人ならざるもの
「会社の人間にも忘れられてたよ……」
疲れ切って帰って来た勉は、リビングの椅子に腰掛け、溜息を吐く。
「やっぱり……? 私も今朝、近所の人に挨拶したら余所余所しくされてさ……」
次の日。会社に行って上司や同僚からうちにはそんな社員は存在しないと言われた勉と、つき合いの長い近所の人達からまるで他所から引っ越して来た人扱いされた満里子は、沈んだ様子でリビングに居た。
「俺、どうしよう仕事……。元に戻ったら大丈夫だろうけど、それまでは稼がないと……今の小夜子は他人になっている訳だから生活が別々だし……」
「そうね……取り敢えず何か始めないとね。私もパートにでも行くわ。今は他人になってるけど小夜子は小夜子だし、恐らくその内なんとかしてくれるでしょ」
「そうだな。あのお人好しの小夜子だもんなぁ」
そう言って二人はコーヒーを飲みながらヘラヘラと笑った。どうやら脳味噌が腐っているせいでまだ自分達が置かれている状況が分かっていないらしい。
流石は最底辺の糞親といったところで、バカは一生バカなのか未だに“小夜子がなんとかしてくれる”という甘えた考えを捨てておらず、それどころか今は他人だと思っている二人を快く家に招き入れたあんなにも良い子を“お人好しの小夜子”などと蔑めている。本当にいい加減にしろ。
そしてそれを怒るように、二人が再度コーヒーのカップに口をつけた瞬間、カップが同時に砕け散った。
「ぶぼふっ!?」
気持ち悪い声を上げる二人。口をつけた瞬間に砕けたせいで割れた破片が唇や舌を傷付け、中のコーヒーがぶちまけられる形となった。
「いひゃっ、いひゃい!?」
「な、なんなのよ! この服もコーヒーも高いのに! 染みが! 勿体ない!」
その高い服やコーヒーは誰が命を掛けて仕事してくれた金で買っていたのか、今一度良く考えて貰いたい。あんたが怒るとこではない。
二人は切れた唇を拭う。血がじわりとティッシュに染み込んだ。幸い――ではなく残念ながら二人の傷は浅く、止血はティッシュ一枚で足りた。
「と、いうかだな。やっぱりなんか……まずくないか……?」
「そうね……。今もなんか……雰囲気が……っ!?」
恐々と喋る満里子が、途中で顔を青くして固まる。
どうやら生まれて来る性別を間違えたらしい勉は、それに恐怖を覚えて背中を丸め、
「おおおいっ、な、なんだよ! いきなりそういう顔するなよ怖いだろ!?」
と半べそで怒り出す。
「だ……」
満里子は青い顔のまま、ぽつりと呟く。
「だ……だ……」
「だ? だ……なんだよ?」
呟く満里子に勉が問い掛けると、彼女は勉の後ろを指差し、告げた。
「黙れ……って…………」
満里子が告げると同時に振り向いた勉は、窓に何やら先ほどまでなかった液体が付着しているのを確認した。あの謎のメッセージと同じ、どろりとした鮮血。
《黙れ》
確かにそう書いてあった。割れていない窓一面に、デカデカと。
「ひぃいいっ……」
勉が気持ち悪い女々しい声を上げて席を立ち、中腰で移動すると震えながら満里子にしがみつく。
しかし彼女は勉を気にせずに青くなりながらも素早く携帯を取り出し、撮影を試みる。やはりいざという時は女の方が強いらしい。
カシャッと軽快な音が響く。画面に窓の画像が表示され、あとは決定を押して保存するだけだ。
……が、おかしい。
「あ……れ?」
「こ、今度はなんだよ……?」
表示される画像を凝視する二人。そこに表示されている血文字が、異なっている。
顔を上げれば“黙れ”と書いてある窓が当たり前のように存在し、視線を戻せば携帯の画面の中の窓は当然のように全く違う文字を表示していた。
《やめろ》
画像の窓には、そう書いてある。
「う、嘘……」
「し、しゃ、写真っ……写真撮ったからっ……」
恐怖に支配された二人。満里子は画像を保存せずに画面を待受画面に戻す。再び顔を上げた時には、やはり血文字は跡形もなく消え失せていた。
異変はそれだけではなかった。
「お、おい……なんか……静かじゃないか……?」
震え声で勉が言うと、満里子も耳を澄ます。そして、気付いた。
雀の鳴き声。近所の方同士が交わす挨拶やお喋り。車の走行音や足音。いつもなら普通に聞こえて来るそれらの生活音が、まるで聞こえないのだ。
真っ昼間の住宅街だというのに、シンとした静寂と不気味な空気だけが漂う。
「ああもうっ、なんなのよっ!!」
「あっ、おい!? 一人にしないでくれよぉぉ!」
テーブルを両手でバンッと叩くと同時に立ち上がり、玄関へ向かった満里子を慌てて追う勉。
外に出てみると一層、不気味さは増した。
「誰も……居ない……」
