立入禁止の森
「うぅ……頭が痛い――」
ハナは片手で頭を押さえ、もう片方の手で額を支えていた。顔色は、まるで虫でも飲み込んだばかりのように青ざめている。今にもその場で吐きそうな様子だった。
ただ、隣を歩くヴァンには、彼女を慰めるつもりなど少しもなかった。
彼は顔を横に向け、ほとんど呆れたような目でハナを一瞥する。
「その言葉、今朝町を出てから何回言った? そんなにつらいなら、昨日の夜、あんなに酒を飲まなきゃよかったのに」
「アンタ、アタシの母親か何かなの?」
ハナは白い目を向けた。
ところが、その直後、その動きだけで二日酔いの頭痛を刺激してしまったらしい。
「つぅ……」
顔をしかめ、すぐに表情が崩れる。
「はいはい、分かったわよ。アタシ、絶対に直すって誓うから、それでいいでしょ?」
そう言いながら、ハナは右手まで上げ、誓うような仕草をした。
だが、それも二秒と続かなかった。
ズキズキと響く頭痛に耐えきれず、結局また額を押さえる。
ヴァンはそんな彼女を見て、口元をわずかに引きつらせた。
「……本当にそうならいいんだけどね」
二人の後ろを歩くカールは、ずっと一言も口を開かなかった。
肩には荷物を背負い、静かに前方を見つめている。
昨日の痛い目を見たことで、彼はすっかり学習していた。
それでも、ハナがまた頭痛に顔をしかめた時には、思わず横顔を向けて彼女を一瞥する。
その緑色の瞳には、かすかに「自業自得だ」という意味が滲んでいた。
ただ、その視線はあまりにも平静だったため、ハナはまったく気づかなかった。
そんなふうに三人で二、三時間ほど歩き続けると、山の麓にある静かな村へとたどり着いた。
三人が村に滞在した時間は長くなかった。
ヴァンは干し食料と普段使いの調味料をいくらか補充し、忘れ物がないことを確認すると、そのまま南へ向かう準備を始めた。
だが、買い物をしているうちに、ヴァンは次第に奇妙な違和感を覚え始めた。
村の雰囲気が、あまりにも穏やかだった。
人々はみな笑顔を浮かべ、互いに話す声も、普通の村よりどこか弾んでいる。
荷物を運んでいた何人かの若者たちでさえ、途中で立ち止まって冗談を言い合っていた。
まるで、つい最近、とても喜ばしい出来事でもあったかのようだった。
それが気になったヴァンは、会計を済ませたあと、ついでに雑貨屋の老人へ尋ねてみることにした。
「その……おじいさん。ここの人たちは、みんなずいぶん嬉しそうですね。最近、何かお祝い事でもあったんですか?」
老人はそれを聞くと、すぐに笑い声を上げた。
「はっはっは、坊や、よく気づいたな。確かに、ちょっとした良いことがあったんじゃよ」
老人は髭を撫でながら、村の外に広がる山林へと目を向けた。
「ほんの数日前のことじゃ。近くの森に、突然一匹の魔物が現れたんじゃよ」
「魔物?」
「熊……巨大な熊じゃ」
老人は両手を広げ、その大きさを示した。
「高さは三、四メートルもあった。うちの村の小屋と同じくらいの高さじゃ。全身から真っ黒な何かが立ち上っていて、姿も妙に恐ろしい。まるで狂ったように暴れ回っておった」
ヴァンの手が一瞬止まった。
「真っ黒な……何か?」
「そうじゃ」
老人は頷いた。
「その熊は突然、森の中を暴れ回り始めてな、目に入るものは何でも体当たりし、大木でさえ簡単にへし折った。しかも厄介なことに、次第に村のほうへ近づいてきたんじゃ」
そこまで話したところで、老人の笑顔がわずかに消えた。
「幸い、ちょうどその時、四人の旅人がこの村を通りかかったんじゃ」
老人の顔に、再び安堵の色が浮かぶ。
「あの四人は村の事情を聞くと、二つ返事で追いかけていってな。そのまま巨大な熊を山の中腹まで追い立て、最後には見事に討伐してくれたそうじゃ。しかも、自分たちの手で死体を山腹の近くに埋めたらしい」
