第170話 空城
「王がいない……?」
ニスビーの城門前。
焼け焦げた街の匂いが、風に混じって漂っていた。瓦礫と灰の中を抜け、弾九郎はようやく辿り着いたヤドックラディの都を見渡す。
そこに勝利の凱歌はなかった。
ただ、人の逼塞した気配が作り出す城塞都市の静寂と、いくつかの崩れた建物の影が静かに立っているだけ。
「私らがニスビーに入ったときには、バート・ゴーレイは家族を連れてずらかっていた」
仮設の司令室テントへ報告に来たツェット・リーンの声が、疲れた空気の中に響く。
「宮廷の人間の話では、二日前に敗報を聞くとすぐに逃げ出したそうだ」
その語尾に滲む悔しさは隠せなかった。追撃部隊の到着よりも二日早い脱出──それでは、どうしようもない。
弾九郎は短く息を吐く。
戦場での勝利とは裏腹に、心の奥に苦い澱のような敗北感が広がっていた。
「……おそらくアイゼル将軍の手引きでしょう。出陣前にいざという時の算段だけは手配していたのです。でなければここまで鮮やかな脱出はあり得ません」
常に最悪の事態に備える老獪な将軍への敬意を滲ませつつ、静かな声でマルフレア・フォーセインが言った。
「自分達が囮となってニスビーへ向かい、王が逃げる時間を稼いだのでしょう」
ツェットは腕を組み、視線を落とした。
「そう言えば退却路も山沿いの変な道を使っていたな。私らはまんまとそれに引っかかったのか」
「相手が一枚上手だったな……で、アイゼルはどこにいる?」
と、弾九郎が問う。
「ニスビーには入らず、そのまま逃げていった。さすがに王を見捨てたかと思ったけど……最初からそのつもりだったみたいだな」
ツェットは歯噛みし、拳をテーブルに叩きつけた。木の上を伝う震えが、誰の胸にも響いた。
「今ごろはバート王と合流しているのでは?」
マルフレアはカップを持ち上げながら、あくまで冷静に結論を下した。
その目には冷たい光が宿っている。情を挟まぬ軍師のそれだった。
「……それで、次はどんな手を打つ?」
弾九郎の声は低く、だが確かな熱を帯びていた。
「バートをこのまま逃がすわけにはいかんぞ」
「もちろんです、弾九郎様」
マルフレアは一歩前へ出る。
「ひとまず今夜はニスビーにて休息し、明日、全軍で出撃しましょう」
「全軍で出撃!? どこへ行くんだ?」
ツェットが驚き、思わず立ち上がる。
夜明け前の作戦室には、蝋燭の火がちらちらと揺れ、その影が三人の顔を交互に照らしていた。
マルフレアはその灯を見据え、静かに答えた。
「もちろん、行き先は──トレフロイグです」
その名が落ちた瞬間、空気がひとつ凍りついた。
そこが、この戦いの本当の終着点であることを、誰もが悟っていた。
*
国境を越え、トレフロイグの首都、ロエルに通じる灰色の森にたどり着いたとき、敗走の軍にはもはや息づく気力すら残っていなかった。
木々の合間に湿った霧が漂い、葉の滴が鎧に落ちて冷たくはねる。泥にまみれた兵の列の先で、バート・ゴーレイはコンテナからわずかに顔を出した。
そこで、彼はついにアイゼル・パガニンと再会する。
「この痴れ者が──!!」
怒号が森を震わせた。
「余の軍を率いて大敗するとは! よくおめおめと顔を出せたな!」
雨に濡れた地面へ、アイゼルは両膝をついた。
「申し訳……ありません、陛下。全てはこのアイゼルの不明が招いたこと。如何なる罰も、お受けいたします……」
宿営地と呼ぶにはあまりに貧しいその場所で、王の鞭が空気を裂いた。
ひと振り、またひと振り──乾いた音が、兵らの胸に痛みのように響く。
泥にまみれた王と老将。
かつて栄華を誇ったヤドックラディは、いまや十機にも満たぬオウガを残すのみ。誇り高き王国は、風前の灯火であった。
「陛下、それ以上は……!」
声を上げたのは王妃カミラ。
水滴を弾く黒髪が頬に張り付き、瞳には焦りと恐怖が揺れている。
「アイゼル将軍をお責めになっても、何も戻りはいたしません。今、彼を失えば……誰が陛下をお守りできるのです」
彼女の言葉に、バートの手がようやく止まった。