耳を澄ましても、やはり住居はあれどどの家からも生活音は聞こえず、交通の音も全く聞こえない。深夜というのならばいざ知らず、平素のこの時間帯には絶対に有り得ないことだろう。何らかの異常があってこの街の人間は皆、避難しており無人の状態ですとでも言われれば納得が行くくらいの寂寞。自分達の聴覚を破壊されてしまったのではと錯覚してしまうほどに、無音の世界。
「お、おぉい! 誰か……! 居ませんかっ……!?」
勉が大きな声を出すも、それが響き渡ることすらない。そればかりか、まるでこの異様な空間に吸収されているようにさえ感じる。音の存在してはいけない空間に、生き物が存在してはいけない空間に、例外として存在してしまった自分達の“音”が。
「携帯っ……!」
満里子が素早く、現代で一番便利な連絡手段を取り出すも、それが更なる恐怖の対象となった。
――圏外。
「冗談だろ……? や、山奥じゃあるまいし……こんな住宅地で……」
満里子に引っ付いて小さくなりながら半べそで呟く勉。
まるで自分達だけ現実とは異なるもう一つの世界とやらにでも飛ばされてしまったかのようだ。ようするに自分達が居るここは、実は普通に人が居るいつもの空間と同じで、ただ自分達はその空間と同時に存在している異空間に居るからここには誰も居ない云々。そんな中二病的なファンタジーなことを想像してしまう。
どうすればいいのか見当もつかず、これが日常的なことなら取り敢えず何か行動してみようとも思えるが、異常事態であるため迂闊に行動もできない。
「……あ」
そんな時、何かが二人の直ぐ傍を横切る。大きさからして人間だったように思える。
「小夜子っ……!?」
見慣れたその人影は、他でもない、二人の一人娘、小夜子だった。
「お、おーい待ってくれ!!」
「小夜子、貴女どうして……」
二人が呼び掛けるも、小夜子は聞こえていないかのように足早に行ってしまう。
「ど、どうする……?」
「……このままここに居るのも流石に……」
「そう……だよなぁ?」
確実に本物と思しき“小夜子”は学校に向かったため、ここら辺に居る訳がないく、先ほど横切った小夜子に見える女の子を追い掛けるという行為も危険と言えば危険だ。
先ほどの小夜子は二人の呼び掛けも聞こえていない様子であったし、偽物か、本物だとしても残像か何かであるとか、或いは二人を認識できない状態になっているとか、何かしら異状であることは確かだ。
それでも、何も起こらないかも知れないが何か起こるかも知れないこの不気味な場所に留まることはさけたい。もしかしたら一生、出られなくなるかも知れない。そうは言っても、と二人は異常事態に迂闊に行動できないでいたのだ。だが小夜子に見える女の子が横切るという“変化”が訪れた。ならば一か八か、この変化に乗っかってみるのもありではないかと考えたのだ。
もし今の小夜子が正気を失ったとか何らかの異状であるとしても“小夜子”であるならば、その正気を取り戻すとか、何かでどうにかすれば自分達を助けてくれるかも知れない。何処までも甘ったれの、脳味噌が水飴とチョコレートでどろどろに浸食された思考だった。
「行ってみましょう!」
二人は、速足に歩き去った小夜子のあとを、それは必死に追い掛けるのであった。
小夜子らしき少女を追い辿り着いたのは、あまりに禍々しい空気の漂う場所だった。
……そう。小夜子が解決してくれた例の事件、その発端となった咲願峠だ。しかも眼前にはボロボロになった願溜寺が高い木々の茂みに隠れるようにして、ひっそりと佇んでいる。
「っ……」
二人共、そのあまりの存在感に押し黙る。呼吸をすることや唾を飲むことさえ、ここに潜む何かに聞こえていそうで怖かった。
桟の折れた障子、腐って今にも抜けそうな床板、染みだらけの畳……。障子やらが倒れて天井も崩れ、吹き抜けになった室内に舞い込んだ枯れ葉、砂埃。
その何れも変わりない。小夜子は頻りに何か感じていたようだが、二人はまるで恐れていなかったあの日のままだ。
にも関わらず、感じる恐怖。あの日は分からなかった、だが小夜子は感じていたであろうおどろおどろしさ。
あの日の小夜子は感じていた。両親の勝手な意向による成仏屋の仕事で、彼女はこれまで幾度も心霊スポットと言われる場所や、自殺・事故・殺害現場などに訪れたが、ここはその何れとも違う。これほど嫌な気持ちになるところは未だ嘗てないであろう死の匂いが濃厚な場所。
「ひ……引き返そうかな……」
「引き返してどうするのよ……」
引き攣った顔と声で囁くように話す。なんとも情けない話だが、この場所の凄まじい恐ろしさ以上にこの男の情けなさが目につくところで、しかし確かに今のこの場所は怖いもの知らずであっても払拭できないほどの迫力に包まれていた。
