第172話 手のひらの上
コンテナは静かに、まるで息を潜めるように進んでいた。牽引するオウガの巨体が、一歩ずつ大地を慎重に踏みしめる。そのたび、床下から伝わるわずかな震えが、乗車する者に移動中であることを思い出させる。金属の軋みが途絶えると、車内は紅茶の香りと、人々の吐息だけが満ちていた。
「さあ、皆さん。お茶でもどうぞ」
マルフレアが静かに声を掛けた。温かな湯気が立ち上るティーポットから、淡い琥珀色の液体がカップへと注がれていく。控えめな金属音が響き、テーブルを囲む四人の視線が自然と集まった。
──この顔ぶれでトレフロイグの首都ロエルへ向かうなど、ほんの数日前までは彼女以外、誰一人として想像していなかった。
「頂戴します」
穏やかな声とともにカップを取ったのは、シュルト・アシュレー。
ヤドックラディ第二の高位貴族、アシュレー家の当主。その動作には一分の隙もなく、紅茶を口に運ぶ仕草すら、まるで舞踏の一幕のように洗練されていた。
光を受けて淡く輝く瞳、凛とした横顔。──なるほど、セナ・アシュレーの実兄だ。マルフレアは思わず胸の内でそう呟いた。初対面のとき、息を飲んだ自分を思い出し、わずかに頬を緩める。
「なかなかよい香りですね。ベラワー産でしょうか? いや……スロスクのものかな」
カップの縁に鼻を寄せながら、シュルトが微笑む。その笑みには余裕と誇り、そして貴族としての確かな眼があった。
「申し訳ありませんが、産地は存じません。以前、メシュードラ将軍がグリシャーロットで買い求めたものを分けてくださったので。たしかガントから仕入れた品だと伺っています」
「ガントの品ですか。……さすがに良いものを扱っている。これほどの紅茶は、ニスビーでも滅多に口にできませんよ」
「喜んでいただけて光栄です」
柔らかな笑みが交わされる。だが、穏やかなやり取りの裏で、空気にはかすかな緊張が漂っていた。
コンテナの壁に反響するオウガの足音が、まるで遠雷のように一定のリズムを刻んでいる。その振動が紅茶の表面に小さな波紋を生み、誰もが無意識にその揺れを見つめた。
──これから敵の本拠地に乗り込むというのに。
マルフレアはそんな場の静けさを見渡しながら、胸の奥で微かに嘆息する。シュルトの落ち着き払った微笑みは、貴族特有の優雅さというよりも、どんな局面でも気品を崩さぬという「身分の盾」に思えた。
一方で、ピルムは顔面をこわばらせ、椅子の肘掛けを握りしめたまま、何度も落ち着きなく視線を動かしている。喉を鳴らす音すら、沈黙の中ではやけに大きく響いた。
その対極にいるのがカーツ・ゴーレイだった。彼は腕を組んだまま、目を閉じている。外界を断ち切るように、まるで沈思黙考の像と化していた。
(マルフレア・フォーセイン……いったいどこまで計算しているのか……)
カーツは瞼を閉じていても、脳裏には彼女の顔が浮かんでいる。
あの漆黒の瞳。いつも何手も先を見通すような、冷静で、時に底知れぬ眼差し。
彼女の導きで勝利を得たことは確かだ。だが、その思考の層は複雑で、読めば読むほど霧が濃くなる。自分が戦略家を名乗っていたのが、幼稚な自惚れだったと痛感させられるほどだ。
──貴族連合の寝返り工作。あれほど大胆で、かつ綿密な策が他にあるだろうか。
セナ・アシュレーの真心を利用してダーシャ・ザーニを寝返らせる──その発想自体が、常識を越えていた。
しかも、その「仕掛けの主軸」として、自分が使われていたのだ。
胸の奥に鈍い痛みが走る。
ダーシャへの想い。それは、己の中で最も触れてはならぬ領域だった。
彼女を愛している──それは否定できぬ真実。
だが、ヤドックラディの臣民である以上、その恋が実ることはないと知っていた。
だからこそ、心を封じるように別の女性を妻に迎えた。優しい人だった。だが病弱で、わずか二年で逝ってしまった。
彼女を愛しきれなかった後悔は、今も胸に残る。再婚をしなかったのは、己の罪を繰り返したくなかったからだ。
愛を断ち切るために他の愛を使う──その愚かさを、もう二度と犯したくなかった。
けれど、それでもダーシャの面影は消えない。
あの日、彼女の執務室で交わしてしまった一度の口づけ。
それが、長年積み上げた決意を一瞬で揺らすほどのものだった。
──この想いは、二人だけのもの。
