番外編 記念日
――その一日を、忘れないために
カレンダーの赤い丸を、陽斗は何度も見返していた。
四月十二日。
付き合い始めて、ちょうど一年。
(……一年)
たった一言で片づけられる時間なのに、その中には数えきれない瞬間が詰まっている。
告白のときの雨。
初めて手を繋いだ夕暮れ。
何も話さずに隣にいた日。
どれも、胸の奥に静かに残っていた。
「……よし」
陽斗は小さく気合を入れ、机の引き出しを開けた。
中には、何度も書き直したメモと、小さな箱。
高価なものではない。
けれど、彼なりに悩み抜いた“形”だった。
◇
待ち合わせは、初めて二人で行った川沿いの道。
透花が先に来ていて、春風に髪を揺らしていた。
「お待たせしました」
「ううん、今来たところ」
視線が合うと、自然と笑みがこぼれる。
もう一年経ったのに、その瞬間だけは今も少し照れくさい。
「……一年、ですね」
透花が言った。
「はい」
二人の間に、柔らかな空気が流れる。
「なんだか、あっという間でした」
「でも……長かった気もします」
「わかります」
同時に頷いて、二人で笑った。
◇
その日は、特別な予定を詰め込んでいなかった。
ただ、街を歩いて、食べたいものを食べて、話したいことを話す。
それが二人らしかった。
昼は、小さなレストラン。
「これ、美味しいですね」
「本当ですね」
取り留めのない会話が続く。
それでも、沈黙は生まれなかった。
一年前なら、こんな時間が続くこと自体、奇跡のように感じていたはずなのに。
今は、それが当たり前になっている。
(当たり前になった、って……すごいことだ)
陽斗は、ふとそう思った。
◇
午後、川沿いを歩く。
桜はすでに散り、新緑が風に揺れていた。
「季節、変わりましたね」
透花が言う。
「去年は、まだ桜が残ってました」
「……そうでしたね」
陽斗は、あの日を思い出す。
雨上がりの空。
不安と期待が入り混じった、あの瞬間。
「私ね」
透花が足を止める。
「一年経っても、まだ不安になることがあります」
陽斗も立ち止まった。
「嫌われたらどうしよう、とか……迷惑じゃないかな、とか」
彼女は少し困ったように笑う。
「でも、それを言える相手がいるって、すごく救いだなって思うんです」
陽斗は、ゆっくり頷いた。
「僕も……同じです」
言葉を選びながら続ける。
「完璧じゃないまま、一緒にいられるのが……嬉しいです」
透花は、静かに微笑んだ。
◇
夕方。
空がオレンジ色に染まり始める。
いつものベンチに座る二人。
ここは、たくさんの話をして、たくさん黙った場所だった。
「……あの」
陽斗が、少し緊張した声を出す。
「はい?」
「今日、その……渡したいものがあって」
ポケットから、小さな箱を取り出す。
透花の目が、少しだけ見開かれた。
「高いものじゃないです」
慌てて続ける。
「でも……一緒に過ごした時間を、形にしたくて」
箱を開けると、中にはシンプルなペアキーホルダー。
小さな星が、二つ並んでいた。
「同じ空を見てきたから……星にしました」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、透花は両手で口元を押さえた。
「……そんなの……」
声が震える。
「嬉しすぎます」
目尻が少し潤んでいた。
「ありがとう、陽斗くん」
陽斗は胸をなで下ろすように息を吐いた。
「……よかったです」
透花は、自分の鞄につけた星を揺らした。
「これから、離れてても……同じ星を見てるって思えますね」
その言葉が、胸に深く沁みた。
◇
帰り道。
夜空には、いくつかの星が瞬いている。
「一年って、ただの通過点ですよね」
透花が言う。
「きっと、これからも続いていく途中」
陽斗は、繋いだ手を少しだけ握った。
「はい。何年経っても……今日を思い出せるように」
足を止め、空を見上げる。
同じ星。
同じ時間。
特別なことは、何も起きなかった。
けれど、この一日は、確かに“記念日”だった。
忘れないためじゃなく、
大切だと確かめるための一日。
そしてまた、明日へ続いていく。
同じ空の下で。
⸻
記念日編 完




