真撫カジカと彼ら
*
赤道まではだいぶ遠いらしい。月に来る時点で最初からそこに着地しておけよ、と思う。訊けば、そうしなかった理由は俺の一人推理語りを聞いて苛立ちが頂点に達した非ちゃんが、力任せに月に向かって俺を放り投げたからだというのだ。さすがにヤバイと思った非ちゃんは自転車片手に慌てて垂直跳びで追いついて、そのまま月に新たなクレーターを生成して着地したとか。
非ちゃんもすごいけど、月に着くまで気が付かないほど集中していた俺も俺だ。
そんなわけで、空に大きく浮かぶ地球に向かって二人で歩いている最中。
「『あの夕日に向かって競走だ!』の地球バージョンでもやる?」
と非ちゃんが提案したが却下した。
そんな形だけの青春ごっこの前に、俺にはやるべきことがあったのだ。
「知ってるか非ちゃん、ケータイって宇宙にいても繋がるんだぜ」
そう言ってポケットから得意げにスマホを出す。電話画面に入り番号をプッシュしたところで『圏外』の二文字が俺の夢を粉々に打ち砕いた。
「ほんっっとバカだねえお兄ちゃん……人工衛星がこんなとこまで飛んでると思う? 月で携帯電波が通じるようになるのはあと四十年も先なんだよ」
「ああそっか、お前一応アカシックレコードにアクセスできるんだったな」
この話で久しぶりに非ちゃんの超人っぷりを垣間見ることができた気がする。
「で、なに? お兄ちゃん電話したいの?」
自信満々で語ったトリビアが勘違いであったことに深くショックを受ける十八歳男子に、十歳前後の少女が呆れた口調でそう言った。
軽く頷くと、非ちゃんが手を差し出す。『スマホを貸せ』ということらしい。
小さく、肉付きのいいふっくらとした右手にスマホを置くと、非ちゃんはもう片方の手の人差指と中指を地球に向かって突き出した。
そのまま目を凝らし、見えない何かを操るように腕をクイックイッと動かす。
「そ、繰気弾?」
「違うっ! 電波だよ電波!」
なるほど、人工衛星の電波を無理やりこっちに引っ張るつもりらしい。段々と、非ちゃんには何ができて何ができないのかという知識が頭に刷り込まれていく。
少々手こずったようだが、無事に電波は月まで届いたらしい。次はスマホの設定もいじるみたいで、画面にはおびただしいほどの数列やコンピュータ言語が『マトリックス』の一場面のように蠢いていた。
しばらくして非ちゃんから手渡されたスマホはいつもと変わらない様子で、加えて電池も満タンになっていた。日付は十二月二十七日土曜日、時刻は午前十時。昨日の夜からだいぶ時間が経っているんだな。
お礼を言い、まずはこの人に連絡を入れる。
「よお! 受験勉強がんばってるかい、カジカァ?」
受話口から月全体に届くような陽気な声が響く。
「元気そうだな亜門」
そう言ったところで、亜門の向こうから聞き覚えのある声がした。
「門倉もいるのか?」
「ああ、昨日の夜二人でビジネスホテル行ってさ。こいつベッドで寝るの何十年ぶりだろ~とか言ってたぜ! 大袈裟だっての、はっはっはっは!」
男二人でホテル……ねえ。
亜門は亜門として、門倉の方はどう思ってんだろ。
「あ、そんで昨日どうなった!?」
俺は昨日の顛末を、真実から少しずらして説明した。隣町にある、幼馴染との初めてのデートコースに捨ててきた、と。
「へー、粋なことするねえ」
という亜門の感想。『粋』がどういう意味だったかは忘れたが、とりあえず俺も「だろ?」と乗っておいた。
「俺もさ、今度の獲物は自分のにするよ。見てろよカジカ、お前のよりかずっとド派手ですげえ変な場所に捨ててやるからよ!」
「楽しみにしてるよ。あ、門倉にも変わってくれないか?」
「りょうかーい」
受話口の向こうで二人が話すのが聞こえ、低音ボイスに変わる。
