第36話 軽い地と、空いた足元
朝は、何事もなかったように来た。
病室のカーテン越しに差し込む光は柔らかく、
廊下の足音も、夜よりずっと多い。
亀王は、目を覚ました。
まず感じたのは――軽さだった。
胸の痛みは残っている。
体も万全じゃない。
それでも、あの“貼りつく重さ”が、ない。
(……ない)
ベッドから起き上がる。
今度は、引き止められない。
足を床につける。
冷たい感触はある。
でも――応えがない。
いつもなら、踏んだ瞬間に返ってきた、
あの鈍い反発が、どこにもない。
(……本当に、引いたんだ)
悪いことじゃない。
むしろ、動ける。
それなのに、
心の奥に、小さな穴が開いたみたいだった。
*
退院は、思ったより早かった。
「外傷もないし、数日安静にね」
医師はそれだけ言って、カルテを閉じる。
異常はない。
数値も、問題なし。
亀王は頷いた。
“数値”に、地の重さは映らない。
病院の外に出ると、
朝の空気が思ったより冷たかった。
澪が、隣を歩く。
包帯はまだ取れていない。
「……大丈夫?」
「歩ける」
歩ける。
本当に。
一歩踏み出すたび、
地面は静かだ。
重くもない。
応えもしない。
まるで――
初めてこの街を歩いているみたいだった。
*
道場は、いつも通りの匂いがした。
木と畳と、乾いた風。
朝の稽古が終わったあとで、人影はまばらだ。
亀王は、入口で足を止めた。
違和感がある。
昨日まで、
ここは“近い場所”だった。
今は、ただの建物だ。
「……入らないの?」
澪が振り返る。
「……入る」
そう言って、足を踏み出す。
畳の感触。
柔らかさ。
でも――そこから先が、ない。
地面と、つながっていない。
亀王は、思わず手を握った。
(……守れない、ってこういうことか)
昨日までは、
守るために動けなかった。
今日は、
動けるのに、守る場所がない。
どちらが怖いか、比べるまでもなかった。
*
稽古の途中、澪が木薙刀を構える。
「……少しだけ」
亀王は頷いた。
打ち合いではない。
型を合わせるだけ。
澪が踏み込み、
亀王が受ける。
――一瞬、遅れた。
木薙刀が、亀王の肩を掠める。
「……っ」
大した怪我じゃない。
でも、確かに――避けきれなかった。
澪がすぐに動きを止める。
「……今の」
「……大丈夫」
大丈夫。
言葉は出た。
でも、胸の奥が冷えた。
いつもなら、
足が勝手に“合って”いた。
地が、間を埋めていた。
今は、それがない。
「……今日は、ここまで」
澪がそう言って、木薙刀を下ろす。
亀王は、何も言えなかった。
*
昼前、道場の縁側。
亀王は腰を下ろし、
庭の石を見ていた。
石は、何も変わっていない。
重さも、形も。
でも――
こちらだけが、変わった。
(……使えない、ってこういうことか)
力がないわけじゃない。
むしろ、体は軽い。
なのに、
守りの“芯”が、ない。
キリンが、縁側に座った。
リンは肩にいる気配だけ。
「……どう?」
「……軽い」
「……うん」
キリンは、それ以上喜ばなかった。
「軽いのは、いいこと?」
「……分からない」
キリンは、庭の土を見る。
「地がね……
今、遠い」
その言葉に、亀王の胸が小さく鳴った。
理解じゃない。
納得でもない。
ただ、距離を感じた。
「……戻る?」
「戻らない」
即答だった。
戻れない、じゃない。
戻らない。
あの重さに、
甘えるつもりはなかった。
キリンは、少しだけ笑った。
「……じゃあ、探そう」
「?」
「戻らない地で、
立つ場所」
亀王は、庭の土を見た。
遠い。
でも、消えてはいない。
(……立つ場所)
守る場所じゃない。
まず、立つ場所。
それが、次なんだと――
言われた気がした。
*
夕方、風が変わった。
澪が、道場の外を見て言う。
「……来るね」
琥太郎も、同じ方向を見ている。
「……ああ。
でも、昨日のとは違う」
空気は、重くない。
むしろ、軽すぎる。
風が、足元をすり抜けていく。
亀王は、無意識に一歩踏み出していた。
その瞬間、
地面が――何も返さなかった。
足が、わずかに流れる。
「……っ」
澪が、即座に腕を掴んだ。
「無理しない!」
亀王は、息を整える。
守れない。
でも、離れるわけにもいかない。
そのとき。
風の向こうで、
誰かが、立ち止まった気配がした。
姿は見えない。
音もない。
ただ、
“軽い地”の上に、
不自然な一点がある。
亀王は、そこを見つめた。
(……来たな)
重さじゃない。
でも、確実に――次だ。
地が返らないまま、
物語は、先へ進もうとしていた。
第36話は、
亀王が「守れなくなった自分」と向き合う朝の話でした。
力が使えないことよりも、
そのことで澪の隣に立てなくなった感覚のほうが、
彼にはずっと重く響いています。
守る側でいたい。
でも、守れない。
それでも離れたくはない。
今回は、
その矛盾を抱えたまま一歩踏み出してしまう、
亀王の弱さと人間らしさを中心に描いています。
澪が手を伸ばす場面も、
支え合いというより、
「まだ一緒にいるための距離」を確かめる瞬間でした。
何かが戻ったわけでも、解決したわけでもありません。
ただ、関係だけが次の段階に進み始めています。