地獄の門というやつが実在するならこんな感じなのだろう。まるで、ここはあの世に繋がっていてこれより先に足を踏み入れると二度と還って来れなくなるのではないか、と思わせる異質な空間。
湿った木の匂いを運ぶ生温い風が、躊躇する二人の肌を嬲る。得体の知れない生き物に長い舌で舐め回されているかのような不快感に背中が粟立つ。
以前は気付かなかったが生い茂る草葉に隠れて、真っ赤なペンキでべったりと“危険 立入禁止”と書かれたささくれた板がキィキィと不気味な音を立ててゆっくりと揺れていた。その文字は今の二人には、廃墟に入るのは危険という注意というよりは、この廃寺に封印してある何かが危険だから入ってはいけないという忠告のように思えてならない。
最早目に映るもの、耳に入る音、全てがホラーだった。そういう捉え方しかできない。
雰囲気に気圧されながらも、満里子が勇んで一歩、踏み込んだ――その時だった。
『ぅあぁぁああっ……!!!』
不意に、世界を擘く絶叫が二人の鼓膜に突き刺さる。
数センチ肩を上げ、周囲を見回すと、男が一人、茂みでのたうち回っていた。
年齢は、どう見ても十代。高校生くらいだろうか。しかも、男子学生は同い年くらいの女の子に馬乗りになられていた。
女の子の手には――大振りのナイフ。
「なっ、なっ、なっ……!?」
「ちょ、ちょっとっ……何やってるの、あんた!?」
その刃先の冷たい煌めきを見て、ただただ狼狽するだけの勉と、口調こそ非難的なものの全く動こうとしない満里子。
『ぃっ、ぁあぁっ……!! ごめっ、ごめんなざっ……!! やめっ、でぇえぁあああっ!!!』
『思い知れっ。思い知れっ。あの子の痛み……苦しみ……胸が引き裂けそうなあの悲しみっ……!!』
絶叫を上げ懇願する男子学生に構わず、女の子は恨み言を口にしながら何度も何度も執拗にナイフを突き立てては、捻ったり、皮膚を剥いだり残虐な行為を繰り返す。
これほど残虐な行為をしているのに、普通は拘束状態にでもしないと成人男性でも一人では無理そうなものだが、何故か力負けすることもなく女の子は男の鮮血で濡れて行く。
「ヴっぷっ……」
頬を膨らませる勉は口を手で押さえたが、直ぐに膝をついて派手な嘔吐をする。
「ォエエェッ!!」
「ちょっとっ! やめなさいっ……!!」
女の満里子が気丈にも非難の声を上げ続けているということから、男のプライドを保って必死で耐える選択肢は選べなかったらしい。
一歩も近寄らず遠巻きに非難の声を上げるだけだった満里子が見兼ねて体当たりを試みたところで、二人は唐突にその場から消えた。
「ちょっ……!?」
転びそうになるも、つんのめりながらなんとか留まった満里子は、少し婆臭く両手をさする仕草を見せながら訝しげに周囲を見回す。
本当に、幻のようにふっと消えてしまったのだ。漫画やアニメでよくある演出と似たような感覚。
「ぅぅうっ……」
内股なのが妙に気色悪さを助長してしまっている勉は、口を拭いながら唸ると、
「ま、満里子……」
と震える手で廃寺の方を指差した。
満里子がそちらを見遣ると、いつの間に出現していたのか、先ほど見掛けた“本物か怪しい小夜子”が迷いのない足取りで寺の中に入って行くのが見えた。
「あの中ね! 行くわよ、あなた!」
勇んで旦那の腕を引いた満里子は、抵抗する力により引き寄せられ、憮然としてその情けない顔を見る。
「あ、あんなことが起きたのにっ……この中に入るのかよぉっ……!?」
憮然とした満里子とは対照的に、抵抗があることを主張する勉。満里子の腕を掴んで引き寄せる手は、男特有の大きな手であったが、小刻みな震えはずっと止まらないままだ。
「当たり前でしょ!! ほら、吐いたばかりで辛いかも知れないけど男なんだから、もっと頑張って!」
「帰った方が良いよぉ……。また変な殺人鬼みたいなのが居たらどうするんだよぉ……? っていうか絶対、何か起こる……! 帰ろう、満里子っ……」
「帰るって何処へよ!? ここ、何処からも全く人の気配感じないし! 別世界みたいな感じなんじゃないの? だったら変なことが起きてる原因を突き止めなきゃ帰れもしないでしょ!! ほら、あの変な小夜子を捕まえてどうにかして貰うのよ!」
嫌がる勉の手をグイグイ引っ張る満里子。リビングに居た時は甘やかしに見えた彼女だが、意外に強引だったようだ。
名付けて“変な小夜子”を追って、勉を無理矢理に引き連れた満里子が廃寺の内部、大仏が見えるところまで進んだ時だった。
『いやっ……嫌っ……やめ、やめっ……』
