第167話 天に背かず
「もしや、カーツ兄さまが裏切ったのは……」
「ヤマト王の人柄に心酔した──という側面もあるでしょう。ですが──真意は、もっと別にありました」
セナは一瞬言葉を切り、深く息を吸い込むと、覚悟を籠めた眼差しでダーシャをまっすぐ見据えた。幕の奥の蝋燭が微かに揺れ、二人の影を壁に揺らす。外からは遥かな戦の唸りが届き、静謐な室内との対比が、告白の重みを一層押し上げている。
「──それは、ダーシャ様のため。ダーシャ様を妻とするための決断だったんです!」
「……なっ!?」
言葉が、ダーシャの胸を鋭く突き刺す。どう理屈を積んでも、その結末へと至る道筋が見えない。信じがたい告白に、血の気が一瞬で引いたように感じられた。
「ダーシャ様とカーツ様は、互いに想い合っていました。本来ならば、大貴族の令嬢であるダーシャ様と、王弟カーツ様──身分も釣り合う見事な縁。しかし、バート王はそれをお許しにはなりませんでした」
セナの言葉は、過去の痛みを淡々と辿るように続いた。ダーシャ自身が最も深く傷つき、決別を選んだ経緯を、改めて他者の口から聞かされるのは余計に堪える。だが、セナはさらに重い真実を投げつける。
「カーツ様は違いました。ダーシャ様を妻とするために、どんな悪名を被ろうとも、兄であるバート王を倒す決意を固められたのです」
「な……なんで……すって……」
ダーシャの胸に滲むのは、恐ろしいほど甘美な幸福だった。愛する男が、自分を得るために王を討つ決意をした──その考えだけで、胸がひどく高鳴り、足元がふらつく。現実味のない夢のようで、しかし確実に心を侵す熱である。
「カーツ様は、密かに想い続けるのではなく、堂々と奪う道を選ばれたのです。それが、私が伝えたかった真実なのです」
だがその「真実」は、半分だけが真実であった。ダーシャへのカーツの想いは確かに真実だ。しかし、彼女を奪うために王に背いたわけでは無い。セナの一連の告白は、マルフレアが周到に仕立て上げた筋書きの一幕である。セナ自身は無垢にそれを信じ込み、ダーシャの懐に飛び込んできた──彼女の熱意も真実だが、背後にある設計図は他者の筆によるものだった。
「あ……ああ……セナ……」
「ダーシャ様」
ダーシャは言葉を探した。心の中では、過去の後悔が刺のように疼く。自分の軽率な一言で彼女を傷つけ、彼女を去らせた日々。今、目の前にいる女性は、その傷を覆い隠す決意と、なんとも言えぬ強さをたたえている。
「私、どうしたらいいの……ねえ、教えて……」
哀願するようなダーシャの声に、セナの声はひどく柔らかく、しかしその中に行動の鋭さが潜んでいる。やがて沈黙を破るように、彼女は決定的な一言を口にした。
「──カーツ様との未来を望むなら、道は一つです」
「それは…………」
「カーツ様と弾九郎様によって二つ頭の猟犬を破られた今、アイゼル将軍の手元に残るオウガは七百あまり……」
言葉の尾が落ちると、室内の空気が一気に凍りついた。
セナの提案は、静かで恐ろしい誘惑だった。平原でヤドックラディ正規軍を壊滅させれば、ニスビーの盾は消え、長らく自分たちを縛ってきたバート王を倒すことが現実となる。貴族連合の覇権、ダーシャの望む未来──全てが掌中に転がり込むように見える。
ダーシャの胸では二つの声が喧騒を始めた。ひとつは理性の声。王家と貴族、国の均衡、民の命──義務と責務の枷。もう一つは女として、愛する男と穏やかな日々を手に入れたいという渇望。蝋燭の炎が揺れるたび、その二つの影が交互に伸び縮みする。
セナの真心に嘘は混じっていない──彼女は真剣だ。しかし、その真剣さを利用したのが誰であるかを、二人はまだ知らない。幕外では依然として戦の轟きが鳴り、選択の時は刻一刻と近づいている。
幕の隙間から差し込む光が、二人の顔に冷たく当たった。ダーシャは窓辺の低い台に手をつき、拳を震わせる。欲望と義務、愛情と裏切り──その全てが、今この小さな部屋の中で濃縮されていた。
*