誰にも知られず、誰にも利用されるはずがない。そう信じていた。
しかしマルフレアは、それすら戦略に変えてしまった。
人の情を、戦の勝敗を左右する駒へと組み込み、勝利の方程式に変えてしまったのだ。
完敗──その言葉以外にない。
*
ニスビーに入城した昨日、カーツは絶え間なく飛んでくる命令を処理し続け、結局ダーシャと顔を合わせることはなかった。
彼女もまた、市民の混乱を鎮めるため奔走していたと聞く。
そして夜。
マルフレアに呼び出された。
静まり返った幕舎で、淡々と語られた事実──ダーシャが寝返った経緯、その全ての裏にあった策略。
それを知った瞬間、カーツの胸には怒りでも悲しみでもない、ただ深い衝撃が広がっていった。
己の愛が、戦略の一部として使われていたという現実。
それが、彼の誇りを静かに切り裂いていった。
「どうかお許しください、カーツ将軍。ですが、間違ったことをしたつもりもありません。お二人が幸せになる道を歩めるよう、少しだけお手伝いしたのです」
「な……っ……」
その言葉を聞いたとき、カーツの胸の奥に、冷たい刃が静かに突き立つような感覚が走った。
マルフレアはいつもの穏やかな微笑を崩さず、まるで茶会の話題をひとつ増やすかのように軽やかに告げたのだ。
幕舎の灯が揺れ、薄闇に浮かぶ彼女の横顔を照らす。整った顔立ちに似つかわしくない、その底知れぬ冷静さ。
──物は言い様だ。
ダーシャへの想いを利用し、自分が彼女を救うために王に背いたと虚偽を吹き込む。
そして、その偽りを信じ切ったダーシャは、見事に裏切りへと導かれた。
自分たちが大切に抱き続けてきた想い。それを、戦略の道具として利用されたのだ。
だが──結果だけを見れば、確かに「二人の願い」は叶う。
戦を生き延び、同じ未来を歩む可能性を、彼女は作り出した。
皮肉にも、マルフレアは恩人と呼ぶべき存在なのかもしれない。
しかし、その事実が胸の奥を焼く。
この一回り以上も年若い娘の手のひらで、自分が踊らされていたという現実。
心の奥底で、苦味が静かに渦を巻く。
(……所詮、俺やダーシャごときでは、足元にも及ばぬのだろう)
唇が、ほとんど無意識にその言葉を噛み締めた。
──天才。
そう呼んでしまえば、全ての理屈が片付いてしまう。
ベネディクト・フォーセインの孫にして最後の弟子。その血脈に宿る軍略の才は、もはや人知の域を超えている。
怒りはあった。
だがそれよりも深く、胸を支配しているのは畏怖。そして、奇妙な尊敬。
己の感情を超越した知略を操り、戦の流れを支配するその少女。
──来栖弾九郎とマルフレア・フォーセインのもとでなら、自分はこの時代に生きた証を刻める。
戦場の砂塵の向こうで、歴史に名を残す者たちがいる。
その中に、自分の名を並べたいという衝動が、心の奥で静かに灯る。
(……ならば、乗ってやろう。その策とやらに)
コンテナが揺れる。灯がふっと揺らめき、壁に映る影が二重に重なった。
カーツはその影を見つめながら、心の奥で固く誓う。
(すべてが終わったとき──俺はダーシャに想いを伝える──そして……)
それが、たとえ兄を踏みつけて得た幸せだと罵られようとも構わない。
誰にどう思われようと、ダーシャをこの腕で守り抜く。
コンテナの外では、街道に吹く風がオウガの脚を撫でていた。
遠くの雷鳴のような足音が、彼の決意を確かめるように響いてくる。
カーツ・ゴーレイは瞼を閉じ、深く息を吐いた。
その呼吸の中に、怒りも悲しみも、そして恐れも溶けていく。
──残るのはただ、戦い抜く覚悟のみだった。
お読みくださり、ありがとうございました。
カーツとダーシャの悲恋は、ヤドックラディの貴族社会でまことしやかに囁かれていた噂でした。
その噂はマルフレアの情報網にも探知され、内部工作の候補として一応リストには挙げられていました。
しかし、謀略を仕掛ける決定的な材料ではなかったため、そのまま放置されていたのです。
ところが、セナ・アシュレーがヤマトに姿を現したことで状況は一変しました。
ダーシャは結果的に、マルフレアへ謀略の引き金そのものを与えてしまっていたのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




