1.
雲のない夜空に浮かぶは煌々たる満月。
しかし、人々は街灯に照らされた賑わいに夢中で空を見上げる者は滅多にいない。見上げたとしてもすぐに興味を無くして、地上の灯に夢中になる。
灯りに群がる虫の様に、夜の街を人々は闊歩し享楽と喧騒に身を任せる。眠らない街を誰かが不夜街と呼び始めそのまま街の別称として定着した。
その不夜街からほんの少し外れた住宅街は普段は閑静な佇まいなのだが、今日だけは違った。豪邸が並ぶ住宅街の中でも一際大きな金獅子の屋敷では、庭園には篝火が焚かれて街と変わらない明るさをみせている。人が集まった大広間では障子を開けて月を見ながら酒を酌み交わしていた。
宴会のような賑やかしはなく、彼らは今晩到着する花嫁を待っているのだ。
迎える花婿は、金獅子の長の弟で名を藍墨という。金毛金眼を持つ金獅子だが、稀に黒髪黒眼を持つ者が生まれる。
黒は強者の色であり、瑞祥とされ喜ばれる。
そんな黒獅子に生まれた藍墨の嫁に選ばれたのが、白髪紅眼の雪兎の一族に生まれた黒髪黒眼の黒兎。名を烏兎という。
滅多に生まれない色は貴色だと尊ばれる。故に黒豹や灰色熊の一族から打診はあったが、それを押しのけて縁組が決まったのである。
「めでたい」「弥栄」と酒が酌み交わされる中、開け広げた縁側から一人の男が「もうし」と声を張った。途端にぴたりと動きが止まり音が止む。
「お着きにございます」
野太い声が広間に行き渡る。
「来たか」
持っていた盃を膳に置き、獅子族の長である冨貴がのそりと立ち上がる。
広間にいた者は「おめでとうございます」と祝辞を述べて平伏していく。その間を王者のように歩く冨貴の後ろに藍墨が無言で続いた。
光と闇、昼と夜のような兄弟であった。
玄関の両引き込み扉はすでに開けられ、本屋敷に住む女衆も揃っていた。やってきた二人に道を開けるとその背後に控える。
外からざっざっと足音が聞こえ、大柄な男が二人が門を潜ってきた。
冨貴の前に片膝を付き、背負子を背負った男がゆっくりとそれを外し、固定していた柔らかな布を外した。
ふらりと背負子から降り立った花嫁は、藍墨と同じ夜に溶けそうな長い黒髪をたなびかせ、不思議な光沢の黒い瞳を一瞬だけ大きく見開いた。
獅子族から見ればかなり小柄で華奢に見える。緊張しているのか垂れた耳が小さく震えていた。髪色と対比するように白い肌がより一層彼女を儚げに見せていた。
ゆっくりと一歩を踏み出したその体がふらりと揺らぐ。彼女は真っ白な花嫁衣装に包まれる様にその場に崩れ落ちた。
女衆の悲鳴と喧騒の中、呆然とした花婿と気を失った花嫁の、これが初めての出会いであった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
–––––気味の悪い子
–––––なんて不吉な色
–––––どうしてあんな子が生まれたのかしら
聞こえてくるのは自分をさげずむ言葉ばかり。
好きでこんな風に生まれた訳じゃないのに。どうしてなんて、私が一番知りたいのに。
みんな怖い目で見てくる。
たった一人だけ。癒兎だけが手を伸ばしてくれた。
癒兎。
癒兎。
癒兎。
癒兎。
大切な片割れ。
大事な半身。
大好きな、私の、弟。
胎児の様に丸まって寝ていた烏兎は、ばさりと掛け布団を剥ぎ取られて目を覚ました。
「……ゅ、と…?」
いつもそうやって弟に起こされていたせいか、まだ自分があの離れにいるのかと錯覚してしまった。
なかなか開かない目を何度か瞬きすれば、小さな男の子の顔が視界いっぱいに映り込んできた。
「ねーね、おきた」
「ぇ、な、に……」
子どもは「おきたよおぉぉ!」と叫びながら襖を開け放って走って行ってしまった。
咄嗟に起きあがろうとした瞬間、激痛が体中を走り抜けた。浮きかけた腕はそのまま敷布団へと力なく落ちる。
体のあちこちが痛くて悲鳴をあげている。手足だけではない、背中や腰。痛くない場所が分からないほど、全身が痛かった。
「……ふぇ、ぅぅ。ぃたい……ゅとぉ、いたいよぉ」
あまりの痛さに涙が溢れた。
小さい頃から怪我をしたら、癒兎が痛い所に手を当ててくれた。それだけで不思議と痛みが薄くなって無くなるのだ。
癒兎の異能は予知だが、治癒の力もあった。本当に小さな治癒力だから誰にも言わない二人だけの秘密だった。
けれど、今ここに癒兎はいない。
もうあの里を出たのだから当たり前なのだが、長年の習慣でつい名前を呼んでしまう。
