少しずつ近づく
たかしの声でひびきとリョウの会話は途切れた。中断されたケンカは気まずいまま二人の間に残り、次の日になってもひびきはリョウの方を見なかった。リョウもひびきの方を見ていないらしく、一言もしゃべらないまま一日が過ぎた。
学校からの帰り道、ひびきはとぼとぼと歩いた。麻里に相談しようかと思ったが、リョウが隣にいる。それに、どう説明すればいいのかわからなかった。
勝手なんだよ、そう叫んだリョウの激しい目が思い出された。お前のためになんか来た俺がバカだったよ。そう、確かに勝手だ。よく考えてみると、あのデパートの屋上から、一人で勝手にリョウを好きになった。ひびきはリョウのことなど何も知らなかった。デパートの屋上であの時空に舞い上がった風船のように、それはなんとも頼りない気持ちだった。
でも、とひびきは思った。確かに私はリョウのことなんて、何もわかっていないかもしれない。でもリョウも私のことなど何も知らないはずだ。昨日ひびきはリョウの迫力が怖くて、自分の気持ちを言えなかった。他人に気持ちを伝えるのは苦手だが、このままではいけない。そう思った。
ひびきはいつも曲がる通りをまっすぐつっきって、郵便局の前を過ぎ、横断歩道で止まった。
「どこ行くんだよ」
リョウが不機嫌な声で尋ねた。ひびきはそれに答えずに青信号を見て、渡った。横断歩道を渡り終えると、目の前には広い河原が広がっていた。
ふぅ、と息をついて立ち止まり、ひびきはしばらくその河原を見下ろしていたが、階段を見つけて下りて行った。
川幅は広く、遠くには長い橋がかかっていた。通勤帰りの車が右へ左へ流れて行く。川の前には草野球ができるほどの草地が広がっていて、ところどころにクローバーがかたまって生えている。遠くで子供の声がしていた。
階段の両側の土手には背の高い草が生い茂り、向こう岸には盛りを過ぎた菜の花がまばらな黄色を緑の間にのぞかせていた。
草地の前にあるスタンド席のようになっている階段に二人は腰を下ろした。
「広いなぁ」
リョウが何気なく言った。
「うん」
ひびきも遠くを見ながら答えた。
しばらく黙ったまま二人は川の向こうを眺めていたが、リョウがふと口を開いた。
「昨日、ごめん」
ひびきはリョウの顔を見た。
「俺、なんかイライラして。怒鳴ったりして。ほんとはあんなこと思ってないんだ。ごめん」
「うそ」
リョウは驚いた。ひびきは川岸を見ながら続けた。
「確かに私、勝手だった。リョウは私のために来てくれたのに。でも、邪魔になったなんてそんなこと思ってない」
ひびきはすがすがしい横顔をしていた。肩までのひびきの髪が風になびいてゆれるのを見て、リョウは思わず目をそらした。
「じゃあ、なんで消えろなんて‥」
リョウは下を向いて黙った。
「それは、だから‥リョウが辛そうで‥」
伝えたいことはあるのに、言葉がうまく出てこない。気持ちを伝えるのはやっぱり難しいことだ。それに、昨日あんなに怒ったリョウを困らせようという気も多少あった。けれど、慣れないことはやっぱりできなかった。そこまででまた会話は途切れてしまった。沈黙が落ち着かない。リョウは知らずに話題、話題と頭の中で繰り返していた。
「ここ、よく来るの?」
やっとリョウが声を出した。
「ううん、久しぶり」
ひびきは短く答えてまた黙った。なんだか息苦しい。リョウはひびきの顔を盗み見るように見た。ひびきは今何を考えているのだろう。そのことがなんだかとても気になった。
「小学校の時にね、犬飼ってたの」
ひびきが話し始めた。リョウは黙って聞いていた。
「よくここに散歩に連れてきてた」
「へぇ」
ひびきが何も言わないのでリョウがそのまま続けた。
「俺も犬飼ってたなぁ、小学校ン時」
うーんとリョウは伸びをした。ひびきはやっとリョウの顔を見た。
「でも仕事が忙しくて全然遊んでやれなくて、いつのまにか弟の方になついちゃって。俺、悔しくてその犬にいたずらばっかしてた」
ひびきはふふと笑った。
「うちはたかしがそう。いじめてばっかりで犬は恐がってた」
ははっとリョウも笑った。
土手沿いの建物の影がのび、二人を覆っていた。空はまだ青いのに、日差しは夕暮れのものになり始めた。
「帰ろっか」
ひびきが言って立ち上がった。リョウも立ち上がってひびきの顔をじっと見た。
「なに?」
「してもらう?」
リョウが真顔で言う。
「え?何を?」
「お祓い」
リョウの瞳の奥にいたずらっぽい光を見つけたひびきは笑って首を横に振った。ゆるやかな初夏の風が二人の髪をさわやかになでていった。