「おっはー、門倉」
「……おっはー」
低いの声なのはいつもと同じだが、しかし今日は一段と低かった。
「なんだよ、元気ないな」
「……二日酔い」
「お前酒弱かったっけ?」
「弱くはねえよ。ただ亜門のやつ、昨日ありったけ飲ませやがって……正直ホテル来てからの記憶もほとんどねえんだよ。起きたら起きたで服も脱いでて寒いしよぉ」
「……ふ、ふ~ん。大変だったな」
俺はこのときほど、心の底から『大変だったな』と思ったことはない。
「で、俺に何か用か?」
「え? いや用ってわけじゃないけどさ……ええと」
「んだよ。トロい奴だな」
「そのトロい奴に捕まったのはどこのどいつだ」
門倉の言葉が詰まり、俺はニヤリとほくそ笑む。ただ、言い返しには成功したものの、門倉にどんなことを言えばよいのか決めていなかった俺は、頭に浮かんだことをとりあえず喋るしかなかった。
「お前、これからも自転車泥棒続けんの?」
「……もちのろん」
「でもセキュリティも厳しくなるし、自転車の絶対数だって減る一方だろ?」
「方法はいくらでもあらァ。泥棒が付け入るスキってのはどんなに時代が進化してもあるんだぜ。まずはそれを研究する。俺がルパンでお前が次元、亜門が五右衛門さ」
そのレベルに達するのはさすがに無理だろと思うけど、こいつならなれるんじゃないかという期待がどこかにあった。
「それなんだけど、俺はちょっと休業するわ。自転車泥棒」
「ああ? 『世界が終わるまで付き合う』って言ったのはどこのどいつだよ」
「それは……だな。ええと、世界の終わりなんて案外ありふれたもんだと思わないか? 世界五分前仮説とか言うしさ、この一瞬一瞬で世界は終わってるっつうか何つうか……」
「お前、そんな理屈で説得できると思ってるのか?」
やはり俺のテキトーな口八丁で門倉を言い負かすのは無謀だったようだ。
「でもまあ……分かった、休業な」
しかし、門倉は思いの外あっさりと俺の言い分を聞いてくれた。
「ああスマン。じゃあな」「おう、またな」
そういえばメンバーがいなくなったときも言ってたっけな、『去る者は追わず来る者は拒まず』って。
そんなことを思い出しながら次の番号を打つ。コール音が鳴る間、非ちゃんが「今の誰だったの?」と尋ねてきた。俺は短く「友達」とだけ答えた。
次の電話の相手が出る。
「はい、こちら《くにたけサイクル》です」
初対面の相手にどうしても威圧感を与えるような野太い声は、どう考えても神秘的な宇宙には似つかわしくなかった。
だがその威圧感も、昔と比べるとかなり大人しい。
「どうも龍山さん」
「ああ、小僧か。あんときはすまなかったなぁ。終わってからも大して謝りもできねえで……」
「いや、いいですよ。龍山さんの気持ちも分かりますし、それに雪のおかげで大ケガにはならなかったし――」
「小僧」
「はい?」
「それ、やめろ」
それ、とだけ言われても俺には分からない。かと言って聞き返すことも恐ろしくてできない。そんな二つの気持ちに挟まれそうになったが、邦武父はすぐに『それ』について説明してくれた。
「俺のことはこれから『おやっさん』と呼べ。敬語もなしだ」
「はい分かりました……って、ええ!?」
あの泣く鬼も黙ると言われた邦武父がそんなことを言うだなんて。
俺は夢でも見ているのだろうか。頭上を仰ぐと青い地球が空に浮かんでいる。
「……なーんだ夢かあ」
「いや、紛らわしいけど現実だよお兄ちゃん」
非ちゃんの容赦ないツッコミで、俺は現実――邦武父に向き直る(あくまで電話だけど)。
「じゃ、じゃあ……おやっさん」
「おう。実は一度言われてみたかったんだよ、ソレ」
「そうなんで……そうなんだ、おやっさん」