何かが大きく薙ぎ、風を切る音がしたと見るや、怯え切った女性の震え声を鼓膜が捉える。
見ると一人の男が、刃渡り百センチ以上はありそうな、しかも斧のような重厚な鉈を片手に、一人の女性に迫っていた。
その口許に浮かぶのは、自然すぎる笑み。
「なっ……!?」
巨大な凶器を振り上げる男性を前に、流石の満里子も固まる。その迫力は、先ほどのナイフの非ではない。
ゴスッと鈍い音と共に凶器が床を貫き、危ういところでそれを避けた女性だったが、どうやら掠ってしまったらしい。肩から血を流していた。
負傷した肩を押さえ、床を這うようにして立ち上がった女性は、様々な場所へ派手に体をぶつけながら必死で逃げていた。
だが……。次の瞬間、女性は派手に転んでしまったのだ。
『痛っ……』
足をやられてしまったのか、今度は肩より足を気にして、直ぐには立ち上がれないようだった。
そうしている間に、男性は直ぐ傍まで迫っていた。
はっとした様子で顔を上げた女性に、男性は笑顔のまま鉈を振り上げる。
『……やめてっ……』
腰が抜けてしまっているのか、両脚はだらしなく垂れ下がり、床につく両手で後ずさる。
『やだっ……やだっ……やめてよぉっ……!!』
片手を庇うように前に出しながら、涙目で救いを希求する女性。
――死にたくない。
――救われたい。
――助かりたい。
――生きたい。
そんな哀願が色濃く浮き出た、追い詰められた人間特有の醜悪さを纏った双眸。
それでも男の勉は二人から成るべく離れたいようで、隅の方で縮こまって震えていた。
だが満里子は違った。幾ら小夜子に対しては最底辺の糞親でも、目の前でこんな光景を見て、満里子が女であったことで本能とも言える部分が作用したのだ。
女であるが故に、体力を消耗しそうなあんな巨大な武器を軽々振り回してはか弱い女性相手に迫るその男性に、強い嫌悪感を抱いた結果。
走り出したその姿を見て、流石の勉も多少なりとも追わずにはいられなかった。
「満里子っ!?」
驚愕し、一歩踏み出すと同時に手を伸ばす。
勉の手は空を切り、武器を振り翳す男性と怯えることしか出来ない女性との間に到達し、両手を広げて立ち塞がる満里子は、力の限り叫んだ。
「ふざけんじゃないわよ外道っ!! あんたみたいなのは股間が短小で腐ってるのよぉー!!!!」
意味不明だが男としてかなりショックを受ける言葉を。
そういう自分はどうなんだと言えるような台詞で、これは満里子が自分達のことしか考えられない阿呆な女だったからこそできた行動。
だが男性は聞こえていないようで、重く厚いその武器を力一杯に振り下ろした。
『がふっ……!!』
――鉈の斬撃は――
満里子の体をすり抜け、その後ろに居た女性の細い体を致命的に切り裂いた。
『がっ……ぁっ……』
一瞬にして口や傷口からとんでもない量の鮮血が溢れ出し、床を侵食して行く。
『あぁ……リョー……ス、ケ……』
女性は最期、想い人と思しき名を溢し、痛いほどの切なさを宿した眸でこと切れた。
茫然とする勉と放心状態の満里子を置き去りに、二人はその場から消えていった。
「満里子……」
ショック状態の妻を前に、勉はそっと近寄り手を――。
一瞬の内に押し寄せた悪寒に脳は分からずとも体が反応し、振り向いた先にその男は居た。
見覚えのある制服姿。その男子学生は、先ほど同年代くらいの女の子に馬乗りになられてナイフで散々嬲られていた、あの男だった。
ただ、特徴から同一人物だと分かるものの、男子学生は目元がよく見えない。最初のナイフを持った女の子も、先ほど消えた男女二人も、それ以外のものははっきりと見えるのに、顔だけは皆一様に靄が掛かったように見えなかった。唯一見えるのは口許くらいだ。
ただ、おかしい。さっきは過去の残像といえどもう少しはっきりしていたものだが、今の男子学生は透けているし何やら禍々しい。
「うわっ!? さ、さっきの……!」
叫ぶ勉の声はやはり全く聞こえていないらしく、男子学生は錆び付いた手斧をゆっくりと振り上げ、いつの間にか床に寝転がってぐったりしているスーツ姿の男性の腹部目掛けて降り下ろす。
やはりスーツの男性と比べても男子学生は透けており、どうやらスーツの男性は既に悪霊と化した男子学生に殺されたらしいと把握する。
ドジュンッというような、嫌な音。肉を切り裂いた音にしては柔らか過ぎる。例えるなら、熟れた果実に包丁を入れたような違和感を覚える。
床に寝転がったスーツの男性の体は、何故か腐っていた。それでも生きているようだったが、男子学生が手斧を降り下ろしても血を吐き出す以上の反応を見せない。
『ごふぅっ……!』
抵抗もなく、ただただその体から死んだ悪血を垂れ流すだけだ。
