第1話 いざ目的地へ
秋の陽ざしが柔らかく街路樹の葉を揺らす昼下がり、訪問入浴車は静かな住宅街をゆっくり走っていた。
車内では次の訪問先についての確認がささやかに交わされ、まるで小さなサークルの中にいるかのような穏やかな空気が流れていた。窓の外には、黄金色に輝く銀杏並木が続き、ほのかに甘い金木犀の香りがそっと車内に漂う。
「今日もいい天気だねぇ」
ドライバーの小林和真がのんびりとつぶやく。サイドミラー越しに空をちらりと見上げると、得意げに鼻歌が響き始めた。どこか妙にこぶしの効いた歌声に、助手席の源桜介護士が思わず吹き出た。
「ちょっと待って、和真。それ思いっきり演歌じゃない! なんでこの爽やかな秋の日にそんな渋い選曲なの!」
「いや、秋だからこそ、センチメンタルに浸りたいんだよ。ほら、寂しさが身に染みる季節じゃん?」
桜はお菓子の袋を小さく揺らしながらクスクス笑った。
「でもそれ、センチメンタルっていうより、昭和の居酒屋で常連が熱唱してる感じだよ!」
二人の賑やかな掛け合いを背に、後部座席では木下由美子看護師が静かに手帳を確認していた。現場で“静かな司令塔”と呼ばれる彼女の指先は無駄なくページをめくる。
『中野裕次郎さん、77歳。脳梗塞の後遺症による左片麻痺。要介護4……』
頭の中で利用者のカルテを反芻する。お風呂が何よりの楽しみだという中野さんのために、最高の湯加減と万全の安全管理を届けなければならない。まるで将棋の名人が盤上を読むように、一手先を見据えて静かに由美子は口を開いた。
「次の中野さん宅ですが、玄関が少し狭いので、浴槽の運び込みはいつも以上に慎重にいきましょう。それから、秋口は室内との寒暖差で血圧が変動しやすいので状態の観察には要注意です」
「さすが由美子さん! 細かいところまでチェックしてる!」
「桜さんは、入室したら部屋の温度の確認をお願いします。脱衣時のヒートショックを防ぎたいの」
「任せて下さい!」
――的確な指示と、それに即座に応えるチームワーク。由美子は満足そうに頷きつつ、ふと思い出したように付け加えた。
「ええ、お願いします。それと……前回、柴犬のポン太くんに飛びつかれて、浴槽の角に足を強打した方がいたので、足元にも注意してくださいね」
由美子が一瞬、和真をチラリと見やる。
「あれは事故だからな!? 不可抗力だ!」
一瞬の笑いの後、車内の空気がふっと引きしまる。
狭い玄関、古い家屋、愛犬の熱烈な歓迎。ほんのわずかな油断や予測の甘さが、利用者の安全や自分たちの怪我に直結する。プロとしての『慎重に』という一言が、三人の胸にじんわりと重みを加えた。
「ポン太、今日も元気かな? 秋になって涼しくなったから、余計にテンション上がってるかもね」
桜は、前回ポン太が玄関先で、嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねていた様子を思い出し、口元をほころばせる。
「そうそう、ポン太ってば、中野さんにベッタリでさ。それがまたいい感じに微笑ましいんだよね。ペットって、ほんとに癒し効果あるよなぁ」
「実際に、研究でもペットと触れ合うことでストレス軽減になるってデータもありますからね。中野さんのリハビリへの意欲にも繋がっているはずです」
「さすが由美子先生! 慎重派なだけじゃなくて引き出しも多い!」
「わかる! 由美子さんがいてくれるおかげで、私たち安心して仕事できるんだよね。……まあ、隣のドライバーさんは相変わらずマイペースだけど」
「おいおい! 俺だって仕事中はめちゃくちゃ慎重だぞ!」
目を細めて口元に笑みを浮かべる和真に、桜は微かに肩を揺らしてクスクスと笑った。
「例えば?」
「運転はちゃんとしてるつもりだからな」
「それは最低限の義務だよ!」
笑い声に包まれた車内の空気が、少しずつ落ち着きを取り戻す。
目的地である古い一軒家が視界に入ると、玄関の向こうから、ポン太の元気な鳴き声が早くも響き渡っていた。
「よし、中野さんちの道路は一方通行で離合が出来ないから、30メートル先にある駐車場から荷物を運ぶぞ。車には気をつけろよ」
和真が的確に指示を出す。
「いつものことだけど、みんな気をつけようね」と桜は言葉を返した。
「よし……」
和真が小さく息を整え、車を停める。
桜はお菓子の袋を片付け、由美子は手帳を閉じる。先ほどまでの和気あいあいとした空気から、一瞬で「プロの顔」へと切り替わった。
「さあ、最後の一軒だね!」
桜が大荷物を手に取り、にっこり笑う。和真は浴槽を台車に乗せ、由美子は防水シートと身体保護シートを慎重に準備した。
扉の向こうに待つのは、ただの仕事ではなく――誰かの暮らしと、その大切な命を支える現場だ。
「行きましょう」
由美子の静かな声に、二人は深くうなずく。
ポン太の熱烈な歓迎の声に迎えられながら、一歩、中野家の玄関へと踏み出した。
(つづく)