荒い息が白く霧に溶けていく。
彼の胸には、怒りと屈辱、そしてどうしようもない無力感が渦巻いていた。
だが──カミラの声を無視することだけはできない。
彼女はトレフロイグの王、モツィ・イブスの娘であり、避難先への唯一の橋だったからだ。
「……再びの失態は許さぬぞ、アイゼル」
「は、ははっ……」
アイゼルは深々と頭を下げた。
その瞬間、彼の身体が前のめりに崩れる。
土を濡らす音がした。
老いた背に、いまも鞭の痕が赤く刻まれている。
非力な王の一撃とはいえ、幾度も打たれた身体には耐え難い痛みが走っていた。
駆け寄る部下たちの声が、遠くでかすんでいく。
積もり積もった疲労と責務の重さが、ついに彼の心臓を押し潰したのだ。
夜が明けても、アイゼルはまぶたを閉じたままだった。
焚き火の煙が白く上がる中、誰もその傍を離れようとはしなかった。
敗走の地に、ただ冷たい朝霧だけが静かに降りている。
*
アイゼル・パガニンは、決してバート・ゴーレイに心酔しているわけではなかった。
むしろ、その身の丈に合わぬ野望と、見栄ばかりの振る舞いに、幾度となく胸の奥でため息をついてきた。
だが、それでも彼は王の下に留まり、忠義を尽くす。
それは軍人としての責務であり──なにより、先代王サイラス・ゴーレイへの恩義ゆえだった。
あの人こそ、本物の王だった。
泥にまみれた一介の兵卒にすぎなかった自分を拾い上げ、叱り、導き、やがて将軍へと育て上げてくれた。
軍略の一手一手、兵の扱い、民の心の掴み方──全てを教えてくれたのがサイラス王だった。
アイゼル・パガニンという将軍は、サイラス・ゴーレイの手で鍛えられた「作品」と言ってよい。
その死の床で王は言った。
「バートを、頼む」
その一言だけが、今もなお彼をこの道に縛りつけている。
夜の森は静まり返り、遠くで梟が低く鳴いた。
焚き火の光が揺れ、木の影がアイゼルの顔に縞のように走る。
その皺だらけの頬に、疲労と諦観が深く刻まれていた。
バートには、父のような器も、誠実さもない。
弟のカーツが王であったなら──そう思わぬ日は、一日としてなかった。
だが、そんな思いを胸の奥底に押し込み、ただ命じられた任を全うしてきた。
結果が、これである。
かつて信頼を寄せた将軍ダーシャ・ザーニまでもが裏切った。
その理由を、アイゼルは完全には掴めなかった。
だが、察しは付く。
おそらく根源にあったのは、バートへの不信と失望。
そしてカーツへの断ちきれぬ想い。
あの戦場で、彼女が裏切りの刃を振るうには、これ以上ないほどの状況だった。
もし自分が彼女の立場だったなら──そう考えて、アイゼルは胸の奥で苦く笑った。
責める資格など誰にもない。
少なくとも今のバート・ゴーレイは、忠誠を捧げるに値する王ではなかった。
燃え尽きた焚き火が、ぱちりと音を立てて崩れた。
赤い残火に顔を照らされ、アイゼルは混濁した意識の中で思った。
ヤドックラディはもう終わりだ──その確信が、胸の奥に冷たく沈んでいる。
再起は、もはや望むべくもない。
自分もバート・ゴーレイも、トレフロイグの庇護を受けながら、ひっそりと余生を終えるしかないだろう。
ただ、それもヤマトが追撃を止めればの話だ。
老将はそれを理解しながらも、もはや抗う力を持たなかった。
彼の最後の望みは、遠く霞む夜明けの向こう──朝靄のように消えていった。
お読みくださり、ありがとうございました。
アイゼルは、自身が敗れた際に王だけでも逃がせるよう、あらかじめ手はずを整えていました。これは勝利を疑っていたからではなく、あくまで万が一に備えての判断でした。
戦況は狼煙と通信によってニスビーに待機する部下へ逐次伝えられており、敗走が確定した時点でバート王への報告が上がります。
王は常に、自身が脱出するためのコンテナを準備していたため、すみやかにニスビーを離れることができました。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




