ディア・アトラス
*
「あ」
自転車に乗る直前、姉貴の話のことを思い出した。
「どうしたの? やっぱり躊躇しちゃった?」
非ちゃんが俺の顔を覗きこんでそう言うが、あながち間違ってはいない。
俺が世界を終わらせないでおく理由。それは美織のクッキーの謎が不明だったからだ。
しかし今、姉貴との会話でそこ悩みは綺麗に氷解した。ついでに門倉や亜門、おやっさんとも話せたので、今の俺には先ほどまであったモヤモヤがまったく存在していないのだ。
なんてこった。
ここまで来ておいてなんだが、世界を続けさせる理由無くなっちゃったよ。
「やばいな……どうしよ」
非ちゃんは俺の悩みの正体が察せないのか、ひたすら首を傾げていた。
世界を続けさせる理由なんてない。世界のために俺が苦労して自転車を漕ぐ理由なんてない。
でも……だったら
「俺はなんで電話なんかしたんだ?」
美織がいなくなった時点で世界は終わったも同然だったのに。
ついこの間まで、自暴自棄に犯罪を繰り返していたのに。
ついさっきまで、世界なんか知ったこっちゃないって思ってたはずなのに。
「それは多分、お兄ちゃんが世界を好きになったからじゃないかな」
俺が? 美織のいないこの地球を?
そんなわけないじゃないか。
「それはお兄ちゃんがみおりんを好きになったのとはまた別の感情だと思うよ。だから好きだって言うのに抵抗もあるし、みおりんほど好きになったわけでもないから好きだって言いたくないんでしょ? でも、それは確かに好きっていう感情なんだよ」
「それは……アカシックレコードに書いてあるの?」
「いーや。私、亡二下非の不確かな見解」
地球に見下ろされながら、非ちゃんはそう言ってクスリと笑った。
月の砂を踏みしめて、俺も少しだけ笑った。
そんな言い方されたら、どうしたって納得してしまう。
「世界を好きになるってことは、その所有者も俺は好きってことになるのか?」
「さあ。でも馬は合うんじゃない?」
『馬』と言うときに非ちゃんは自転車を指し示した。
「二人乗りの自転車ってのもあるんだって。今度持って来るよ」
「お前って自転車乗れるの?」
「え、うん、まあ……」
非ちゃんは舌を出して頭を掻いた。
それはどう見ても、十歳前後の女の子の表情にしか見えなかった。
「補助輪も持って来いよ」
「っな!?」
*
俺は自転車を漕ぐ。
ペダルを一回転させるとその分だけ月がちょっと回り、それに引っ張られて地球も回る。
これと似た話で、ギリシャ神話にはアトラスという巨人がいるそうだ。
アトラスは両腕と頭で天球を支え、苦悶の表情でその苦痛に耐えている。
じゃあそのアトラスはどこに立っているのか、という野暮な質問は置いて……。
ある日彼はかの英雄ヘラクレスから黄金の林檎の場所を訊かれた際、自分が取ってくるから少しの間役目を代わってほしいと言う。それを利用して、アトラスは支える役目から逃げたのだった。
だが今度は逆にヘラクレスの言葉に騙されて、結局は天を支える者に戻ってしまう。
この巨人は哀れで愚かなキャラクターとして描かれていて、この話も一見笑い話に聞こえるかもしれない。
苦しみに耐え、ただひたすら天を支える仕事なんて、誰からも褒められないし、退屈で達成感のないものだ。
そんなもの辞めて、自転車を盗んでいる方がずっと楽しい。
転職でもして、好きな人と一緒にいる方が数千倍は幸せだ。
だけど、その役目が自分にしかできないと言われたら?
『そんなもんゴメンだ。知ったこっちゃねえ』
そう言いたくなるのも無理はないよな。
そう言いたいはずなのに、それでも俺が自転車を漕いでいるのは、やっぱり世界が好きだからなのだろう。
天体望遠鏡を覗いた誰かが俺のことを発見するかもしれない。探査ロボットや宇宙飛行士ともコンタクトを取れるかもしれない。けれど俺とあっちの人じゃ時間の流れが違うから、きっとまともな会話はできないのだろう。
それでも、そんな妄想が実現する可能性は十分あって
可能性があるってことは、イコール未来があるってことで
地球が回るから明日が来る。
地球にいる人たちに明日が来てほしいから
そして、地球を回すたび俺にも明日はやってくるから、自転車を漕ぎ続ける。
なあ、アトラス。
あんたが支えてるものって、実はけっこう面白いもんなんだぜ。