その悪血と混じって、黄色い腐汁や内臓の欠片のようなものも零れ、男子学生が斧を抜き取った傷口からは赤黒くくすんだ腐肉が覗いている。
沈黙を守る男子学生は、再度、手斧を振り上げ――。
「なんなんだっ!! なんなんだよっ!?」
勉の叫びと男子学生が降り下ろした二度目の痛撃がスーツの男性の体を引き裂くのと同時に、何故か目の前が真っ白になり、声が聞こえた。
……私は誰かにこのことを伝えたい。あの儀式の危険さを。あの祠に睡る神の恐ろしさを。
せめて死んだ後、私の意思が通じる誰かに、私のことを、私が調べたことを、知らせたい。
そして願わくば……二度と私のような犠牲が出ないよう、この悲しい連鎖を止めてくれる人間がいつか現れてくれることを、望みながら――。
キィーンと耳鳴りがした。これは、正についさっき男子学生に手斧で殺された被害者のものだと直感的に分かった。
続いて、今度は酷く聞き覚えのある声。
……負けない。逃げない。四願咒による死の連鎖は……惨殺事件の繰り返しは……私が、止める――。
その悲しくも芯の通った悲壮な声音は……。
「っ……!?」
急激に鮮明になる意識に、ガクンという衝撃を受けたように感じた。
一面真っ白く光った視界に明順応を起こした眸が暗い廃寺の中に戻され、再び暗順応を起こし、目眩にも似た感覚を与える。
先の二人は今までと同じように跡形もなく消えていて、内部にはもう何も残されてはいない。
その時、勉が感じ取ったのは――無念。そして自分以外の誰かを思う、痛烈な“願望”だった。
自分達以外のことなど全く考えたこともなかった勉には、勉の幼すぎた腐った心には、その悲痛な叫びはあまりにも重すぎた。
満里子と勉。身勝手で我が儘な、幼子がそのまま大人になったかのような愚劣な男女。その二人が先ほどから目の当たりにしているのは、二人が解決を娘である小夜子に任せ、他人ごとだと思い笑っていた過去の被害者達が見せる生前の残像だった。
死して尚、残り、溜まる、残留思念。助かりたい生きたいと願い望み死んでいった者達の願望。
それが蓄積していった結果が、先ほど二人が訪れた時に感じ、小夜子が満里子達と初めて赴いた時にも感じ取った、“悪意の溜まり場”。死の匂いが濃厚に、死の色が濃密な。最も醜悪なものを集合させ、人の本能が剥き出しになり合体した、悪意の溜まり場なのだ。
それほどまでに恐怖で歪んで、
これほどまでに狂気が犇めき、
出来上がってしまった。
生者を死に至らしめるほどの怨念。ここで生を希求し消えていった儚い命。その何百という人間の無念。
二人はどれだけヘラヘラしていたのだろうか。娘の小夜子が、ここに残るほんの幾人かの死者達の深い絶望に触れ、哀悼していたその時も、そんな世界とは無縁な恵まれた環境で二人してヘラヘラ笑っていたのだから。
それを二人が悟った時、もう何度目かの新たな影が出現した。
この場所の悪意に触れ、死の領域に踏み込んだがために呪われた結末を迎えた、最も最近の被害者の残留思念が。
「あ…………」
驚愕。愕然。
その場に現れたのは、二人もよく知る人物だった。
二人も極最近、出していたではないか。その人物達の、名前を。
『……生駒は、私のものだ』
『え?』
聞こえて来た、呻くような呟きと、状況が飲み込めていないような間の抜けた問い掛け。
そして夕陽に照らされて不気味に赤く染まる、刃物の煌めき。
「ま、満里子……! あれは、小夜子のっ……!」
勉が唾を飛ばして叫んだ。満里子も愕然と事態を見守る。
それは先日、暴漢に殺されたと報道されていた小夜子の友人――猪原十花と柏田真弓だった。
『え、きゃっ……!?』
上手く避けられず尻餅をつく真弓と、そんな真弓を押し倒し馬乗りになる十花。
何処か違和感を覚えるのは、争う二人の居る地面と満里子や勉が居る地面とが明らかに違う次元だった。
地面といっても、満里子達が居るのは廃寺の荒れ果てた床板だ。対して十花達は何処か外におり、その周辺の数メートル範囲までは土や草といった地面が広がり薄くぼやけて床板と繋がっていた。
『嫌っ……! な、何するの十花ちゃ……っ!』
『煩いこのビッチが!! 生駒はな! 私のものなんだよ!! あいつは私が守ってやるんだ! あいつを騙してるお前からなッ!!』
十花が手にしたナイフを降り下ろすも、それは地面に深々と突き刺さる。トスッと乾いた軽い音を立て、真弓の顔の直ぐ横に。
『ひっ……!』
『このっ、このっ、暴れるなっ……!』
十花が手首を掴んで押さえようとするも、バタバタと抵抗を見せる真弓。
殺そうとする者と殺されまいとする者の、互いに必死の攻防が展開される。
