21 家出
高校二年の一月下旬、親から預かった下宿代と、それまでに貯めたなけなしのお金を懐に、誰に話すこともなく僕は東京を目指した。
平常どおりに授業を終え、下宿に戻ると、ひっそりと部屋を片付け、机の引き出しを整頓し、壁と畳に雑巾をかけた。それから、友達から借りたバッグに、衣類と日記と倫理の教科書と志保からの手紙を詰め込み、とっぷり日が暮れるのを待った。
夜の帳がおりると、頃合を見計らって身支度をすませ、夜陰にまぎれて下宿を飛び出し、脱出口である港へと急いだ。
常道を逸脱し、脱獄囚のように裏道裏道を抜ける道中、民家からもれる明かりが、真冬の寒さに温かそうで恋しかった。
尾島は夏があざやかな分、反動のように冬がさびしい。空を覆う鈍色の雲は重く、吹きつける浜風は冬ざれの日本海をおもわせる荒らくれようである。
知人に遭遇する事なく港に到着すると、受験生のていで偽名でチケットを購入し、長蛇の列に加わり、フェリーからおろされた安定感のない階段を颯々と未来にのぼった。
首尾よく客室に入ったそばから周囲を見渡し、知った顔がないのを確認してやっと人心地がついた。
ひとまずの安心に乗降口近くの自動販売機のカップコーヒーを飲みたかったが、見覚えのある人に会う恐怖と百円も無駄にできない懐具合に、バッグを深く抱え込んで体育座りに壁にもたれた。
僕が入った広間の客室は思いのほか人が少なく、寒々とした空気だった。
やつれた顔の中年女性が、はす向かいで荷を降ろし、膝を崩して座り、無言に俯いた。
その時の心情を忠実に描写したいのだが、書こうにもはしょるほか方途がない。その時に何を考えていたのか思い出そうとしても、脳が拒否してあの時の僕に触れさせてくれないからだ。
客室の床板から離岸する揺れが体に伝わった瞬間、未曾有の乾いた興奮が胸いっぱいに広がった。
駆り立てられるように階段をかけ上がり、甲板にとびでると、船体が亀ののろさで旋回を始めていた。
住み慣れた街は蛍がたむろしたほどのちっぽけさだった。
特別な寂しさはなかった。いつもの寂しさがいつもどおり体を抱きしめていた。
冷たい海風が吹き渡るデッキから遠ざかる黒い島影を見つめていると、不安と期待と感傷がごちゃまぜになった中で、志保の面影が頭をかすめた。
(もう志保に会う事もないだろう。いや、もしかしたら何年後かに、東京のどこかで偶然会う事があるだろうか)
フェリーは漠々とした闇のうねりをつっぱり、見えない目的地へとしぶきを立てた。
鹿児島港には翌朝入港し、港からは疎い順路に通りゆく人に道を尋ねながら、徒歩で西鹿児島駅へとむかった。
大きなバッグをかかえての歩行に距離はだいぶあったが、この先の苦労を思えば小さな事だと歯を食いしばり、バッグを持つ手を幾度となく変えながら、ジャンパーの内側を暑くして歩いた。
花時計のある西鹿児島駅に着くと、不慣れに東京行きの切符を買い、夜行列車ブルートレインに乗りこんだ。
車両内の小さく仕切られた部屋には、向かい合わせに二段ベッドがあり、僕のベッドは向かって右側の上部だった。
僕の下のベッドにはすでに六十過ぎのばあさんが腰掛けていて、軽く会釈を交わした。
狭い昭和風情の車内では、特にすることもなく、通路にでて窓の外ばかりを眺めていた。
山間部のこぢんまりとした村や、海沿いの小さな町を通過するたび、こんな所にも何十何百の人生があるのかと、ぼんやり感心を積もらせていた。
やがて日が暮れ、真っ暗になり、なにも見えなくなると、昼から辛抱していた胃袋の訴えに、しずしず食堂車へと向かった。
二人がけの席が向かい合わせに並ぶ七時前の食堂車両は空席が多かった。
その中で目立たなそうな席に座り、大きなメニューを開くと、一ページに二品しか載っていない写真付きの定食が貧寒の僕を嘲笑った。
