東の森10
ロイは首を横に振る。「詳しいことは存じ上げておりません。分かっているのは彼が我々の命の恩人と言うことと、非常に優れた魔力の使い手ということだけです」
「家名は?」
「ヘンリー・オンと名乗っておられました。オン公爵家と言えば、代々摂政ともなられる方が多いですが、ヘンリーという子息の名はそれほど知名度はありません」
「人を知名度で測ってはいけないわ」
現に彼には類稀なる魔術の才能がある。それに、意識を失う前に見たあの光はおそらく彼が放った魔術だろう。つまり、彼はヴァイオレット級の魔術が使える。
アリスはじっと口を引き結んで考える。魔術に優れていることと、信用に足る人物かどうかも、また別の話だ。しかしアリスにはヘンリーが悪い人のようには見えなかった。それどころか、どうしてか興味が引かれていた。
「でも、お嬢様。彼はどうにも胡散臭いです。身なりも、とても公爵家の方とは思えません」
主観と先入観でものを見るのはロイの悪いところだ。今日のところは疲れた。魔術で体の傷は治せても疲労は消せないらしい。
深くベッドに沈み込んで目を閉じると、よく訓練された獣人の侍従とメイドたちは足音も立てずに部屋から出て行った。
□□□□□
アリスが大怪我を負った東の森での一件から5年が経った。
「ごきげんよう、ヘンリー師匠」
今日も今日とて我が道をゆく師匠に諦めずに何度か声をかければ、6度目で彼はアリスの存在に気付いたようだった。6回で気付いてくれるのならばまだいいほうだ。一日中考え事をしていて気付かないこともある。
モサモサの髪の毛は毎朝メイドたちの努力によって綺麗に整えられているが、彼は身なりにあまり気を遣わないのでローブの裾に泥が跳ねている。それを指摘すれば面倒くさそうな顔をして魔術で全身を綺麗に洗濯してしまう。どういう魔術式なのか目を凝らしても分からない。彼が使用する魔術式には全て保護がかかっていて、彼以外の人間にはぼやけて見えてしまうらしい。それを聞き出すのにも苦労した。彼は、アリスの魔術の師として屋敷に残ることを了承した後もコミュニケーション能力の欠如により、ほとんどしゃべらなかった。いや、コミュニケーション能力には問題ないのかもしれないとアリスは思っている。単に度を越した面倒くさがり屋なのだ、ヘンリー・オンという男は。