死なせたい。
死にたくない。
葬りたい。
消えたくない。
相反する二つの同じくらい強い想いは決して混ざり合うことなく、まだ十四歳の若すぎる少女二人の悲惨な殺し合いに拍車を掛ける。
サッカークラブやリトルリーグなど、幼い頃からスポーツ系で男子達に混じって鍛えまくって来た十花の筋肉は大人の目から見ても感心するほどのもので、しかし極限状態の人間の本気の抵抗は大人からしても厄介なほどに粘り強い。
『嫌っ、わ、私はっ……騙してなんかないっ……! 私は光太くんのことが好き! 光太くんもっ、私を選んだっ!』
言葉から察するに、痴情の縺れから勃発したと思われる殺し合い。
まだまだ未来があり、これから幾らでも選択肢がある、自ら選び歩いて行ける人生がある年齢にも関わらず、子供特有の若気の至りでその未来を、人生を棄てようとしていた。
『違う違う違うっ!! あいつは私が居ないと駄目なんだよ! 私じゃなきゃ、私が傍に居て守ってやらなきゃ! お前なんか必要ない、お前なんかっ!!』
真弓は力の限り暴れるが、狙いを定められずにいた十花の握るナイフは次の瞬間、確実に真弓を捉えた。
それは吸い込まれるように真弓の胸部に入り込み、真弓が多量の鮮血で紅く染まる――ことはなかった。
刃が真弓を直撃するより早く、何者かの突進によって十花がバランスを崩し、倒れ込んだからだ。
十花に向かって体当たりを噛ました小さな影。それは一人の、男と認識するには可愛すぎるくらいの少年だった。
「あっ……!!」
満里子が思わず身を乗り出して叫び、勉は反射的に目を瞑って顔を背ける。
十花達をやや離れた丁度見易い位置で見ていた二人には、直ぐに状況が分かった。
倒れ込んだ拍子に、自らが武器としていた鋭い刃物が十花自身の胸に吸い込まれるように刺さってしまったのだ。
『あ、ぁ……?』
一瞬のことに認識が追い付かない様子の十花が首と目線だけを動かして真弓の方を見遣り、真弓は少年に抱き着いて支えられていた。
少年は真弓を助けるため、真弓も己が助かるために二人共、必死だったのは間違いない。少年も真弓も目を見開いて驚愕と恐怖と困惑の混ざった顔を崩さなかった。
その内、何か言おうとした十花が派手に血の塊を吐き出し、一気に口の周りや首までを鮮血で濡らした。
土や草がその紅い体液を吸い、色付いていく光景は或る種の美しささえ感じさせるほどに鮮明に映る。
正に今、ここで行われていることのように……。
『と、十花っ……』
真弓の思わず呼び捨てになる普段との違いは何を表しているのか。
『っ……っ……』
十花の何ごとかを言わんと頻りに動く、鮮血に濡れた震える口唇は何を耐えているのか。
彼女は二度目の吐血後、瞳孔から急速に光が抜けて行くのが分かる。
――死が近い――。
「お、おい! 確りしろ……!」
震えた勉の叫びは酷く滑稽で、これが悪い夢か何かなら確りするも何も助からないだろうと話して笑えるくらいには虚しいものだった。それでも叫ばずにはいられなかったのは、この阿呆な勉とて人の親だったからかも知れない。
そして十花の濡れた唇は、最期の最期に、恐らくは先ほどから伝えたかったであろう悲痛な心の叫びを吐露した。
『す……き……だ……よ……』
それは、途切れ途切れの掠れた小さな声。
同時に一筋の涙が頬を伝い、口角が僅かに吊り上がる。彼女は最期に微笑んだのだ。
全ては想いが重いが故。
恋に溺れ自ら引き起こした惨劇で人生を終わらせたバカな女はそこら中に居て、十花もその中の一人に過ぎなかった。……過ぎなかったが、ただ満里子や勉の目から見て、死ぬには若すぎる少女だった。
自分の娘と、同い年の少女。
自分の娘と、友である少女。
そんな少女が、過去に既に起きたことの一齣を覗いているだけに過ぎないとはいえ、目の前で確かに死を迎えた。それも、事故とはいえ同じ“友達”の手によって。
状況を見るに、タックルを噛ました少年は真弓と恋人同士か、恋仲ではなくとも好き同士か、そのどちらかに見える。
そしておっかなびっくり呼吸や脈拍を見よう見真似といったぎこちない感じで確認する二人が、十花の死を確信した時。満里子と勉は信じられない会話を聞いた。
『ど、どうしよ……。俺っ……俺がっ……』
『……か、帰ろう……』
事故とはいえ、友達が目の前で死んで、帰ろうと。人の死に、友人の死に、ショックを受けるのではなく。ただ自分達の保身を選ぶ言葉を。
『え……?』
「え!?」
少年が上げた小さな声を掻き消すように、勉と満里子の愕然とした声がハモる。
『このままじゃ、もしかしたら光太くんや私が……。だから、私達は何も知らない。これは、事故……。そう、事故よ。十花が死んだのは、私達のせいじゃない』