幕舎を出たダーシャとセナは、風を裂くように巨大な影のもとへ向かった。
青と橙の輝きを放つその機体──ダーシャのオウガ、サフィール。
陽光を浴びて宝石のように煌めくその姿は、戦場においてなお威厳と美を両立させ、見る者すべてに畏怖と誇りを抱かせた。
セナのピクシーが隣に並び、両機は静かに手を取り合う。金属が擦れ合う音が微かに響き、それが軍全体への号令の合図だった。
瞬く間に、平原に並ぶ九百二十のオウガが光の糸で結ばれたように整列し、その全てがダーシャの言葉を待つ。
沈黙の海に、彼女の声が澄みわたった。
「──この戦は、無益である!」
その一声が、空気を震わせる。貴族たちの間にざわめきが走った。
旗が風に鳴り、誰もが顔を見合わせる。彼女の言葉の意味を、誰一人、すぐには理解できなかった。
「ラバスはもとより我が国の領土。そして今、前線で血を流しているグリクトモアもグリシャーロットも、かつてはヤドックラディの盟友だった!」
ダーシャの瞳は炎のように燃えていた。
セナが隣で息を呑む。貴族たちの中で、察しの早い者が次第に表情を変え始める。
「それが今、なぜ我らは彼らと戦わねばならぬのか──!」
声が高鳴り、戦場に響く。
ダーシャは拳を握りしめ、青いサフィールの巨腕がそれに呼応するかのように動いた。
「全ては我が王、バート・ゴーレイの仕業である!」
その瞬間、陣内が凍りつく。
ダーシャは躊躇なく言い放った。
「王はクルーデなるならず者を使い、グリクトモアを我が物にせんとした。失敗すると、今度は実弟カーツ・ゴーレイ殿を謀り、殺そうとした!」
そのくだりは、セナから聞いたばかりの事実。
それも裏切りの一因だと。これでカーツはバートへの愛想が尽きてしまった。そう教えられた。
「道義を弁えぬ王に、我ら誇り高き貴族連合は従うべきか!」
ダーシャの声が雷鳴のように轟く。
「否! 天が許さぬ! ここでなおバートに味方するは、天に背くことと同じだ!」
沈黙が、一拍。
それから、どよめきが爆ぜた。
彼女の言葉に迷いを覚える者もいた。だが──その声音には、正義の確信と覚悟があった。
そして正義という衣をまとった言葉は、貴族たちにとって何よりも甘美な響きだった。
「今より我らはニスビーに戻り、バートを討つ! ──だがその前に、果たすべきことがある!」
ダーシャのサフィールが大剣を抜き放ち、陽光を受けて青白く閃く。
その剣先が、アイゼル・パガニンの本陣を真っ直ぐに指し示した。
「悪王に従う者どもをこの場で粉砕し、後顧の憂い無くニスビーへ征こうぞ!」
その瞬間、貴族連合の胸に熱が走った。
彼らは正義を掲げながら、同時に己の損得を秤にかける。だが、この反乱が成功すれば、利は多く、損はない──。
彼らにはただ勢いだけがあった。
しかし、その勢いこそが戦場を動かす。
「全軍、進撃せよ! 敵はバート・ゴーレイの犬! アイゼル・パガニンの本陣だ!」
九百二十のオウガが一斉に咆哮した。
地が震え、空が裂ける。
整然たる陣形など存在しない。ただ怒涛のごとき奔流が、正規軍の背を襲う。
その瞬間、ラバス平原の命運は決した。
風が吹き抜ける中、ダーシャは唇を結び、セナはその背を見つめた。
反逆の焔は、いま確かに燃え上がったのだ。
お読みくださり、ありがとうございました。
マルフレアは、セナ・アシュレーがヤマトへ飛び込んできたことを知った瞬間から、この謀略を思いついていました。
戦闘の最中に貴族連合を寝返らせることで、決定的な勝利を手にするという策です。
もちろんマルフレアは、ヤドックラディの宮廷事情や内実について事前に綿密な下調べをしていましたので、カーツやダーシャ、そしてセナの関係についても把握していました。
手持ちの情報を組み合わせ、謀略の形が整ったとき、彼女は興奮気味に「あなたというお方は、どれほど幸運に恵まれているのでしょうか!」と弾九郎に告げたのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




