TRACK-5 屑星恋歌 6
翌週の日曜日、公園に足を運んだ。自然と向かう先は、中央の円形花壇であった。
別に何も期待しちゃいない。というか、別に会いに行くわけじゃない。ここは今までもよく通る散歩道だったし、市民の憩いの場に誰がいようといまいと関係ない。
などと、自分に言い聞かせる。言い聞かせている、というこの事実が、胸の中をもやもやさせる。
そんな風に自分に対して言い訳しながら歩いていくうち、円形花壇の前に到着してしまった。
今日も十数人程度の客を前に、彼女はギターを弾いていた。少し離れた所で立ち止まり、彼女の演奏を見守る。
楽しそうだ。演奏中、ずっと笑っている。聴衆もにこやかである。彼女が心から楽しんで演奏しているのだということを、しっかり受け取っているのだろう。
レジナルドは、客の輪に加わることなく、彼女のパフォーマンスが終わるまでその場で見ていた。
やがて演奏が終わる。先週と同じようにチップを受け取り、聴いてくれた人々にお辞儀をする彼女は、客を全員見送ったあとで、やっとレジナルドの存在に気づいた。
「あっ、おにいさん!」
レジナルドはゆっくりと彼女に近づいていった。数歩手前で止まり、不明瞭な発音で「よお」と声をかける。
この、妙な緊張感は何なのだろう。たかが挨拶ひとつするために、声を絞り出さねばならないとは。
こちらの密かな緊張とは裏腹に、彼女は親しげに話しかけてくる。
「びっくりしたよ、何も言わないで帰っちゃったんだもん」
「帰るのは俺の自由だろ。お、お前に断る必要があるのかよ」
「無いね、うん」
あっさり頷かれた。
「ひょっとしたら、怒ったんじゃないかって心配したんだ。あれだよね、おにいさん、普通のバーだと思ってたわけだよね。で、可愛いホステスがいたらお持ち帰りするつもりだったんだよね。なのに実際はゲイバーだったんで、期待外れだったんだよね。ごめん」
「怒ってねえから、わざわざ具体的に解説すんな!」
「怒ってないの? よかった! あ、そこ座らない?」
彼女は花壇の縁を指差すと、まず自分が座った。それに釣られるように、レジナルドも腰掛ける。当然のことながら隣同士である。
座ってからしばらくの間、彼女は適当にギターを爪弾いた。わずかに言葉を交わしたが、大した内容ではない。
彼女は気の向くままに、ほろんぽろんと弦を弾く。それはただの調整のようでもあり、曲のようでもあり、ギターの呟きのようにも思える。
彼女の横顔を見る。白くキメの細かそうな肌に、ほんのりと朱が差していた。
不思議なことに、ただ軽く音を奏でているだけであっても、ギターを持った彼女は、そうでない時より存在が際立って見えた。ギターを心から愛しているということが、こちらにも伝わるからだろうか。
知らずレジナルドは、彼女に見蕩れた。
この一週間、彼女の姿が、何度も脳裏を過ぎっていった。その度にもやもやして、時に苛立ち、時に胸を締めつけられる。何をしていても、ラッズマイヤーと共にいる時でさえも、彼女はレジナルドの側にいた。
なぜこんなに気持ちになるのだろう。少し変わった女だったから、印象強かったのか? それとも、あんなことを言われたから、だから気になるのではないか。
胸のもやもやの正体を確かめるために、今日はここに来たのである。決して――、
また会いたい、などと思ったわけでは――。
そこまで考え、我に返ったレジナルドは、居住まいを正して咳払いする。
「そ、それよりお前。なんであの時、あんなこと言ったんだ」
「え、何? あたし何か言った?」
ギターから目を逸らさない。少しはこっちを見ろ。
「忘れたのかよ。俺に、その、な、なんでそんな目してるんだとか、言っただろ。迷子になってるみたい、だとか」
「ああ、あれね。うん、そんな風に見えたよ。行きたい所があるのに、どう行けばいいのか分からなくなって、迷子になった子どもみたいな目してた。それもね、意地っ張りな子ども。ガキ大将みたいなね。迷子になってるってこと、絶対に認めないの」
ふふっと笑う。ギターを呟かせる手を止め、やっとこちらに顔を向けた。
「おにいさんはどこに行きたいの?」
言葉が喉に詰まる。太陽の欠片のような、眩しい向日葵の瞳に見つめられ、意識が吸い寄せられる。
結果、口から出てきたのは、彼女の問いとはまったく関係のない言葉だった。
「いい加減、おにいさんはやめろ。レジナルドって名前があるんだよ」
「レジナルド? 渋い名前」
「ほっとけ。お前は、……ルシア、だろ。店の連中が呼んでた」
「そう」
にっこりと笑った彼女――ルシアは、再びギターの弦に指を滑らせる。
「レジナルドか。じゃあ、レジーニって呼んでいい?」
「……え?」
「名前、そのままじゃ堅いから。だめ?」
「いや、……別に」
「じゃあ、決まりだね」
ほろんぽろんと弦が囁く。
ルシアが満足するまでギターを弾く姿を、レジーニは飽きることなく、隣で見守り続けた。
何度となく、円形花壇の前を訪れた。ルシアのギターを聴くために。彼女に会うために。
親しくなっていくうちに、彼女についていろいろな事を知った。
実家は東エリアの北端にある田舎町で、兄が一人いるそうだ。子どもの頃はその兄と二人で、よくおもちゃの楽器で遊んでいたという。
兄は、ルシアより先にアトランヴィル・シティに移っており、プロのミュージシャンを目指しているらしい。
