番外編 初喧嘩
――言えなかった言葉の、その先で
その違和感は、ほんの些細なところから始まった。
返信が、少し遅い。
言葉が、どこか短い。
理由を考えれば、いくらでも思い当たる。
忙しい日もあるし、疲れることだってある。
それでも、胸の奥に残る引っかかりは、消えなかった。
◇
「ごめん、今日ちょっと遅くなる」
放課後、陽斗から届いたメッセージ。
透花はスマホを見つめたまま、しばらく指を動かせずにいた。
今日は、約束していた日だった。
特別な用事じゃない。
ただ一緒に帰るだけ。
でも、その“ただ”が、最近少しずつ減っている気がしていた。
『そっか。わかった』
そう返してから、画面を伏せる。
(……わかった、って何が?)
自分でもわからない感情が、胸に溜まっていく。
◇
陽斗は、悪気があったわけではなかった。
進路のことで、担任に呼ばれていた。
将来の話。現実的な話。
透花に話せばいいのに、言葉にする勇気が出なかった。
(心配させたくない)
その思いが、逆に距離を作っていることに、まだ気づいていなかった。
◇
数日後。
二人は久しぶりに顔を合わせた。
「……久しぶりですね」
透花の声は、どこかよそよそしい。
「そう、ですね」
陽斗も、同じような距離を感じ取っていた。
中庭のベンチ。
以前なら、自然と並んで座れた場所。
今日は、少し間が空いた。
「最近、忙しそうですね」
透花が言う。
「……はい。ちょっと」
「“ちょっと”って、何ですか?」
その問いに、陽斗は言葉を詰まらせた。
「それは……」
「言えないこと、ですか?」
声が、少しだけ強くなる。
「そういう言い方じゃ……」
「じゃあ、どういう言い方ならいいんですか?」
沈黙が落ちた。
風が吹き、木の葉が擦れる音だけが響く。
◇
「私、置いていかれてる気がしてました」
透花が、ぽつりと言った。
「前は、何でも話してくれてたのに」
視線を落としたまま、続ける。
「私だけ、同じ場所にいるみたいで……」
陽斗の胸が、痛んだ。
「そんなつもりは……」
「つもりの話じゃないんです」
透花は顔を上げた。
目が、少し潤んでいる。
「不安になるって、言いましたよね。前に」
陽斗は、言葉を失った。
「でも……不安になってる私を、置き去りにされてる気がして」
その一言が、胸に深く刺さった。
◇
「……ごめんなさい」
ようやく絞り出した言葉。
「心配させたくなくて……」
「でも、何も言われないほうが、ずっと怖いんです」
透花の声は震えていた。
「好きだからこそ……不安になるんです」
その言葉に、陽斗ははっとした。
守っているつもりで、壁を作っていた。
「僕は……強くなりたかっただけでした」
陽斗は正直に言う。
「透花さんの隣に立つのに、相応しい人でいたくて」
透花は驚いたように目を見開いた。
「……そんなふうに思ってたなんて」
「でも……一人で抱え込んで、結果的に傷つけました」
沈黙。
それは、怒りではなく、考えるための時間だった。
◇
「……喧嘩、ですね」
透花が、小さく言った。
「たぶん、初めての」
「はい……」
二人は苦笑した。
「でも」
透花は、そっと続ける。
「言い合えたの、少しだけ嬉しいです」
「……僕もです」
綺麗な言葉だけじゃ、続かない。
ぶつかって、傷ついて、それでも向き合う。
それが、恋人なんだと初めて実感した。
「次は……」
透花が言う。
「不安になったら、ちゃんと言います」
「僕も……隠しません」
二人は、静かに頷き合った。
◇
帰り道。
完全に元通りではない。
けれど、確かに同じ方向を向いていた。
「……手」
陽斗が、少し照れながら言う。
「繋いでも、いいですか?」
透花は、少しだけ間を置いてから、微笑んだ。
「はい」
指先が重なる。
さっきまでの冷たさが、ゆっくり溶けていく。
恋は、優しいだけじゃない。
けれど、優しくなろうとする気持ちがあれば、また歩き出せる。
あの日と同じ空の下で。
今度は、少しだけ強くなった二人が、並んで進んでいく。
⸻
初喧嘩編 完