――こいつが勝手に襲って来たんだ。
そんなことを、言いたげな調子だった。
その自分達のことしか考えていない、思いやりのない少女の言葉に対し、少年は選択する。
『……そう、ですね。真弓センパイ……帰りましょう』
好きな人を選んだ。彼もまた、自分達の保身を選んだのだ。
事故だとしても、これで立派な犯罪者だ。
そそくさとその場を後にする二人。その姿は、ただの人殺しだった。
助かる助からないは問題ではなく、大事なのはそれでも救急車を呼ぼうとか、警察はあれだとしてもパニクって親に連絡でもすれば、そこから救急車や警察へと繋がり、事故で済んだのだ。
事故で済むものをわざわざ見捨てた。そう、それは十六年前の惨殺事件の当事者であったとある女学生と全く同じ行動だった。違いはあっても、やったことは変わらない。
それを見て大人である満里子や勉は、若い二人に、まだまだ子供である二人に、“怒り”という名の感情を抱いた。
――人が死んでいるのにお前らは。
そんな憤り。
そして、気付く。
自分達が実娘の小夜子に対してやっていたことは、一体なんだったのだろうと――。
二人がそれに気付いて固まった刹那、威厳のある低い声が聞こえる。
『己が罪の重さ思い知れ』
人間の深奥に潜む魂そのものを引き摺り出すような、恐ろしい声音だった。
実際、体の内側から競り上がる何かに、満里子と勉は震え上がった。
空気が変わる。空間だけではない、情景さえも変わって行く。まるでサウンドノベルか何かで場面が切り替わる時のアニメーション効果のように、異質な空間に一変した。
それは一面、絵の具で全ての色をやたらめったら混ぜ合わせたような汚い色をした空間だった。
しかし完全ではなく、どす黒い空間は七色のマーブル模様。混ぜ合わせた色がまだ混ざり切らない内に止めたような印象。
しかも、境目がないにも関わらず、何やら動いているのが分かる。ぐねぐねと蠢動する様は、空間が脈打っているかのようだ。
見上げれば、頭の遥か上の左側には、ホラー演出でよく見るような綺麗な紅い満月。ずっと右下の方には、宛ら見えない床の下に更に空間があるかのようにネオンっぽい緑色の太陽が存在するがそこに落ちることはない。
空間からは色彩豊かな管みたいなものが伸び、先端から何かを生み出す。例えるなら、グミに近い。それが次々に形を変え、どす黒い空間の中に青く広がっては消える。
何もかも滅茶苦茶な文字通りの異空間で、時間の感覚もないので益々、二人のチキンな精神なんぞは着実に侵食されていた。
また、平衡感覚がなくなるため、自分達が何処を向いているのか分からないどころか立っていることすらままならない。
いや、満里子や勉は威圧に耐え切れないから、平衡感覚以前に既に座り込んでいたのだが。
壁、床、天井などの境目がないので、立ち上がるだけで何処か高所の一本橋の上に立っているかのように安定感がないのだ。
壊れて行く世界の歪みを見た気がした。
更に容赦なく事態は動き、先ほど聞いた恐ろしい声よりも遥かに格上の、比べものにならないくらいの威厳と威圧感が襲い掛かる。雰囲気だけで立っているのが困難になるほどの、息苦しさが半端ではないほどの、神々しさ。
重力が一気にのし掛かったかのようだ。心臓が押し潰されるのではないかと錯覚する。そのあまりの鬼気に、精神が著しく脅かされる。
気を確り保っていないと発狂は免れないと嫌が応でも理解させられ、その場に生きているだけで必死になるほどの迫力だった。
畏怖、戦慄。意思などとは全く関係なかった。理性もない。本能だけが狂ったように警鐘を鳴らし続けるだけの、警察官の消えたパトカーがサイレンを鳴らしているような無意味さ。子兎が“前門の虎、後門の狼”に震え上がっているのと同じだった。
満里子や勉はどうしようもない人間だが、二人がそんな人間であるから必要以上に怖がっているという訳ではなく、今回ばかりは誰でもどうにもならないものだ。どうにかなる者は、精神異常者か、神とさえ平然と繋がりを持ててしまう人間ならざる人間――つまり収集家の少女のような奇人変人だけだ。
人間に、それも愚かな人間に、そんな強大な次元の話が計り知れる訳がない。
『“影”ノ小夜子ニ導カレ、ノコノコヤッテ来オッタカ人間ヨ』
何処からともなく聞こえる声に、圧迫された喉から声も絞り出せずに二人は萎縮した。
スポーツ座りで頭を抱え、顔さえ上げようとしない勉は、極度の緊張から乾いた唇を噛み締め血を滲ませる。頭を抱える手にも力が籠り過ぎて頭皮を傷付けるも、立てた爪の痛みで狂気を抑え込んでいるようであった。