ルシアもまた、プロのギタリストになることを夢見ていた。彼女は歌が苦手だというので、もっぱらバンドのオーディションを受けている。だが、採用されたことは一度もない。ギタートーンに癖があって、バンド全体の雰囲気に馴染まない、というのが主な理由だった。
何度オーディションに落ちても、ルシアはあきらめなかった。毎週欠かさず公園で弾き、アパートの自室でも練習を重ねる。努力を続ければ、いつか必ず報われると信じているのだ。
ルシアの頭の中は、常に音楽のことで満たされていた。レジーニと一緒にいる間も、他愛のない会話の途中で、ギターについて話し出す。
彼女にとって、音楽は何よりも大切であり、もっとも優先するべき事項なのである。
その最優先事項を、ギターではなく自分にしてほしい。そう願うようになったのは、いつの頃からだったろうか。
ギターを見つめる目を、こちらに向けてくれ。
弦を爪弾く指で、触れてくれ。自分のことだけを考えていてくれ。
けれど、こうも思う。ギターを弾く時の輝きを、夢を語る熱い眼差しを、いつまでも保ち続けていてほしい。
どんな時でも笑顔を絶やさず、側にいてほしい。
ルシアが側にいるだけで、日の光を一心に受けるかのように、温かな気持ちになれる。視野が広がって、今まで見過ごしてきたものが見えるようになるのだ。
ひたすら闇の中を歩いてきた。目を閉じ、耳を塞いで、余計なものとは関わりを持たず。
行き先を見失ったまま、歩き続けることにも疲れた。
そんな闇の獣道に光が射す。一筋の光だが、眩しく、温かく、包み込んでくれる。
胸に掻き抱いて、決して手離したくないと、心から願った。
ルシアに対して抱いている感情の正体に気づきながら、それでもなかなか打ち明けることが出来なかった。決して自慢にならない仕事をしている上に、暗く重い過去を背負っているからだ。彼女を、この闇に引きずり込みたくなかった。
だが、ルシアなら、すべて受け入れてくれるのではないかという希望もあった。
彼女となら一緒に、この闇から抜け出せる。
そう思わせてくれたのは、ルシアだけなのだ。
友達として、互いのアパートを行き来するまでになった頃。ルシアの部屋で、レジーニは初めて身の上話をした。
ルシアは普段の陽気さを休ませ、真剣な表情でじっと話を聞いていた。
すべて語り終えたレジーニは、恐る恐る彼女の反応を待った。軽蔑されるか、見限られるか。どんな反応をされてもおかしくない。
頼む、と、柄にもなく祈る。頼むから、拒まないでくれ。
しばらく沈黙が流れたあと、ルシアは、
「そっかあ。分かった」
とだけ言った。
あまりにあっさりした返しだったので、レジーニは拍子抜けした。
「それだけか? 他に何か言いたいこととかねえのかよ」
「別に? あなたが今までどんな人生を送ってきたのか、話してくれたから、分かったって言ったの。どうかした?」
ルシアは、何か変わったことでもあるだろうか、という風に首を傾げる。
「普通、こんなめちゃくちゃに生きてきた人間、軽蔑するとか、馬鹿にしたりするだろ」
「人によってはね。あたしは、あなたがどんな生き方をしてきたとしても、文句言ったり出来る立場じゃないよ。だって、あなたがどれだけ辛い思いをしてきたのか、本当の意味では理解できないもん。他人だし、同じような目に遭ったわけでもない。なのに『辛かったね』『かわいそうだね』なんて、そんなこと簡単に言えないよ。言ってほしいなら話は別だけど、あなたはそんな言葉がほしいんじゃないんでしょ? だから今まで誰にも話さなかったんじゃない?」
今度はレジーニが黙る番だった。
「誰にだって辛い経験はある。その辛さを理解出来なかったとしても、本人が立ち直るまで側で支えることは出来るよ。あたしに何か言えって言うなら、一つだけ」
ルシアは人差し指を立て、その指をレジーニの顔に近づけて、頬を軽くつまんだ。
「あなたはもう少し笑った方がいいよ。笑った顔、かわいいからさ」
頬をつまむ彼女の手を握る。温かい。毎日ギターを弾いているせいなのか、他の女性よりもやや指が太くたくましい。
自分を見上げる向日葵の瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。
「あたしにしてほしいことがある?」
望みは一つだ。
「側にいてくれ」
「分かった」
それが当然の答えであるかのように、ルシアは微笑んで頷いた。
初めて二人で過ごした夜は、炎のような熱情ではなく、朝凪の沖にも似た穏やかな気持ちで肌を重ね合った。
ぬるま湯に浸かっているような温かさに包まれ、レジーニは初めて「嬉しい」と感じた。
遊びでも気まぐれでもなく、心底から愛する人を腕に抱けることが、泣きたくなるほどに嬉しい。
幸福とはどういうものだったか。忘れていた大切なものは、すべてルシアが思い出させてくれた。
自由奔放で、恋人よりもギターを優先し、振り回されることの方が多い。
話は噛み合わず、偏食で、粗忽者。
けれど、生きるうえで何を大事にすべきなのか、誰よりも知っている。
彼女となら、もう一度光の中を歩いて行ける。
共に生きようとレジーニが贈った指輪を、ルシアは喜んで受け取ってくれた。歓声を上げ、ウサギのように飛び跳ねて、おとなしくなったかと思えば、急に俯く。
ルシアの涙を、その時初めて見た。




