TRACK-6 北風と太陽 1
そのビルは繁華街の中心地に建っている。全長約二百九十メートル、六十五階建て。取り立てて特徴はない商業ビルだ。
このビルの持ち主は、アトランヴィル・シティ裏社会の帝王の腹心、オブリールである。
先日、廃工場で交わされかけた麻薬密売の本番取引が、今夜このビルの一室で行われる。
ヴェン・ラッズマイヤーとオブリール、それぞれの一団は、横長のテーブルを挟んで向かい合っていた。
ラッズマイヤー側には、薬物の詰まったジェラルミンケースが五ケース用意されている。
対するオブリール側が用意したのは、コンパクト端末が一台のみ。
互いの利害が一致し、契約内容に不備のないことを確認し、双方納得のいく取引であると確信できた時、オブリールからラッズマイヤーへの入金が、目の前で実行される。
ラッズマイヤーは、入金が間違いなく完了した時点で、品物をオブリールに渡す。これで取引は終了である。
当然のことながら、今夜ここでは“何もなかった”ことになっている。ラッズマイヤーとオブリールも、接触は“なかった”ことにされる。
こうして闇の中で、キナ臭い密約は成立した。
取引が済み、先にラッズマイヤー陣営が、部屋を辞するために動き出した。
その時。室内の温度が急激に低下していった。外気がまるごと運ばれてきたかのように、冷たい空気が男たちの肌を撫でる。
空調システムの故障だろうか。しかし、それしきのことは、別段気にかけるほどではない。目的は果たしたのだから、出て行けばいいだけである。
異常に気づいたのは、窓の強化ガラスが凍りつき始めた時だった。それも外側ではなく、内側から凍っているのである。氷の結晶が、見る見るうちに窓一面を覆っていく様を、男たちは唖然として見つめていた。
次の瞬間、照明が落ち、室内が暗闇に閉ざされた。窓ガラスは氷に覆われてしまい、外のネオンライトは射し込んでこない。
敵襲か、と色めき立った男たちは、一斉に銃をホルダーから抜き放つ。
オブリール陣営から悲鳴が上がった。複数人が激しく立ち回る物音が、闇の中に響き渡る。何者かの襲撃を受けているのだ。
ラッズマイヤー陣営は、敵の正体を把握するよりも、この不利な状況からの脱出を選んだ。オブリールたちが倒されている間に、ドアに向かう。
だが、ドアは開かなかった。
「何をやっている、早く開けろ!」
ドア一枚に手間取っている部下を、ラッズマイヤーは怒鳴りつける。
と、唐突に照明が復活した。暗闇から一変、明るい光が室内を照らし出す。
いつの間に現れたのか、テーブルの上には、一人の男が立っていた。彼の向こうでは、オブリールたちが折り重なって倒れている。呻き声が聞こえるので、死んではいないらしい。
テーブルの上の男は、黒いレザースーツに身を包み、片手に蒼く光る機械剣を握っていた。碧色の眼差しは、鋭く冷たく、ラッズマイヤーだけを見ている。
「レジナルド、来やがったな」
ラッズマイヤーは不敵に笑う。今日この場に現れるのではないかと思っていた。この首を狙って。
「わざわざ死にに来たか! だからお前を見てると愉快なんだよ!」
ラッズマイヤーの合図で、部下たちが一斉に銃を構えた。発砲する、その刹那。
剣の輝きが増した。レジーニが剣を横に払う。すると氷の礫を纏った冷気の突風が巻き起こり、男たちの視界を奪った。
連中が怯んだ隙に、レジーニはテーブルを飛び降り、一人また一人と倒していく。銃で狙われれば素早く軌道から外れ、一瞬にして相手の懐に飛び込んで攻撃する。
その手口は鮮やかで、動きに一切の無駄がなかった。
ラッズマイヤーは歯噛みする。予想以上の強さだったからだ。たった一人で、これほどの立ち回りを見せるとは、思いもよらなかったのだ。
レジーニにとっては、この程度の人数を相手にするのに、何の問題もなかった。この男たちは、軍部や警察の特殊部隊員でもなく、ましてや死骸から変化した化け物でもない。メメントと戦うための訓練を受けて今があるレジーニには、たとえ裏社会に身を置いた連中であっても、ただ一般人と変わりがないのだ。
「……ちッ!」
