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錬金術師は思考する  作者:
第一章 Fortum Aurora
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 カウンターに広げられた本に重なるようにして、半透明の青いウィンドウが浮かんでいた。黄ばんだページを一つめくれば、ウィンドウに映る文章もまた変わる。


 空中に投影されたウィンドウに映るのは何の変哲もない、慣れ親しんだ日本語だ。

 だが、その下の本に印刷された文字列は。字の一つをとっても、このゲームを始めるまで見た事さえ無い言語で書かれていた。ラテン文字に見えるが、ギリシャ文字のようにも見てとれる。これはロディア語、と呼ばれるこのゲーム独特の文字だ。

 当然の事ながら読めず書けずのプレイヤーの為にこのゲームでは、日本語で書かれた補助ウィンドウがロディア語の出てくる場面では常に浮いている。


 熱心なプレイヤーの中には、補助ウィンドウ無しでプレイ出来るようになりたいと文字の研究をする者もいるらしいが。地球上類を見ない文章形態で、その研究は難航を極めていると聞く。

 たかがゲームにわざわざそこまでするとは。文字を開発した運営と、文字を解読しようとする熱心なプレイヤーの両方に賞賛半分、呆れ半分。


 巷ではこのような、ゲームに異常なまでに情熱を注ぐ人々の事を“廃人”と言うらしい。

 今まで碌にゲームをやってこなかったため触れあう機会の無かったその手の人々は、やはりゲームの中でも碌に触れ合う機会がなく。廃人達の集団は、ゲームが開始され九ヶ月経った現時点で既に隣国を制覇しつつあると言うのだから恐れ入る。

 そう、今まで碌に触れ合う機会がなく、雲の上の――廃人だから、地の下か。

 廃人と言う人種は自分にとっては地の下の存在で、これからもずっと地の下の存在――の筈だった。



 ペラペラと本を捲っていた手を止めて、青年は一つ息を落とした。

 脳裏には、廃人に片足を突っ込んでしまった妹の姿が浮かんでいる。年頃故か、月に一度話す機会があれば良い方という非常に冷めた仲の妹は、このゲームにおいてランカー…所謂廃人という区分に属している。

 学校には行っているものの、帰ってきたらすぐにゲーム。ご飯時になると一瞬だけリビングに降りて部屋に夕食を持って行き、夜遅くまでまたゲーム。

 そんなにも妹を夢中にさせたこのゲームに参加すれば。妹と好きなものを共有すれば、ほんの少しでもこの冷めきった兄妹仲が修復されるのではないか、という思いもあってこのゲームを始めたのだが。

 現実は非情で、廃人と初心者の溝はあまりにも深く。余計に兄妹仲を冷めさせるだけだった。


 青年――ユウイチはステータス画面を起動させ、『フレンドリスト』と題打たれたページを表示させた。

 MMOの勝手がわからないから、周りに迷惑を掛けてしまうかもしれない。そんな取ってつけたような理由で無理やり登録し合ったフレンドリスト一番上の名前の横には、ログイン中以外の文字が付いている事を見た事がない。

 まさか、と思いつつ平日深夜3時にログインしてみたのだが。……そのまさかだった。フレンドリストに表示された妹の名前の横には、今もログイン中の文字が煌々と輝いている。


 廃人に片足を突っ込んでいるのではない。妹はもう、廃人だ。

 認めざるを得ない現実に、ユウイチは柔らかな茶色の髪をかき回す。3時にログインし、ゲーム内で半日を過ごした――つまり、現実ではもう4時を回っている――のだが。妹は未だにゲームからログアウトしていない。

 学校へ間に合うよう、毎朝7時には家を出ている妹の今後について思案しつつ、ユウイチは眼の前のカウンターの上に置いた本をめくる。


 流し読みした本のページが10を数えるほどになった時。頭上で鳴った音にユウイチはハッと我に返った。

 館内に響き渡る、その場にいない司書を呼ぶベルの音。


 此処がゲーム内のアルバイト先である城砦都市王立図書館で、自分が今はいない司書の代わりに受付に座っていた事を思い出したユウイチは慌てて顔を上げ、眼の前に立つ人物を見て――絶句した。






 厚みのある古びた本を、元の場所に戻す。

 棚に縦置きされた本と本の隙間は狭く、何度か力を込めて背表紙を押さないと入ってはくれない。

 力を込めるたびにギシギシと鳴り響く、作られたばかりの頃はさぞや立派だったであろう老齢の本棚が上げる悲鳴は黙殺する。

 手のひら全体を使って一息に押し込めれば本棚がガタリと揺れて、本の上や棚に積もった埃がふわりと舞い上がり。暗闇にその美貌をぼうと浮かび上がらせた錬金術師――アルファードはけほりと咳を一つ落とした。


