第166話 セナの帰還
「シュカリラを討て……ですって……」
ダーシャ・ザーニは伝令の言葉を繰り返し、蒼白になった唇を噛みしめた。
幕舎の外では、激闘の余波が地を鳴らしている。薄い布越しに伝わる震動は、戦況の不穏さをありありと物語っていた。──戦いは、もはや誰の想定からも外れている。
攻城戦のはずだった。静かに、堅実にラバス城を包囲し、勝利を確実にするはずの戦だった。
それがなぜか野戦。
敵の数は倍に膨れ、七百のはずが一千五百。
シュカリラと、そして──あのダレウモアまでが姿を現した。
地図の上に置かれた木駒を指でなぞりながら、ダーシャは苦々しく息を吐く。
(まるで、罠ね……)
アイゼルの懸念がダーシャの頭をよぎる。──ダレウモアの別働隊がニスビーを攻撃する。もしそれが真実なら、目の前の戦線はすべて陽動。自分たちは囮に引っかかったということになる。
だが、同時に別の声が脳裏で囁いた。
(……けれど、本当にダレウモアがこの戦に介入するかしら?)
思考が熱を帯びる。
バート・ゴーレイは義理とは言え、トレフロイグの王、モツィ・イブスの息子。
その国に侵攻するということは、トレフロイグ全体を敵に回す危険性がある。
ダーシャは社交界で、ダレウモアやトレフロイグの貴族たちとも面識がある。彼らが宴で語っていた穏やかな関係、外交の均衡、どれを取っても戦の兆しなど微塵もなかった。
(理屈でも、感覚でもありえない……。ダレウモアに改革の風は吹いていると聞くけれど、宰相が替わったぐらいで大国相手に刃を向ける?)
ただ一つ、確かなこと──シュカリラは本気だ。
「シュカリラを率いるのは誰だ!」
声を張り上げると、伝令が膝をついて叫ぶ。
「王家の軍旗を掲げ、先頭に立つはエステリアーム! シュカリラのシルフィーア・ウォーカー姫で間違いありません!」
「シルフィーア……スケイグの鬼姫……!」
ダーシャは唇の端をわずかに歪めた。怒りと、わずかな高揚が混じる。
「自国の森に籠もっていれば良かったものを……」
冷ややかに吐き捨てながらも、心の奥に燃えるものを感じていた。──誇り高き戦姫を相手にできるなら、戦の意義も立つ。
貴族連合の盟主としてここで勝てば、栄誉も地位も思うがままだ。
しかも、相手がシュカリラであれば、カーツと正面から刃を交える必要もない。
勝てばヤマトは降伏し、その混乱に紛れてカーツを逃がすことも──。
ダーシャは静かに目を閉じ、息を整えた。
己の中にある情と理が、ようやく釣り合いを取り戻す。
「よし……決めた」
軍令を発しようと、幕舎の外へ歩み出したその瞬間──。
蹄音が地を叩き、砂塵を巻き上げて、ひとりの伝令が馬を乗り捨てるように駆け寄ってきた。
顔は血の気を失い、息は荒い。
「た、大変です! ご報告が──!」
ダーシャの眉がぴくりと動いた。
その声は、戦場の空気をさらに冷たく引き締めた。
*
「セナ様が! セナ・アシュレー様がお戻りになりました! 将軍に至急お話があるとのことで、こちらへ向かっております!」
伝令の声に、幕舎の空気が一瞬で張りつめた。
ダーシャは思わず振り返る。半信半疑で伝令が来た方角を見やれば、遠くの砂煙を裂いて、機体が一機、疾駆してくるのが見えた。
あの繊細でしなやかな動き──間違いない。セナのピクシーだ。
幕舎の帷が翻る音。
駆け込んできたセナは、息を切らしながらダーシャの前に膝をついた。
その顔は血の気を失い、唇は震えている。
だが、その瞳だけは、炎のような光を宿していた。
「セナ、あなた……いったい今までどこにいたの?」
「勝手をして申し訳ありません! 私は独断で、これまでヤマトに潜入しておりました!」
その言葉を聞いた瞬間、ダーシャの胸が鋭く締めつけられた。
あの日の記憶が、冷たい刃のように蘇る。
──お願い、兄さま。来栖弾九郎には……セナを遣りましょう。あの娘なら、どんな男の心でも掌に乗せられるはず。
言ってはいけない言葉だった。
それは、副官として、従姉妹として、友として、ずっとダーシャの隣で歩んできたセナを、最も深く傷つける一言だった。
容姿ではなく、内面を見てほしい。そう希求する彼女を踏みにじる言葉。
あのとき隣室にいたセナは、すべてを聞いていた。
ダーシャが気づいたときには、もう遅かった。
翌朝、彼女の姿は消えていた。
(あれ以来……ずっと探した。なのに、なぜ……今、戻ってきたの……?)