忌々しげに舌打ちするラッズマイヤーの側で、部下の一人がついにドアを蹴破った。
残った部下に守られながら、ラッズマイヤーは部屋を走り出た。レジーニはすかさず追う。
部下の一人が、階下で待機しているはずの仲間に、通信機で応援を要請した。すぐにでも駆けつけるだろう。
逃げながらラッズマイヤーはほくそ笑む。
いくら強くなっていようとも、階下から上がってくる一団との挟み撃ちに遭えば、ひとたまりもあるまい。
倒れた男が所持していた通信機が、応援要請を受信した。
その音声を聞き、マックスは通信機の電源を切った。
「仕事の早さは、ホンマ嫌味ったらしいな。もう追い詰めとるんかい」
通信機を放り投げる。放物線を描いて落ちた先は、昏倒する男たちの間であった。
ビルの下階層の守りを固めていた連中は、ついさっき一人残らず倒したばかりだ。上の階からの応援要請に応えられる者は、もはやいない。
「こりゃあ、早よ追いかけな、えらいことになんなあ」
あまり切迫した様子のないディーノが、苦笑いで頬を掻く。
「レジーニ……」
エヴァンは、上へと続く非常階段を見上げた。この上で、相棒が一人で戦っている。自らの命も顧みない、無謀な行為だ。
「いつも俺に説教ばっかしてるくせに、今のお前は何なんだよ」
「相方くん」
ディーノに呼ばれて、エヴァンはそちらに顔を向けた。
「ほな、ここで一旦解散や。俺らは別ルートで上に行く」
「作戦通りに、だろ」
頷くエヴァンに、マックスの人差し指が突きつけられた。
「へますんなやヘタレ猿。お前がスケコマシ止めな、俺らの方にも支障きたすからな。なんなら相打ちでもかまへんで。その方がすっきりするわ」
「もー、マックス、そういう心にもないこと言わんと。ごめんな相方くん、この人、天邪鬼やねん」
「やかましわ! 余計なこと言わんでええねんお前!」
マックスはディーノの健脚を蹴るものの、まったく効き目がないようである。
「レジーニは任せろ。必ず止める。だからお前らは、あのクソッタレをどうにかしてくれ」
「お前なんぞに言われんでも、きっちりしたる。さっさ行けや」
しっしっ、と、小虫を遠ざけるように手を払うマックス。この小柄な男のことが、少し分かってきたエヴァンは、文句を返さず頷き、階段を駆け上がった。
「ホンマ、ぺーぺーの世話はしんどいわ」
あっという間に階上へと姿を消したエヴァンを見送った後、マックスは大袈裟に溜め息をついた。そんなマックスを、ディーノは朗らかに見下ろす。
「そんなん言うて、ちょっとは気に入ってるやん、自分」
「アホか。誰があんなキンシコウの子どもみたいなん気に入るかい」
「あの二人、この一件が済んだら、ええコンビになると思うで」
「そーかそーか。知らんわそんなん。俺らを超える奴らなんぞ、そうそうおらんで」
「そやなあ」
相方の性格を知り尽くすディーノは、マックスの真意を汲み取って笑う。
今まで、ライバルと呼べるコンビに出会うことがなかった。あの二人がライバルとなってくれるのであれば、いい刺激を与え合える、よい関係を築けそうだ。
「ほな、俺らも行くか」
「おう。お仕事開始や」
階上へ階上へと逃げるラッズマイヤーを、レジーニは執拗に追いかけた。
途中で迎撃する雑魚は、あしらうようにして倒した。
やがて一部屋ほどもある開けた場所に出たところで、ついにラッズマイヤーただ一人を追い詰めた。
守ってくれる部下を失ったラッズマイヤーは、拳銃でレジーニを迎え撃つ。
しかし焦りのためか、照準がまったく合っていない。弾は空振りし、レジーニではなく四方八方に命中した。
だが偶然にも、最後の一発が、レジーニの顔の脇をかすめた。反射的に、レジーニは一瞬目を閉じる。
その隙をついて逃亡を計ったラッズマイヤーだったが、すぐさま追いかけ、首根っこを押さえた。
円を描くように大きく振り回し、背中から床に叩きつける。ラッズマイヤーの口から、苦痛の声が吐き出された。
仰向けになった彼の顔すれすれに、ブリゼバルトゥを突き立てる。剣先が床を抉り、白い氷の粒が舞い散った。