「なるほど」
ヴァンはゆっくり頷き、最後の干し食料の袋を背負い袋へ押し込んだ。
「それは大変でしたね」
「そうとも」
老人は目尻の皺をくしゃくしゃにしながら、にこやかに頷いた。
「あの四人の勇士のおかげじゃ。もしあの魔物が本当に村まで入り込んでおったら、それこそ大変なことになっていたからのう」
そう言い終えた老人の、先ほどまで緩んでいた表情がふと変わった。
まるで、突然何かを思い出したようだった。
次の瞬間、老人の顔が再び険しくなる。
「そうじゃ、坊や」
老人は声を潜め、ヴァンへ手招きした。
「お前さんたち、これから南へ向かうんじゃろ?」
「はい、そうです」
「なら、村を出て少し行った先に分かれ道がある。覚えておけ。絶対に右の道を行くんじゃ」
ヴァンはわずかに目を見開いた。
「えっ? 左はダメなんですか?」
反射的に地図を取り出し、確認する。
「地図を見る限り、左の道なら二、三日で次の町に着けるみたいです。逆に右だとかなり遠回りで、少なくとも一週間はかかります」
「絶対にダメじゃ!」
老人は何度も首を横に振った。
「左の道だけは、絶対に行ってはいかん! あの道は『巨人の森』へ通じておるんじゃ!」
そのあまりの必死さに、ヴァンでさえ思わず呆気に取られた。
老人は村の外にある、周囲の木々より明らかに巨大な森を指差した。
「あそこが『巨人の森』じゃ」
ヴァンはその指先を追って、森へ目を向ける。
村と山の斜面を挟んだ向こう側に、遠く深い緑色の森が見えていた。
これほど離れているにもかかわらず、そこに生えている木々が普通の森よりはるかに高く太いことは、はっきりと分かる。樹冠はほとんど一続きになっていた。
「あそこにある木は、普通の木じゃない」
老人は声を潜めた。
「あの森の巨木は、もう何百年も生きておると言われておる。幹は恐ろしいほど高く、森の最奥には陽の光さえ届きにくいそうじゃ」
そこまで話すと、老人はさらに深刻な表情になった。
「それにな……あの怪熊も、あそこから出てきたんじゃ」
「……」
ヴァンは何も言わなかった。
「もっと奇妙なのは、ここからじゃ」
老人は声をさらに低くした。
「何十年も前は、あの森は今のような場所ではなかった。だが今では、無理やり中へ入ろうとすると、あそこの植物がまるで生きているかのように動き出し、侵入した者を自分から攻撃して、追い出すところまで止まらんらしい。あるいは、かなり奥まで進んだはずなのに、いつの間にか森の外へ戻っていた、という者もおる。まるで森そのものが、人間を中へ入れることを拒んでいるようなんじゃ」
「それは確かに、なんだか気味が悪いですね」
ヴァンは眉をひそめた。
老人は頷いた。
「さらに奇妙なのは、その先じゃ」
老人の声が、また一段低くなる。
「森の中で、子供の笑い声を聞いたという者がおる」
「子供?」
「そうじゃ」
老人は真剣に頷いた。
「だから皆、あの森には何か『森の主』が棲んでいると言っておる。木の妖怪だと言う者もいれば、死んだ子供の亡霊だと言う者もおる。じゃが、本当のところは誰にも分からん。今では、誰もあそこへ入ろうとはせんよ」
そう言って、老人はヴァンの腕を軽く叩いた。
「とにかく、坊や。お前さんたちが本当にただ旅を急いでいるだけなら、わしの言葉を聞いてくれ。たとえ一週間遠回りすることになっても、絶対に左へは行ってはいかん」
ヴァンはしばらく黙っていたが、やがて真剣な表情で頷いた。
「分かりました。忠告ありがとうございます」
「はっはっは、礼なんぞいらんよ」
別れを告げると、三人は村を離れ、再び南へ向かう道を歩き始めた。
一時間後。
三人はようやく、老人の言っていた分かれ道へたどり着いた。