胸の奥に押し込めていた悔恨が、静かに疼く。
カーツを失い、セナをも失ったあの日から、ダーシャはずっと心のどこかを欠いたままだった。
だからこそ、今この再会が、夢のようで、そして同時に恐ろしかった。
セナはなおも膝をついたまま、ダーシャを見上げていた。
その瞳に宿る決意が、ただ事でないことを告げている。
「……話があるのね」
「はい。将軍と、二人きりでお話しをしたいのです」
幕舎の外では、風が砂を巻き上げていた。
それは、嵐の前の静けさを思わせる──再会の瞬間。
だがダーシャには、その風が、過去の亡霊の囁きのようにも感じられた。
*
「これで……誰にも聞かれずに話ができるわ」
ダーシャは幕舎から人を下がらせ、奥の自室へとセナを導いた。
風が幕を揺らし、遠くで兵の喧噪が微かに響いたが、この小部屋だけは異様なほど静まり返っていた。
「申し訳ありません、ダーシャ様。この罰は……必ず償います。ですから、どうか今は私の話を聞いてください」
セナは深く頭を垂れた。
その声は震えているが、芯は強い。
ダーシャは胸の奥が痛んだ。
「罰なんて……そんなことより、私の方こそあなたに謝りたかった。あの日、あんなことを……」
「いいえ」
セナはかぶりを振り、まっすぐにダーシャを見上げた。
その瞳は涙に濡れながらも、どこか誇らしげだった。
「むしろ、あの言葉で決意が固まりました。この顔がダーシャ様のお役に立てるのなら……それだけで私は、嬉しかったのです」
「だったら、セナ……どうして……」
「私は──来栖弾九郎を籠絡しようと、ヤマトに潜り込みました」
その一言が、ダーシャの胸を鋭く貫いた。
息が詰まる。
あの日、悩乱の最中に放った言葉が、まさか現実になろうとは。
自分の愚かさが、セナを危険へと追いやったのだ。
「……それで、どうなったの?」
沈黙ののち、ダーシャはかろうじて声を絞り出した。
セナは膝の上で両の拳を固く握り、顔を伏せたまま語った。
「来栖弾九郎には……会えました。ですが──」
少し間をおいて、唇がかすかに震える。
「まったく、相手にされませんでした。王になった途端、美女を侍らせては示しがつかないと……そう言われて」
ダーシャは言葉を失った。
その光景が、ありありと脳裏に浮かぶ。
権力の座についた者が、美貌の女を拒む──そんな男を、彼女はこれまで見たことがなかった。
バート王は欲望に忠実で、血と肉の悦びを当然の権利とした。
それが王の常と思っていた。
だが、来栖弾九郎は違う。
己を律し、節度を守る。
欲に流されぬ高潔さがある。
彼が何者なのか、その片鱗をセナの言葉の中に見た気がした。
(来栖弾九郎とは……ただの異界人ではない。王としての器がある)
ダーシャの胸の奥で、何かが静かに鳴った。
それは尊敬か、それとも……かすかな畏れか。
お読みくださり、ありがとうございました。
戦争の際には、戦闘用のオウガだけでなく、陣地を構築するための土木用オウガも随行します。
さらに、オウガに搭乗しない一般兵も数百名規模で同行します。
彼らは指揮官が使用する幕舎の設営や給食などの雑務、伝令の役目など、軍が円滑に動くために欠かせない任務をこなしています。
オウガを扱うことはできませんが、戦争においてなくてはならない重要な人員なのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