レジーニはラッズマイヤーの胸部に跨ると、片手に持った銃をぶらぶらと弄びながら、虚ろな目で見下ろした。
ラッズマイヤーは引き攣った表情で、レジーニを見上げ返す。矜持により、辛うじて抑え込んでいる恐怖心が、瞳の奥で膝を抱えていた。
やっとここまで追い詰めることが出来た。今やこの男の命運は、自分の手中にある。実に喜ばしいことだ。この瞬間のために、今日まで生き恥を晒してきたのだから。
だが、何故なのか。濃く黒い霧に覆われたように、心は晴れない。
「やあ、ラッズ。やっと捕まえた」
「レジナルド……」
ラッズマイヤーは舌打ちする。
「あんたに会えて、とても嬉しいよ。ずっとこの街で待っていた甲斐があった。執着心の強いあんたのことだから、昔の地位を取り戻すために、いつか戻ってくるんじゃないかと思ってね」
「へっ、随分俺のことを分かってるじゃないか。さすが俺の側近だった奴だ」
にやりと笑ったラッズマイヤーの頬を、容赦なく殴りつける。血交じりの唾液が床に散った。
「そうだな、よく分かってるよ。だから後悔している。あの時、どうしてもっとあんたの行動を読まなかったのか、とね」
数発、顔を殴打した。血飛沫が四方に舞う。奥歯が抜け、部屋の隅の方へ飛んで消えた。
自身の血で顔を濡らしたラッズマイヤーは、苦痛の呻き声を漏らす。
レジーニは彼の目を覗き込むように、顔を近づけた。
「ラッズ、見ろ。俺の目を。ほら、よく見るんだ」
ラッズマイヤーの両頬を片手で掴み、強引に正面を向かせる。
「さあ、もっとよく見ろ。どうだ、何が見える? 俺が見えるかい? この俺がどんな風に見える?」
ラッズマイヤーの唇がわななき、言葉にならない声を漏らした。
「聞こえないよ、ラッズ。もっと大きな声で言ってくれないと。歯が折れて痛いのかい。どうってことないだろ、こんなの。あいつはこれ以上の仕打ちに耐えたんだぜ? 女が耐えられたのに、男が音を上げちゃ駄目だ」
頬を往復で平手打ちし、もう一度掴み上げる。
「ラッズ、ラッズ、ちゃんと見るんだ。今の俺がどんな風に見えるか言ってごらん。あんたが望んでいたようになってるだろ? 俺の顔が醜く歪んで、小汚くのた打ち回る無様な姿が見たかったんだろ?」
ラッズマイヤーは怯えている。口元が腫れ上がっていることもあって、悲鳴こそ上げないが、目が完全に怯えていた。
彼はレジーニの目を恐れている。冴え冴えとした碧の瞳に宿る、静かに燃え滾るマグマ。長い年月の間に蓄積された、憎悪と絶望と哀しみは、どろどろの溶岩となって、レジーニの中を満たした。
マグマは原動力だった。いつの日か、この男が再び目前に現れた時のための。
マグマの持つ熱は、身を燃やし尽くさんばかりに凄まじい。だが、この身が燃えてしまおうが構わない。
すべてが終わったその時には、己もマグマに焼かれてしまえばいい。
心と魂は、凍てついた氷に閉じ込めたまま、解き放つことなく燃え尽きたなら。
何も感じずに逝けるだろう。
「あんたのおかげで、俺はこんな風になった。どうだい、醜いだろ? 無様だろ? あんたが見たがってた俺がここにいるぞ。笑えよ、ほら。いつもみたいにゲラゲラ腹抱えて笑えよ」
拳を振り上げ、殴りつける。もはや抵抗しなくなった元ボスを、何度も何度も打った。
ラッズマイヤーの鮮血で拳が赤く染まり、幾筋も腕を伝っていく。
どれだけ殴って痛めつけても、何の感情も湧いてこない。もう、この男に対して傾ける感情は、一欠片もなかった。
喉にたまった血を、咳き込みながら吐き出すラッズマイヤーは、いまや襤褸雑巾のように惨めな姿に成り果てていた。ぐったりと腕を垂らし、瞼は腫れ上がって、満足に目が開かない。そこにはかつて、この街でもっとも恐れられた、裏社会の支配階級に君臨した男の面影はない。
息も絶え絶えのラッズマイヤーを、レジーニは無言で見下ろす。
やがて、おもむろにブリゼバルトゥを握って床から引き抜き、切っ先をラッズマイヤーの心臓にあてがった。
「う……やめ……」
命乞いする掠れた声を無視し、クロセストの発動器を引いて、冷気のパワーをチャージする。刀身が蒼い光を湛え、周囲の気温が下がった。
