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とりあえず、飯にしよう  作者:


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ただいま

 日が落ちて間もない、深い森の夜。

 パチパチと爆ぜる焚き火の音と舞い上がる赤い火の粉が、冷たい静寂の中にささやかな生活の輪郭を描き出していた。

 火の傍らに胡座をかく青年は、手の中にある二つの小さなガラス瓶を、炎の光に透かして眺めていた。とろりとした琥珀色の蜂蜜と、砂粒のような粗塩。どちらも底にわずかにへばりついている程度だ。

「……次の街で補給しないとな」

 ヴァンは短く呟き、手元のリュックへ視線を落とした。熟しすぎたリンゴ二つと硬い黒パンが二つ、これが残った全部の食べ物。

(こっちももっと買うべきだったな)

 彼は小さく息をつき、ガラス瓶を丁寧にリュックの奥へしまい直すと、焚き火の向かい側にある空の寝床を見つめた。

「……遅いな」

 食べられる木の実を少し探してきてくれ。そう頼んだだけなのに。

 ヴァンが小枝を拾い、火の中へ放り込んだその時だった。

 ——**バキッ。**

 背後の闇から、太い枯れ枝がへし折れる重い音が響いた。

 ヴァンの動きがピタリと止まる。彼は慌てて振り返るような無様な真似はせず、ゆっくりと立ち上がりながら、流れるような動作で腰のナイフに手をかけた。

 夜風の向きが変わった。焚き火の煙が流れる先から、鼻腔にまとわりつくような濃厚な鉄の臭い――生々しい血の匂いが漂ってくる。

 森の奥深く、巨大な影がじわじわと姿を現し始めた。

 木々の隙間からこぼれ落ちるほんのわずかな月光が、その影の巨大な下顎の牙だけをかすかに照らし出していた。

 バキッ、と枯れ枝を踏み折る音。

 ズズッ……と重いものを引きずる音。

 そして、荒々しい呼吸音。

 それらが、一歩、また一歩と近づいてくる。

 ヴァンは無意識のうちに、腰のナイフの柄を強く握りしめた。

 次の瞬間。

 上空の雲が風に散り、青白い月光が降り注いでその正体をはっきりと照らし出した。

 そこに立っていたのは、身の丈二メートルを超える、筋骨隆々で屈強な半獣人ハーフオークだった。

 片手には抜き身の短剣を握り、もう一方の太い腕では――通常の鶏の二回りほど大きな、怪鳥の死骸を引きずっている。身につけていたはずの麻服はただの血まみれの布切れと化し、全身が赤黒い返り血でべっとりと染まっていた。

 誰も動かず、しばしの間、焚き火の爆ぜる音だけが響く中で視線が交差する。

「……ただいま」

 地鳴りのような低い声が、張り詰めた森の静けさを破った。

 ナイフの柄から手を離したヴァンは、警戒でこわばっていた肩の力を抜き、深くため息をついた。

「……『ただいま』じゃないだろう、カール。木の実を探しに行ったはずなのに、どうしてそんな姿になっているんだ」

 カールと呼ばれたハーフオークは、気まずそうに視線を落とし、大きな肩をわずかにすくめた。

「……ごめん。ヴァン」

 ポツリと漏れた、その凶悪な巨体には似合わないほど真っ直ぐな謝罪。

 ヴァンはそれ以上追及せず、焚き火の横にドサリと置かれた怪鳥を見下ろした。

     * * *

「状況は理解した」

 ヴァンは淡々と言う。

「木の実を採る時、この鳥の巣を見つけた。中の幼鳥を狙ったら親鳥が帰ってきて揉み合いになり、一緒に樹から落ちた。……結果、そんな姿になったわけだな」

「ん。俺、平気。これほとんど鳥の血」

 カールは胸にこびりついた血を指でこすった。

 ヴァンはカールの巨体を上から下まで、鋭い目で舐めるように見渡した。致命傷になり得る首筋、腹部、太もも。それらに深い裂傷がないことを無言で確認し、ようやく安堵の瞬きを一つ落とす。そして、くるりと背を向けてリュックの底を探り始めた。

 引っ張り出した最後の予備の着替えを、手近な麻布で丁寧に包み、カールへと差し出す。

「血まみれじゃないか。早く川で洗い流してこい。鳥は置いていけ、僕が処理しておくから」

「……わかった」

 カールは服を受け取ると、素直に背を向け、水場へと向かっていった。

 残されたヴァンは、巨大な鳥の死骸の前にしゃがみ込んだ。

(それにしても、雛鳥のくせに随分とでかいな。嘴も鉤爪も、立派な凶器だ)

 彼はナイフを握り、手慣れた動作で獲物の関節に刃を滑り込ませた。

 太い木の枝にロープで吊るして血を抜き、手早く沸かした湯をかけて分厚い羽をむしり取っていく。最後に腹を裂き、肉を傷つけないよう慎重に内臓を取り出す。無駄のない手つきで下処理を終え、焚き火の光に照らされた真っ白な肉塊を見下ろしながら、ヴァンは顎に手を当てて小さく呟く。

「いつもの塩焼きじゃ、飽きるよな」

「ヴァン」

 不意に背後から声がして、ヴァンはわずかに肩を揺らした。

 振り返ると、水浴びを終えたカールが立っている。

「……随分と早いな。ちゃんと綺麗に落としたのか?」

「ん。洗った」

 新しい麻の服に身を包んだカールの、濡れた黒髪から水滴が滑り落ちる。ぽつり、と音を立てて足元の草の大きな葉に落ちたそれは、分厚い葉の表面で弾け、コロコロと綺麗な水玉となって葉脈の上を転がっていった。

 水を弾く、大きな葉。

 その光景をぼんやりと目で追っていたヴァンの脳裏に、ある植物の姿を思い出した。

 ヴァンは立ち上がり、少しだけ声のトーンを上げて言った。

「カール。さっき下流に行った時、岸辺でこれくらいの、大きな葉っぱを見なかったか? 水気を多く含んだやつだ」

 カールは少し考え込むように瞬きをした。

「ある。似たようなの、見た」

「よし。もう一度そこに行って、毒のなさそうな葉を何枚か取ってきてくれ。……ついでに、僕は少し食べられそうなキノコでも探してくる」

 ヴァンはナイフの柄を軽く叩き、口元に薄い笑みを浮かべた。

「今夜は、いつもより少しだけ特別な夕食にしてやる」

 カールは無言で頷く、身を翻し、再び夜の森へと駆けていった。

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