軒並み千円を超える品々に僕は唖然とした。街中の食堂と同列に考えていて、五百円から七百円を目算していたのだ。
品数の少ないメニューの中で、食べたいものは生姜焼き定食かハンバーグ定食だったが、高校生の僕に千五百円は高すぎた。
ひとしきり考えた後に、唯一千円もしないサンドイッチを頼むと、ウエイトレスが、お飲み物どういたしますか、と聞いてきた。飲み物はいいですと答えると、ウエイトレスは不審な顔をして厨房へと引きさがった。
ジュース一杯の値段で今後の一食分である。とても注文する気にはなれなかった。
窓に反射する室内灯を見ながらしばらく待つと、愛想笑いをしたウエイトレスが、おやつかと見まがうものを持ってきた。
大きなお皿に小さな二つのサンドイッチが四組、四方から中心に向かって整然と置かれていた。配置だけならフランス料理だ。
そのなかの一つを口に入れると、中学の家庭科の時間に女子が作ってくれた素朴なサンドイッチと同じ食味がした。
二つ目のサンドイッチを水と一緒に胃袋に流しこむと、これからの生活を暗示した味覚におもえて、ひどく惨めな気持ちになった。
味わうほどのものでもない食事を早々に済ませると、寝台に戻ってカーテンを閉めた。
狭い空間であぐらに座り、これからの事を考えようとするが、静かな興奮で頭がてんでまわらない。
バッグの中から倫理の教科書を取り出して偉人の言葉を拾うが、何も心に届かない。
教科書に散らばった数々の名言は、その時の僕には遠すぎた。
常日ごろ僕が相談したいと思っていた相手は、ソクラテスでもプラトンでもなく、年老いた自分自身だった。時宜を得た自分にいろんな事を聞きたかったし、いろんな事を話したかった。ずっと見えない先の道標が欲しかったのだ。
時間はまだ八時前だというのに、別段やることもなく、ふとんをかぶって横になった。
僕が一番幸せを感じるのは寝ている時だった。
何も考えなくていいのだから。
幸いな事に寝付きは異常に良かった。
僕は少しの間で眠りにおちた。
目が覚め、バッグから安物の腕時計を取り出すとまだ四時前だった。
今日の事を考えるに、体力を蓄えねばとまた横になるが、いっこうに眠れない。
もともと二度寝をする習慣がなかったから、こうなるともう諦めるしかなかった。
とりあえずトイレの横にある洗面所で顔を洗おうと、車両の端へと向かった。
寝台部屋と車窓に挟まれた細長い通路は、蛍光灯の明かりが窓に跳ね返り、独特の雰囲気をたたえていた。
自分以外には誰一人おらず、車輪の軋む音以外はなにも聞こえない。
水だけでの洗顔を終え、寝台に戻ると、あぐらに座ってこの先の事を考えた。
仕事はどうしようか……
未成年でも出来る仕事って何だろう……
その前に、どこの駅で降りようか……
田舎者の僕はアルバイト情報雑誌の存在すら知らなかった。
やがて外が白み始めた。
僕は通路に出て、引き出し式の椅子に腰かけ、流れゆく風景を眺めた。
通路にいるのは僕一人。
寝台部屋の入口はすべてカーテンが閉まっている。
ひんやりした空気の中、新しい一日が始まろうとしている。
ここはどこなんだろう。愛知だろうか、静岡だろうか。
田んぼの向こうに疎らに民家が見える。
まだ学校にはバレてないだろう。
下宿の連中でさえ気付くのは明日以降だろう。
相も変わらず、聞こえるのは車輪の音だけである。
この空間を独り占めしていることが嬉しかった。
やがて澄み渡った風景の向こうから、太陽がゆっくりと顔をだした。
その光景は、素晴らしく美しく、幻想的だった。
不安と期待が入り混じる中、僕はその光景をじっと眺めていた。
人が洪水に押し寄せる東京駅。
代々木公園の樹陰の残雪。
喫茶店入口のアルバイト募集の張り紙に、飛び込みで受けた面接。




