TRACK-5 屑星恋歌 7
目の前の二人――ヴォルフとママ・ストロベリーは、険しい表情でレジーニを見ている。
サウンドベルの〈パープルヘイズ〉へ、ヴォルフを訪ねていったレジーニは、ルシアとのことを打ち明けた。この男は信用できる、と判断したのだ。
ストロベリーは、ヴォルフが店に呼んだ。彼女はヴォルフの口から事情を聞くや、目尻を吊り上げてレジーニを凝視した。
ストロベリーが、ルシアとの付き合いを快く思っていないのは、重々承知している。それでも、ルシアのためには、彼女に認めてもらわなければならない。
誰かに頼り助言を仰ぐなど、昔の自分だったら絶対にしなかったことだ。すべてはルシアのためである。
随分変わったものだ、と、今の自分を振り返って自嘲することがある。だが、悪い気はしない。
「アンタ本気なの?」
少しでも怪しむべき箇所を見つけたら即刻別れさせる、とでも言いたげな表情で、ストロベリーはレジーニの目を覗き込んだ。レジーニは怯むことなく、その目を受け止め、頷いた。
「もし、あの子を不幸にするようなことがあったら、アタシは絶対に許さないわよ」
「分かってる」
「必ず守るって誓える?」
「ああ」
きっぱりと答えると、ストロベリーは表情を和らげた。それから「……お願いね」と、ぽつりと呟くのだった。
「残る問題はラッズマイヤーだな」
ヴォルフは腕を組み、鼻息を吹く。
「足を洗うってえんなら、おそらく、けじめとして最後に一仕事させられるだろう。それが無事に済んだとして、あの野郎が素直にお前を手離すかどうか、なんだが」
「説得が通じる相手じゃないと思うけど、やれることはやるさ」
「確かに。だが、お前が本気なら、俺も出来る限り手を貸す。あの子のためにもな」
ヴォルフはぽりぽりと頭を掻いた。彼は以前、ルシアにギターを弾いてもらったことがあるらしい。以来何かと気にかけているそうだ。彼もまた、ルシアの光に当てられた一人なのだろう。
「絶対に油断するなよ。奴の性格を考えろ。最後の仕事の日、俺がルシアを迎えに行く。それまで誰も部屋に入れさせるな」
オフィスで二人だけになったところを見計らい、ラッズマイヤーに話をした。
ラッズマイヤーは、ぽかんと口を開けて、レジーニの言葉を聞いていた。こんなに呆気にとられたラッズマイヤーは見たことがない。
「結婚するから足を洗いたい、だとお?」
本当に驚いているのか、ラッズマイヤーはしばし、口を開けたまま動かなかった。
「俺は本気だ。だから、頼む。俺を解放してくれ。ラッズ、今まで充分すぎるほど、あんたに従ってきただろ? あんたは力で部下を抑えつけてるけど、その力が通用しない場合だってある。それが今だ。俺は俺の生き方を取り戻したい。あんたに従うんじゃなく、自分の意思で歩く生き方だ」
ラッズマイヤーの開いた口が閉じ、目がすっと細められる。
「俺があんたに何かを頼んだことがあったか? 最初で最後に下げる頭くらい、汲んでくれたっていいだろ」
これは賭けだ。ラッズマイヤーに気に入られている、という、決して気分のいいものではない立場を、有効利用出来るか否かの賭けである。
もし本当にラッズマイヤーが自分を気に入っているのなら、ひょっとしたら恩情をかけてくれるかもしれない。
それは微々たる可能性である。ゼロにも等しい。彼のことだから、機嫌を損ねて怒りを噴火させる危険度の方が高かった。そうなった場合、なりふり構わずルシアと逃げるつもりだ。
だが、わずかな可能性への賭けに勝てば、ルシアに危険が及ぶことなく、事は解決する。
やがてラッズマイヤーは背中をのけぞらせ、声を上げて笑った。
「そんな寿退社のOLみたいな理由で足抜けした奴なんざ、今まで一人もいなかったぜ。お前は本当に面白い奴だよ」
レジーニの周りをゆっくりと歩き、肩に手を置く。
「お気に入りのお前がいなくなるのは寂しいが、だからこそ、お前の幸せのために、俺は涙を飲まなけりゃならないってわけだ」
「ラッズ」