ヴァンは足を止め、懐から地図を取り出すと、目の前に伸びる二本の道を慎重に見比べた。
左の道は明らかに狭く、両側には背の高い木々が生い茂り、森の奥へと続いている。
右側は平坦な山道だった。
大きく遠回りすることになるものの、少なくとも見たところでは安全そうだった。
「どうしたの?」
ハナが首を伸ばし、ヴァンの手元の地図を覗き込む。
しばらく休んだことで、二日酔いもようやくかなり楽になったらしい。話し方も、いつもの気だるげな調子に戻っていた。
「さっきの爺さんの話、まだ気にしてるの?」
「うん」
ヴァンは眉をひそめた。
「まあ……幽霊とか怪物の話は、僕はあまり信じてないけど、あのお爺さんもあそこまで言っていたし……」
「チッ」
ハナは気にした様子もなく、唇を尖らせた。
腕を組みながら左の道へ目を向ける。その顔には、あの噂などまったく気にしていない様子が浮かんでいた。
「どっちを行ったって同じでしょ? 結局、ただの噂なんだから」
カールも彼女の視線を追って、左の道を一瞥する。
「うん」
彼は軽く頷いた。
「俺も何も感じない」
「……そう?」
ヴァンは少し困ったように二人を見る。
カールはもともと普通の人間よりも感覚が鋭い。その彼でさえ異常を感じていないとなると、ヴァンも迷ってしまう。
「じゃあ、カールは?」
ハナが顎を上げる。
「アタシはどっちでもいい。アンタが決めなさいよ」
「俺も同じ」
こうして、一瞬で選択権は再びヴァンの手に戻ってきた。
ヴァンは地図へ目を落とし、それから目の前の二本の道を見た。
「うーん……」
彼は指先で地図の端を軽く撫でながら、眉をわずかに寄せた。
「みんなの安全を考えるなら、やっぱり右――」
――シュッ!
頭上の茂った樹冠から、一つの黒い影が突然、急降下してきた!
その速度はあまりにも速く、誰も反応する暇すらなかった。
「チンッ!」
澄んだ金属音が響く。
「痛っ!」
ハナが突然、左耳を押さえ、痛みに息を呑んだ。
「何だよ、これ!?」
彼女が勢いよく顔を上げる。
そこには、太った体を持ち、黒く艶めく羽毛に覆われた一羽のカラスが、激しく羽ばたきながら上空へと逃げていく姿があった。
そして、その鋭い嘴には、銀色のイヤリングが一つ、しっかりと咥えられている。
ハナの表情が、一瞬で変わった。
「……」
次の瞬間、彼女の瞳孔が大きく縮まり、飛び去ろうとするカラスをじっと睨みつける。
「このクソガラス!!」
毛を逆立てたような勢いで、ハナはその場から飛び出した。
「それ、アタシの一番のお気に入りなんだぞ! 待ちやがれ――!!!」
この瞬間、怒りが完全に理性を上回った。
ハナは両脚に一気に力を込め、瞬く間に駆け出す。
そのままカラスの飛び去った方向へ一直線に向かっていった。
「おい! ハナ! 待って!」
ヴァンは大慌てで手を伸ばし、止めようとする。
しかし、掴めたのは空気だけだった。
もう一度前を見ると、ハナはすでに十数メートルも先へ走り去っている。
そして彼女が向かっている方向は――
左側の、巨人の森へ続く道だった。
「……」
カールはハナが消えていった背中を見つめ、二秒ほど黙った。
「どうする?」
ヴァンはまだしまえていない地図を手にしたまま、次第に絶望的な表情になっていく。
そして、深く息を吸った。
「どうするって……」
彼は目を閉じ、まるで自分自身を無理やり納得させるように呟いた。
「彼女を放っておくわけにもいかないだろ」
再び目を開いた時には、すでに諦めたようなため息を漏らしていた。
「行こう」
ヴァンは歯を食いしばり、背負い袋を背負い直す。
「僕たちで、彼女を連れ戻そう」
カールは頷いた。
「うん」
二人はそれぞれ前後に並び、老人から厳重に警告されていた森へ向かって走り出した。