「うんうん、いいなあその響き。拳で語り合った仲として、これからもよろしくな」
「ああ、それなんだけど――」
邦武父には当分顔は出せないかもしれない、と言っておいた。受験が終わったら旅をするんだ、という出まかせを何の疑いもなく信じてくれて、少々気が引けたのは事実だ。
邦武父、いや、おやっさんからも色々と話を聞いた。娘の死、自転車業界の衰退、二つの大きなショックが《くにたけサイクル》に訪れたが、それでも自転車屋は当分続けるということ。良子さんもパートに出るようになったこと。
正直言って、おやっさんの事情はとても順風とは言えなかった。だけど、クリスマスの一件で目を覚ましたのは確からしい。
あのクリスマスパーティには実は黒幕がいたことも分かった。まあ以前から薄々感づいてはいたことだが、あれは引きこもりがちだったおやっさんを良子おばさんが何とか立ち上がらせたいという願って実現したものらしい。
おやっさんは謝りには来れなかったが、後日良子おばさんが菓子折りを持ってきたことがあって、そのときの様子で「もしや」と思ったのだ。
「じゃ、おやっさんも元気でな」
「おうよ。次会う時つまんねえ男になってたら承知しねえからな、小僧」
「分かってるよ」
ピ、と通話終了の合図。
電話を切ってすぐ非ちゃんが相手について訊いてきたので、俺は「お義父さんだよ」と答えた。
次に親父に電話をかけたが出る気配はなかった。休日出勤かな、お疲れ様。
諦めて今度は家の電話にかける。コール音が六回半なり、受話器を取る音が聞こえた。
「あ、もしもしお母さん?」
「残念。アタシだ」
げ、と蛙を潰したような音が口から出る。
「お母さんに用かい? 残念ながら婦人会の友達と商店街に出かけてるよ。用があるならアタシに言いな」
「用ってわけじゃないんだけど……」
「え? 思春期で反抗期真っ盛りなはずの男子高校生が、実の母親に用もなしに電話する? アンタってマザコン?」
「朝になっても帰らない息子を心配する親に連絡して何が悪いんだよ! あと実の姉にマザコンって言われると地味に傷つくから!」
「『お姉ちゃん』」
「血を分けたお姉ちゃん閣下につきましては、某愚弟へのありがたき御言葉『まざあこんぷれつくす』をいただきましたこと、まことに深く感激の意を表明する次第でございます」
「ウザい」
「そこは『趣旨変わってんじゃん』ってツッコんでほしかったよ!」
電話越しなのに異常に疲れてしまう。普段ならここで有無を言わさず切るところなのだが、状況が状況だけに、我慢して話を続けよう。
「じゃあお父さんたちにも伝えておいてほしいんだけどさ――」
「伝言サービスが無料だと思ったら大間違いだぜ?」
耐えろ俺の忍耐!
「……じゃあ伝えるか伝えないかはお姉ちゃんの匙加減でいいからさ、とりあえず言うだけ言っておくよ。俺、しばらく家には帰んないし、学校にも行かないから。でも別に心配しないで……っていうのも無理な話かもしれないけどさ、まあ自分探しの旅に出かけたってことで一つよろしく。そんじゃ」
「なるほど。委細承知した」
姉貴にしてはえらく素直な返事だった。
「好きにしなよ。ただ、アタシは死ぬまでアンタのお姉ちゃんだし、世界がどうなろうとアンタはアタシの弟だ。それだけ覚えてりゃそれでいいさ」
「……そっか」
姉貴は何も知らないはずなのに、どこか世界を傍観しているような不思議な側面を持っている気がする。『フロム・フィオリータ』に属していたことも、もしかして知ってて黙ってたんじゃないだろうか。
俺が姉貴のことをそんな風に考えていると、姉貴は口調を悪戯なものに変えてこう言ってきた。
「で、アンタ結局美織ちゃんとセックスしたの?」
ブッフウゥーー!