一方の満里子は、情けない夫の服の裾を破らんばかりに握り締めており、ただ、何が起きるか分からないので目を背ける方が怖かったのだろう。勉とは真逆に、びくびくしながら気丈にも目を逸らすことはない。ただ警戒し、視覚で認識するのみ。
『貴様等ノ行為ハ許サレザルモノ。ズット平穏ガ続クト思ッタラ大間違イヨ』
刺突するように諌める、本物の“神”。
喋っているという感じではない、不特定多数の方向から何重にも轟くような悍ましい声。いや、声と言っていいのか不明だ。頭に直接響いているようにも感じ、それが木霊す度に空間が更に激しく脈打った気がした。
『ドウシタ、愚カナ男女ヨ。貴様等ノ娘ハ我ガ目前ニ現レテモ、ナントカ堪エテ立ッテイタゾ』
例え凄まじい偉人であろうと、逃げ出したとして誰も責められないくらいの状況。これは、十花や真弓が死に至る事件発生後に、小夜子が一人で経験したことである。
まだ中学生の小夜子は、精神を落ち着かせながら必死に耐えていたのだ。
『我ハ咲願神。貴様等ナンゾガ生マレル何百年モ前ヨリコノ街ヲ守護シテ来タ山神ヨ』
――咲願神。
そこにおわすのは、咲願峠に存在する決壊した祠跡に眠りし山神であった。
おわすといっても姿は見えない。見せる訳がない。神に謁見を許される身分にはほど遠い。親は生んでくれた存在であるから子は生涯で親を超えることはできない筈が、小夜子は神に謁見を許されるどころか気に入られるまでに至っているというのに。
また、山神の前に聞こえた恐ろしい声音の主は、咲願峠に生息する大木の精霊達であった。やはり姿は見せない。
『貴様等ノ娘ハ我カラ逃ゲズ、我ノ声ヲ聞キ、受ケ答エヲシタ。其レニ比ベテ貴様等ハ何ダ』
尤もなことで、本来、誰に言われても反論できないこと。それを神の口から言われては、どうしようもないほどにどうしようもない。
詰まる喉を無理矢理にでも開いて受け答えした律儀な小夜子とは違い、未だに一言も口を利けない哀れな大人が二人居た。まるで、聞き分けのない子供。
例え喉がどうであろうと、利きたくなかったのだ。神との接し方なんぞ、人に理解出来る訳ない。それでも小夜子のようになるべく謙虚な対応というものがあった筈だが、下手なことを言ってこれ以上“神様”を怒らせたくなかった。……そのガキ思考が、既に逆鱗に触れている神の更なる逆鱗に触れていたのだが。
『安イ謝罪ノ言葉サエ口ニ出セヌトハ言語道断。呆レテモノモ云エヌワ。モウ良イ!』
見捨てるような神の言葉の直後、
『罰当たりな人間よ。咲願神様の、そして我ら精霊の戒めを受けよ!』
という今まで一番迫力のある大声量が鼓膜を破壊するほどの勢いで雪崩れ込む。
鋭く刺さるようなその痛みに悲鳴を上げるも、実際に声が出ていたかどうかは分からない。
同時に目は潰れんばかりの目映い“光”を認識する。
小夜子の時とは違う、容赦のない光は目蓋という防御さえ無効に、その下の眼球に痛みを附与した。
目と耳に激痛を感じながら、二人の愚者の意識は闇に溶けるように霧散したのだった――。
「あれ?」
気付いたら勉は見慣れた我が家のリビングで佇んでいた。
慌てて辺りを見回すと近くにぼうっと突っ立っている満里子を見付け、その肩を掴んで揺すった。
「おーい、満里子!」
前が見えていないような不自然な目をしていた満里子は、はっとした顔になると同時に瞳孔が定まる。恐らく勉も気付くまでは同じような状態だったのだろう。
「あなた……わ、私達は……」
「よく分からないけど……家に戻ったみたいだな」
外に出て確認することにした二人は、始め玄関の扉を少し開けて様子見をした後、ゆっくりと扉を開けて恐る恐る外に出た。鳥の鳴き声にさえ、異様にびくつきながら。
「そお〜よねぇ〜! 物騒よねぇ、最近は!」
「ねぇ〜! 私なんかもう怖くてねぇ〜!」
近所のおば様方がいつものように甲高い声でギャアピイとトークタイム中であった。日常茶飯事の、普段通りの光景。
「えっと……」
反応に困った。それもその筈だ。先ほどあれほどのことがあったにも関わらず、何のおとがめもなく日常に戻れるものだろうか。
「取り敢えずはさ、大丈夫ってことじゃないか?」
「そうかしら……」
楽観的な勉とは裏腹に、疑念が消えない満里子。
だがこうなると、果たして自分達が体験したことは現実だったのか夢だったのか忽ち曖昧になる。
どんな凄まじいリアルな体験をしようが、それが非現実的ならば過ぎてしまえば忘れてしまうものだ。況して異能力持ちの小夜子なら兎も角、二人は彼女ほどの体験を毎回している訳ではない。
そして相変わらず周囲の人間に存在を忘れられていること以外は特に何もなく、日は過ぎていった。