「ああ、いいさ。男に最初で最後とまで言われちゃあ、ヴェン・ラッズマイヤーの名が廃る。今までよくやってくれたな」
「本当なのか?」
「お前なあ、せっかくその気になってんだぞ。素直に言葉を受け取れよ。この俺だってな、懇意にしてる奴になら、情けをかけることもあるんだぜ」
ラッズマイヤーは、これもまた今まで見たこともないような、晴れ晴れとした笑みを浮かべ、レジーニの背中を叩いた。
通じたのだろうか。賭けに勝ったのだろうか。
まだ完全に信用してはいけない。最後の仕事を終えたとしても、本当に解放するつもりがあるのか疑わしいのだ。
まだ、楽観視してはいけない。
だが、もしもラッズマイヤーの言葉を信じていいのであれば、もうすぐ自由になれる。
案の定ラッズマイヤーは、足を洗うためのけじめとして、最後の一仕事を命じた。
いつもの運び屋の仕事だ。取引物(中身はいつも知らされない)の詰まったジェラルミンケースを、特定の人物に渡す、という簡単な内容である。
けじめの一仕事なのにその程度でいいのか、と問うと、「花婿に何かあったら悲惨だろうが」という答えが返ってきた。
それで納得できたわけではないが、承諾する以外になかった。
当日、すでにルシアと同棲していたレジーニは、アパートを出る間際で、彼女に言い聞かせた。
「いいか、昨日も言ったけど、ヴォルフが迎えに来るまで部屋を出るなよ。他の誰が来ても中に入れるな。分かったな?」
「うん、分かった」
素直に頷くルシアを、レジーニは溜め息をつきながら抱き締める。
「すまない。俺が堅気の人間だったら、お前に窮屈な思いをさせずにすんだのにな。街も出なくちゃならなくなるかもしれない。お前の夢、邪魔するようなことになって、悪かった」
「いいよ、そんなの。ギターならどこででも弾けるし」
腕の中で、ルシアは朗らかに笑う。
「待ってるから、早く帰ってきて」
「ああ。〈パープルヘイズ〉で落ち合おう」
名残惜しみつつもルシアから離れ、アパートを出た。
振り返って視線を上げると、窓からルシアが身を乗り出し、大きく手を振っているところだった。
赤い煉瓦の壁に、一輪の向日葵が咲いたような、満面の笑みを浮かべて。
*
アパートの五階からは、通りの様子がよく見える。
レジーニの姿が、角の向こうへと消えるまで、ルシアは窓辺で見送った。
陽射しが眩しい。空に向かって左手を伸ばしてみた。薬指には、ささやかに光るピンクゴールドの婚約指輪が嵌められている。
見るたびに顔がにやけてしまう。こんなに綺麗なものを身につけたのは、生まれて初めてだ。
高価なものだから嬉しいのではない。レジーニに贈られた特別なものだから嬉しいのだ。
「さてと」
部屋の中を振り返り、ぐるりと見渡す。万が一の事態に備えて、街を出られる準備をしておくように、と言われた。荷物は必要最小限度に止める。
万が一の事態、というのがどういうものかは分からないが、あまりよくないことなのだろう。
とにもかくにも、貴重品とギターだけは手離せない。ヴォルフが迎えに来るまでに、手荷物をまとめなければ。
あの、熊のような飲食店店主とは、ママ・ストロベリーを通じて縁を持った。ギターを弾いて聴かせたら、とても気に入ってくれた。父親のような雰囲気があって、ルシアはすぐになついた。
迎えに来るとはいっても、はて一体いつ頃に来るのだろう。
ぱたぱたと部屋中を動き回っていると、コンコンとドアがノックされた。
誰だろう。首を捻ると同時に、時刻を確認する。レジーニが部屋を出てから、一時間と経っていない。
誰も部屋に入れるな、と言われているので、まずはノックの主を確認することにした。
そっと玄関に近づき、ドアスコープを覗く。
妙なことに、廊下の様子が見えない。
一旦顔を離して、もう一度覗き込む。やはり見えない。
すると、再びノックされた。そして、
「おい、俺だ。迎えに来たぞ」
低く、野太い声が、ドア越しに聞こえた。
「……ヴォルフさん?」
「そうだ。開けてくれ」
ルシアは首を傾げた。来るのが早すぎるのではないか?