 咳が収まると左手に持ったカンテラを肩の辺りまで持ちあげ、本棚に並べられた本を一つ一つ順番に照らしだして目当ての本を探す。

 石畳の床の上には腰ほどの高さまでに無作為に積まれた本。それらが本棚と本棚の間の通路に幾つもの塔をなして行く手を阻み、酷く歩きづらい。


 コツコツと暗闇に自分の足音だけが反響するこの空間は、不気味な事この上ない。

 上に立つ建物よりも広く、敷地内ギリギリまで拡張された石造りの地下書庫は呆れるほどに広く。無数の本棚が迷路のように立ち並び、手入れの届かない天井と棚の間には夥しいほどの蜘蛛の巣が張っていた。

 出入り口の近くはまだマシだが、そこから十ほど本棚を数えると人の手が入ったのは一体いつなのか、と思ってしまうほどの埃が本棚と床に積もっている。

 何世紀も昔に作られた照明器具の無いこの古びた地下書庫での光源は、左手に持ったカンテラの心もとない光だけだ。

 ゆらゆらと揺れるカンテラの炎は、本棚に立ち並ぶ分厚い本たちを不気味に照らしだす。


 しばらく本棚と本棚の間を歩き回り。明かりがとある本棚に並べられた青い装丁の本を照らし出すと、アルファードは足を止めた。

 目当ての本を見つけたのだ。本の上に降り積もった数年分の埃を手で軽く払い、本の上部に指を掛けてそっと取り出す。

 足元に積まれた本の上にカンテラを置いて、片手で本を支えて表紙をめくる。埃っぽさと、古書独特の匂いが鼻についた。

 黄ばんでいるが、虫に食われている訳ではない。ページを捲って読めることを確認するとアルファードは本を閉じて小脇に抱え、カンテラを持ちあげて自分の足跡がくっきりと残っている通路を引きかえした。




 ぎぃ、と錆びれた蝶番の悲鳴がだだっ広い館内に響く。

 今まで僅かな光が光源の暗がりにいたせいか、扉の隙間から入る幽かな光さえもが眼にしみて、アルファードは一度目を閉じた。


 アルファードが出てきたのは関係者以外立ち入り禁止、とプレートの下げてある片開きの扉だ。

 関係者ではない人間がここから出てくるのを見られると拙いが、平日の昼下がりだからか館内はシンと静まりかえり、ひと気がない。それを良い事にアルファードは見咎められることなく堂々と姿を現し、懐から出した錆びた鍵で施錠する。


 周囲を見渡せば視界に入るのは本と本棚、そしておざなり程度に置かれた机と椅子のみだ。

 緩やかな曲線を描く壁に沿うように設置された本棚は建物の下から上まで、四階分の壁面すべてを覆い隠し、床に整然と並べられた棚の数は数えるのも馬鹿馬鹿しいほど。

 上を見上げれば、二階から四階部分は吹き抜けで。それでも壁際にある床には所狭しと本棚が置かれている。

 天井には色鮮やかなステンドグラスが嵌められており、色とりどりに染め上げられた光が吹き抜けを通り武骨な本棚や椅子が並ぶ空間に降り注ぎ、辺り一面に神聖な雰囲気を与えていた。


 此処は城砦都市の中心街に立つ王立図書館。ヴィスク王国の中でも五本の指に入る歴史と大きさと蔵書量を誇る、図書館だ。



 本を落としても傷つかないようにとの配慮で敷かれたベージュ色のカーペットを踏みしめて、本棚と本棚の間を縫うように歩く。

 さすがと言うべきか、一階に並べられた本棚には隙間なくびっしりと本が詰まっている。だが、二階、三階、四階と階を上がって行くにつれ本棚の空いた隙間が顕著になる。…これも、ここ十年間で現れた変化、というべきか。


 十年ほど前。この図書館では大規模な書庫整理が行われ、それまで本棚に並べられていた本の約半分が地下の書庫へ移された。空いた隙間を塞ぐように今まで書庫に埋もれていた何十種類もの本が置かれたが、それでも空白は埋まらない。