グズグスと泣いているとパタパタトタトタと足音が近づいてくる。
さっきの小さな男の子が開いたままの襖からひょっこりと顔を覗かせた。次いで、その子の頭をぐしゃぐしゃと撫で回しながら現れたのは程よく日に焼けた大柄な女性だった。
「あら、本当だ。花王、ご苦労だったね。さ、もう一つ仕事だ。朱氷に兎が起きたと伝えておいで」
「わかったぁ!」
子どもは元気の良い返事をしてタタタタっと走って行ってしまった。
何がどうなっているのか皆目検討もつかない烏兎は、ただその様を見ているだけだった。
女は子どもの背を少しだけ見送ると、枕元にどかりと座った。
つっと伸ばされた手にびくりと体が強張る。恐怖にギュッと目を瞑れば、存外優しい手つきで涙を拭われた。
「悲しい夢でも見たのかい。気にする事はない。所詮は夢だ。囚われちゃいけないよ」
労りに満ちた言葉が自分に向けてのものだとは思えなかった烏兎はぱちぱちと瞬きをして女を見上げた。
白い髪と赤い目の雪兎の一族の中で、髪も目も真っ黒な烏兎は両親を含めた一族皆から嫌悪されていた。たった一人、双子の弟以外。
「本当に真っ黒だね」
女の何気ない言葉が烏兎の胸に突き刺さる。
黒いのは汚くて、気持ち悪くて、不幸にする忌み色だから。
「ご、ごめ、な……ぃ……」
謝った声は小さすぎてほとんど聞き取れなかったらしく、優しい手つきで髪を手で梳きながら問いかけてきた。
「どこか痛いのかい?」
金茶の癖のある長い髪から覗く耳も髪と同じ金茶。上半分だけ結い上げた女は烏兎よりも年上に見えた。恐らく二十歳前後だろう。
問う声は優しく慈愛に満ちている。両親が癒兎に向ける口調に良く似ていた。
この人に話しかけても怒られないかもしれない。
烏兎は勇気を振り絞って口を開いた。
「えっと、その……か、か、から…からだ、全部、痛い、で…す」
つっかえながらも答えると、舌打ちと共にビシッと彼女の尻尾が畳を強く打った。
その気迫にびくりと体を震わせた烏兎に女は手を伸ばす。
やはり、喋っちゃダメだったんだ。
女の気を悪くさせたのだと、怖くて身をすくませた烏兎は目をギュッと閉じて衝撃に備えたのに、なぜか烏兎の頭を暖かな手が撫でた。
「ああ、すまないね。あんたに怒ったんじゃないよ。迎えに行ったあの阿呆共に怒ったのさ」
優しい顔で微笑まれ、烏兎は動揺した。
昔から里の大人は疎か両親にさえ優しくしてもらった事がないので対応が分からないのだ。
だが、優しいその手は癒兎のそれによく似ていて、警戒心を薄れさせた。
「聞いて呆れたよ。ずっと背負われてたんだって?まったく、気遣いができない脳筋共は本当に役にたちゃしない。だから、女衆から人を出すって言ったのに、急ぐからとあんの阿呆共がっ」
女の気分を表すようにビシビシと尻尾が畳を叩く。
多種族に会う事がなかった烏兎は、自分とは違う長い尾が器用に動く様から目が離せないでいた。
「ずっと同じ姿勢でいると体が固まるんだよ。それに、背負われてりゃ揺れも激しかっただろうに。そんな事に何一つ考えつかない阿呆共め。後でちゃんと言い聞かせておくからね」
「え、あ、ぁの、はい……」
癒兎以外とまともに話した事がないので、何と返していいのか分からない。
迎えに来てくれた人たちは、言動こそ荒いがちゃんとご飯をくれて話しかけてくれた。この人が怒るほど酷いか扱いは受けてないと思うのだが、それをどう説明していいのか分からない。
言いあぐねている間に会話は変わってしまい、結局伝えられず仕舞いとなった。
「後で粥を持ってきてあげるから、今日は寝ておおき。起き上がれるようになったら家の者の紹介をしようかね」
「は、はい。あの、その、あの、あ…あり、ありがとう、ござ、います…」
話し慣れないせいで段々と声が小さくなってしまったが、女は闊達に笑うと「もうしばらくお眠り」と頭を撫でて部屋を出て行った。
弟以外からこんな優しく接してもらった事はなくて、なんだか恥ずかしいようなふわふわした気持ちになる。
名前を聞き忘れたと気がついたがもう遅く、女の影も見えず匂いもない。ほんの少し残念だったが、疲れた体は泥の様に烏兎の意識を沈ませていった。
お読みくださりありがとうございます。
前作「雪解けを待って」が音声投稿サイト『HEAR』でボイスドラマとなっております。
詳しくは活動報告に載せてますので、ご視聴頂けると嬉しいです。