「本当にヴォルフさん?」
「そうだよ。レジーニから、俺が来ると聞かされただろ? レジーニのボスは、お前さんとの結婚を認めたぞ」
「本当!?」
その知らせに、ルシアは破顔して鍵を開けた。
途端、強い力でドアが開けられた。入り口を塞ぐように立つのは、いかつくも温かな人柄をにじませる熊親父ではなく、
「タダでじゃないがな」
蛇の目をした男だった。
*
滞りなく役目を終え、報告するためにオフィスに向かっている時、建物から出てくるラッズマイヤーと鉢合わせた。
ラッズマイヤーはレジーニに気づくと、ひょいと片手を上げた。
「済んだのか」
「ああ」
「じゃ、これで最後だな」
ラッズマイヤーは肩をすくめる。
「ラッズ、あんたの言葉を信じていいんだな?」
「しつこい。俺に二言はない。今この瞬間から、お前は自由だ。分かったらとっとと行け。堅気の奴が、いつまでもヤクザ者と立ち話なんかするんじゃない」
レジーニが何か言い返すより早く、ラッズマイヤーは路上に停めていた電動車に乗り込む。運転席では、部下が待っていた。
出発するかと思った矢先に車窓が開き、ラッズマイヤーが何かを差し出した。
「おっと、そうだ。大事なことを忘れていた。こいつはほんの餞別だ」
渡されたのは、掌に収まる程度の小箱である。丁寧にリボンが掛かっていた。
「餞別?」
「柄にもねえと思ってんだろ? まあ、ほんの気持ちだ。これでもお前には感謝してるのさ。じゃあな」
はにかむような笑みを浮かべて窓を閉める。
ラッズマイヤーを乗せた電動車は、静かに発車した。
去っていく車影をしばし見つめるレジーニは、解放されたという事実を、まだ信じられずにいた。
渡された小箱に視線を落とす。
餞別? あいつが?
しゅるりとリボンをほどき、蓋を開けた。
中にはラッピングパッキンが詰まっていて、内容物が見えなかった。パッキンを取り除くと、箱の底に何かが入っていた。
小枝のような細いものである。赤く染まっている。
その、細く赤い何かには、
ピンクゴールドの指輪が嵌っていた。
*
集中治療室の前には、ストロベリーとヴォルフの姿があった。ストロベリーの両目は涙で充血していた。
息を切らせて駆けつけたレジーニに気づくや、ストロベリーは早足で近づき、有無を言わさず平手打ちした。
乾いた音が、病院の廊下に響き渡る。
「守るって言ったじゃない……」
ドラッグクイーンは声を震わせた。
「アンタ、守るって言ったじゃない!」
罵倒されながら肩を揺さぶられたが、そんなことは何の問題でもなかった。ストロベリーの存在も、ヴォルフの存在も、一瞬にして視界から消える。レジーニの目には、ガラス窓を通して見える、治療室の中の様子しか映らない。
「すまん、俺にも責任がある」
沈痛な面持ちで、ヴォルフが言った。
「迎えに行こうと店を出たところで、不意打ちを食らった。そのまま閉じ込められて……」
そんな説明も、レジーニには届かない。
治療室のドアには「面会謝絶」の表示が掲げられていたが、構うことなく、転げるように中に入った。
物々しい機材に囲まれたベッドの上に、ルシアが横たわっている。全身に包帯が巻かれていた。顔の半分も、包帯に覆われている。唇には生々しい瘡蓋があり、耳にはガーゼが貼られていた。
彼女の命ともいえる両腕にも、指先が見えないほど厚く包帯が施されていた。
覆われていない方の目が、ゆっくりとレジーニに向けられる。
口の端が、ピクリと動いた。笑っている。
レジーニはベッドにすがりつき、ルシアの頭と肩の間に顔を埋めた。
嗚咽が喉から溢れる。止め処なく涙が流れる。
(俺のせいだ……俺のせいだ……俺のせいだ……!)
謝罪の言葉しか出てこない。それも泣き声に滲んで、はっきりした言葉にならない、ただの慟哭だ。
ルシアの唇が動き、かすかな声が聴こえた。レジーニにしか聴こえない、小さな声だった。
――おかえり。
――ギターが弾きたいな。あなたのために。
――泣く代わりに歌ってほしいんだ。
覆われた腕をゆらりと持ち上げて、弾き真似をする。
向日葵の瞳から、つ、と一筋、雫が零れ落ちた。
――ごめんね。
*
オフィスに乗り込んで、ルシアを汚し奪った者どもを屠っても、何一つ救われはしなかった。
疾走って、疾走って、疾走り抜いて、幾人もの血が流れても、失った光が再び灯ることはない。
どんな代価を払おうが、もう戻ってきてはくれない。
どこにもいない。いない。
なのに、あの声だけが耳に残っている。
暴れ回るのを取り押さえられ、引きずり出された時の、あの男のけたたましい嘲笑が。
鼓膜を揺るがし、脳に突き刺さる、悪魔のような笑い声が。
焼きついて離れない。
離れない。
離れない。