「やめ……たの……」
ブリゼバルトゥを持ち上げる。切っ先は心臓の位置から、一ミリたりともずれていない。
瞬きもせず、一気に剣を落とす。
「レジーニ!」
どこからか名を呼ばれ、ラッズマイヤーの命を奪う手を止めた。
声の主は分かっている。
来るような気はしていた。あれほど「来るな」と言ったのに。
あれは、そういう奴だ。
ラッズマイヤーの上から降り、すっくと立ち上がる。非常階段を、息も切らさず駆け上がって来た人物を、冷ややかに迎えた。
*
追いついた相棒は、まるで別人のように変わり果てていた。容姿の問題ではない。見た目は相変わらず端整で、立ち姿にも隙がない。肌で感じられるほど殺気立っている。
変わってしまったのは目だ。黒髪によく映える碧の瞳が、淀んで濁り、生気を失っている。
いつも自分を見下している相棒の目は、冷たくも鋭く、それでいて揺るぎない強い意志を感じさせるものだった。
それが今は見る影もない。
(なんて目してんだよ)
傷つき、最期の時を迎える場所を探し求めて徘徊する獣のようだ。
エヴァンの胸が、きりりと軋む。こんな目をした相棒は、見たくなかった。
「何をしに来た」
抑揚のない声で、レジーニが問う。
「消えろ。お前の出る幕はない」
「俺の出る幕ならあるぜ。お前を引きずってでもここから連れ帰ることだ」
レジーニは鼻を鳴らして嘲笑する。彼の手にブリゼバルトゥが握られているのを確認したエヴァンは、苦虫を噛み潰したように、歯を食いしばった。
「先輩様。どうやらお忘れになってるみたいなので教えときますけどね。クロセストは人間に向けていいもんじゃねえぞ」
「分かっているさ。もちろん人間には向けたりしない。人間にはね」
足元に這いつくばる男を見下ろす。レジーニに数え切れないほど殴られただろう男は、一瞬ラッズマイヤーだとは分からなかった。
顔と上半身を血塗れにしたラッズマイヤーは、じりじりと後退して、レジーニとの距離を開けようとしていた。
ラッズマイヤーが逃げると、レジーニは一歩近づく。脆弱な獲物を追い詰めるように。
「レジーニ、そいつから離れろ」
聞く耳は持たぬと分かっていても、エヴァンは止めなければならなかった。
「レジーニ、止まれ!」
案の定、相棒は止まらない。
エヴァンは右手のハンドワイヤーを伸ばし、ラッズマイヤーの足を捕らえた。そのまま彼を奥の廊下の方へと滑らせ、同時に、彼とレジーニとの間に割り込む。
「ラッズマイヤー!」
レジーニと向き合ったまま、話しかける。
「てめえは吐き気がするくらいクソッタレ野郎だ! 二度と顔見たくないから、とっとと行けよ!」
ばたばたと足音が聴こえ、徐々に遠ざかって行く。廊下の奥は、もう一つの非常階段に通じている。階段を昇れば、屋上に出る。
そこから先は、あの二人に任せればいい。
「なんのつもりだ」
レジーニは眉間にしわを寄せ、エヴァンを睨んだ。ブリゼバルトゥの刀身が蒼く光る。
「そこをどけ」
「やだね」
「同じ事を何度も言わせるな。どけ」
「お前こそ、何度も言わせんなよ。やだっつったらやだ」
エヴァンも負けじと睨み返す。
「レジーニ、もういいだろ。あんな奴、お前が殺す価値なんかない。あんなクズのために、なんでお前が手を汚さなきゃなんねえんだ。あいつはあの二人組が始末してくれる。帰ろうぜ。みんな心配してるからさ」
相棒の表情が歪んだ。それは嘲笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「帰る? どこへ? 帰る場所なんかない。もうどこを探したってないんだ」
二歩、三歩、進み出る。
「俺の旅はここで終わる。どいてくれ」
レジーニの口調は穏やかだが、その分危険を孕んでいた。ここをどいてはいけない。この先に行かせてしまったら、この男は二度と戻ってこないだろう。
いくら言葉を積んでも、レジーニには届かない。心と魂を閉じ込めた氷は、溶けない。
それなら。
「どうしても行きたいのかよ」
氷が――、
「だったら」
溶けないなら――、
「俺と戦え」
砕いてやる。




