪は一歩前に出た。
「来なくていい」
短く、はっきり言った。
亀王の動きが止まる。
「動ける」
「それは分かってる」
澪は視線を逸らさない。
「でも、今の亀王は……」
言葉を切る。
琥太郎が静かに続けた。
「今回は一般人が大勢いる」
亀王の表情が、わずかに強張った。
「……なら、なおさら」
「だからよ」
澪が被せる。
強い眼差しが一瞬潤んでいるようにも見えた。
キリンが、小さく頷いた。
「……地、今は反応してない。
無理すると……壊れる」
リンの気配が、亀王の胸元から離れる。
それが、はっきり分かった。
亀王は拳を握る。
一歩も動けないわけじゃない。
だが、立てていない。
数秒の沈黙。
そして、亀王は言った。
「……分かった、行かない」
澪が小さく息を吸う。
「……頼む」
「任せて」
*
三人は道場を飛び出した。
街の方から、悲鳴が聞こえる。
「きゃあっ!」
「誰か――!」
角を曲がった先の路地。
数人の一般人が転び、必死に逃げていた。
影が動く。
人の形に近いが、どこか歪んでいる。
骨のように細く、関節の動きが不自然だ。
「……一体じゃない」
琥太郎が言った直後、
路地の奥、電柱の影から、もう一体が姿を現した。
骨を引きずる音が、遅れて響く。
「増えてる……!」
澪は一瞬だけ周囲を見る。
立ち上がれない老人。
子どもを抱えた母親。
逃げ遅れた人間が、まだいる。
影が、そちらへ向きを変えた。
「させない!」
澪が割って入る。
木薙刀で進路を切り、無理やり押し返す。
乾いた衝撃。
腕が痺れる。
影は、人を狙っている。
戦うためではない。
恐怖を生むためだ。
「キリン!」
「……今、抑えてる!」
キリンは胸元を強く押さえていた。
黒い勾玉が、はっきりと脈打っている。
「リンが……嫌がってる。
でも……引っ張られてる」
「何に?」
「分からない……
でも、“見られてる”」
*
高いビルの影。
黯冥は、路地の光景を静かに見下ろしていた。
「……良い」
骨の指が、ゆっくりと地面を指す。
「恐怖は、地を呼ぶ」
背後の影が低く笑う。
「玄武を、引きずり出す餌か」
「違う」
黯冥は首を振った。
「守れない状況を積め。
“間に合わなかった”という記憶を、刻め」
*
路地で、悲鳴が上がった。
影の一体が、老人へ伸びる。
澪が間に入ろうとして――間に合わない。
その瞬間。
影の足元が、わずかに沈んだ。
「……っ?」
誰の足元でもない。
影だけが、ほんの一瞬、動きを止める。
「今の……」
琥太郎が息を呑む。
澪は、はっとして道場の方向を見る。
(……亀王?)
*
道場。
亀王の足元が、かすかに震えた。
(……今、何か……)
触れていない。
踏み込んでもいない。
それなのに、
地が、勝手に動いた。
『……まだだ』
低く、落ち着いた声が、胸の奥に響く。
(……ゲン)
名前を呼ぼうとして、やめる。
返事はない。
亀王は、拳を握りしめた。
「……勝手に、守るな」
それが、自分への言葉だと分かっていた。
*
路地で、影が再び動き出す。
「一瞬だけ……止まった」
澪が息を整える。
「偶然じゃない」
キリンが言った。
「地が……引っ張られた。
亀王じゃないのに」
影の体に、黒い線が走る。
地面から、何かを吸い上げるように。
「……地の隙間を使ってる」
骨の数が、増える。
「……来るよ」
澪は前を見る。
守るべき人が、そこにいる。
亀王がいなくても。
地が応えなくても。
――ここで止めなければならない。
その決意を、
闇は、確かに見ていた。
今回は、
「戦うかどうか」よりも
「誰が行かないと決めたか」を描いた回でした。
澪が亀王を止めたこと、
亀王が行かないと決めたこと。
その両方が、少しずつ“次”を呼んでいます。
守れなかった記憶は、
戦いよりも長く残る。
そんな気配だけを置いて、今回はここまでです。