思わず口から吹き出た。非ちゃんが変人でも見るかのような目線でこちらを睨んでくる。
「お……お姉ちゃん、もしかしてあの時……」
「あの時? ああ、アンタがしつこく訊いてた例の日曜日の件ね。あれはね――」
ゴクリと唾を飲む。
というか、今までずっと黙っていたのに、本当に言っちゃうのか? いや、姉貴のことだ。「やっぱ内緒ー」とか言ってからかうに違いない。俺は通話停止の文字の上に指をスタンバイさせた。
「クッキーだよ」
「!?」
あ、危ない危ない危ない危ない!
あまりの驚きに、本当に通話停止させるところだった!
「にしてもアンタ、まだ聞いてなかったの? てっきり文化祭のときにでもタネ明かしされたのかと思ってたのに」
「え……文化祭?」
記憶を思い起こす。和洋折衷を盛大に勘違いしたかのような喫茶『カフェ・ショコラーデ』。
回転寿司レーンの上で多種多様なチョコレート菓子がぐるぐる回っていて、見ているだけで酔いそうなあの店内。
そして記憶の一部分から、なんでもないような一コマが色を持って再生される。
「ほらカジカ、うちで一番人気のチョコクッキー。一枚サービスだよ」
「お、いいのか? サンキュー。…………」
「どうかな?」
「うん、けっこう上手いよコレ。美織が作ったのか?」
「え! い、いやー分かんないなー。た、大量生産大量消費がうちのモットーですから」
「飲食店とは思えないモットーだな……」
そう、あったのだ。ただの日常の片隅に、こんな会話が。
「じゃあ、もしかしてあのクッキー……」
「ああ、アタシが教えたレシピ」
なら、納得だ。
『真撫カジカには話せない秘密』とは、なんのことはない、ラブコメなら定番中の定番、手作りクッキーのことだったのだ。
「だってアンタ、文化祭終わったごろからその話しなくなったろ? てっきり美織ちゃんから聞いてたのかと思ってたぜ」
それは多分、美織と付き合えた嬉しさで忘れていたってことだと思う。
「でも姉貴が教えたレシピにしちゃ普通っていうか……いや、ホントにおいしかったけどさ」
「そりゃそうさ。アタシが普通の料理を教えるわけねえだろ?」
しかし、記憶の中にあるクッキーは至って普通のチョコクッキーだった。いったいどこに真撫コジカクオリティが隠れていたのだろうか?
「媚薬入りだもん、アレ」
ブッフオオオオオォォーー!
すごい吹き出した。倍は吹き出した。自分でもびっくりするぐらい吹き出した。
隣の非ちゃんが危ないオジサンでも見るかのような目で怯えている。
「び、び、媚薬って……」
「そうそう、アンタの好きなエロジャンルの一つ。でも意外だったな、あの時に使わせた薬は公衆の面前で行為に及んでもおかしくないレベルだったんだぜ? アンタよくレイプしなかったよ。えらいよ」
「そんな褒められ方嫌すぎるよ!」
実は文化祭のとき、水面下で己の激情が暴走していたことを俺はよく覚えている。
心の中で所狭しと暴れる『美織』『好きだ』『キスしたい』『裸を見たい』『セックスしたい』を抑えるのに必死だった。とてもじゃないが自分を客観視できるような状態ではなく、己の理性を全力でかき集めることに集中していたのだ。それでも上三つの欲望だけは完全に抑えることができず、ああいう結果になったのだが……。
「あれ全部姉貴の仕業かー!」
「『お姉ちゃん』」
「あの悪行の限りを頂点まで極めたがごとき所業はたとえお姉ちゃん大王でも許せませんぞおおおお!」
「結果オーライ」
「反省する気ゼロだな!」
ピ、と今度こそ本当に通話を停止した。
「い、今のは……?」
非ちゃんが恐る恐る訊いてくる。
肩で息をしながら俺は答えた。
「人類史上最凶最悪のお姉ちゃんだ」
電話していながら歩いているうちに、いつの間にか地球は真上に来ていた。
地球の赤道から見て、ちょうど真上になる位置。
この場所から世界の続きが――そして俺の終わりが――始まろうとしていた。