 何百とあった地下書庫の空き本棚にも収まりきらず、泣く泣く司書達は石畳の上に大切な本たちを積み上げた。それほどまでに膨大な量が、地上階から書庫へ移された。

 どんな本を移し、どんな本を残すのか。何を基準にして選別されたかは不明だが、研究書や魔導書、他国に関する本などはすべて余すことなく地下へ送られた。


 整理後にこの図書館を訪れた人間は可哀想だが、この出来事はアルファードにとって僥倖だったと言える。それらの閲覧を理由に今まで立ち入る事の出来なかった地下の書庫の鍵を借りられるようになったからだ。

 地下書庫は本好きの人間にとっては宝の山。禁書や絶版された本、数世紀も前の本が埃を被って埋もれている。


 本棚と本棚の間を進んでいると、前方に一階の天井にまで届きそうなほど大きな両開きの扉が見えてくる。

 この図書館が作られた時代の流行を取り入れた無駄に豪華で華飾気味の建築様式は、棚や机などの武骨さとは相反する絢爛豪華な魅力を放っていた。

 初めて訪れる者は必ず見惚れるという、自分にとっては見慣れた扉を一瞥するだけに留め、アルファードは入口付近のカウンターへと足を運んだ。



 扉のすぐ傍にある、扉と同じ種類の装飾の施されたカウンターの奥にいるのはアルバイト用のエプロンを着用した青年。二時間ほど前にアルファードが来た時は顔なじみの司書がいたが、丁度交代の時間だったらしい。

 青年の視線は眼の前に広げられた本へ熱いほどに注がれており、カウンター前に立つアルファードに気付く気配もない。


 持っていた本をカウンターの上に置き。それでも顔を上げない青年にため息を一つ落として備え付けのベルを鳴らす。可愛らしいベルの音がひと気の無い図書館内に響いた。

 本来はカウンターに司書がいない時に鳴らすものだが、まぁこんな使い方も良いだろう。


 ベルの音に気付いてハッと本から顔を上げた青年は、その黒い瞳にアルファードを映すと眼を見張り、ぽかんと口を開けた。

 年の頃は二十代前後くらいか。柔らかな茶髪に、黒い眼。柔和な顔立ちをしており、少々女顔なのが難点だが女性にはモテる性質の顔をしている。


 数拍後、青年は見開いていた瞳と口を閉じ。一度深呼吸をしてから何事も無かったかのようにへらりと笑った。頭に手を当てて眼を糸のように細めたまま、アルファードに軽く頭を下げる。


「すみません…気付きませんでした。貸出ですか?」

「ああ。それとこの鍵をアスティに渡してくれ」

「はぁ、アスティさんに…」


 青年はカタリと音を立ててカウンターに置かれた、所々が錆びついた古い鍵を手に取ると眼前に持ってきてまじまじと観察する。

 しばらく見て納得したのか、わかりましたと頷くと座っていた椅子から立ちあがる。立ちあがった青年の体躯は中肉中背といった所。後ろの棚まで歩いて行き、引き出しを開けて鍵をしまう。


 青年はカウンターに戻りアルファードの置いた本を手に取った。地下書庫で見つけた、青い装丁の古びた本だ。

 ふと、何かに気付いたのか青年は錬金の文字が躍る表紙とアルファードを何度も見比べる。

 黒い瞳が五度ほど往復した後、青年は恐る恐るという体でもしかして…と切り出した。


「アルファードさんですか?」

「そうだが…誰に聞いた?」


 この青年とは初対面の筈だ。疑問を口にするとアスティさんに、と馴染みの司書の名前を出され、目を細める。

 そういえば十年、二十年ほど前に自分が気に入った人間がいたら紹介しても良いか、と言われた事があった。

 あの悪意に敏感で、人柄を見極めることに長けるエルフの事だ。滅多にそのような事はないだろうと思って了承したのだが。この青年の人柄はアスティのお眼鏡に叶うものらしい。

 流れる沈黙と、自分の事をしげしげと見つめる双眸に耐えきれなかったのか青年は両手を振って矢継ぎ早に言葉を紡いだ。


「えっと、実は僕、錬金術極めたくて…ほんと世間話で…将来の夢はって話だったんですけど、それなら造詣の深いアルファードさんに習った方が早いって……アスティさんが。…あ、でも…出来れば、って話で…」


 次第に小さくしぼんでいく青年の、要点を得ない言葉を整理すれば――自分に錬金術を習いたい、という事か。

 俯いてもごもごと口を動かす青年を見ながら顎に手を当て、考える。

 極めたい、という事は基礎的な部分はもう学習済みなのだろう。

 幸いにして、数年ほど前から王国内の市場の需要と供給は元に戻っている。代わりに今は皇国の方が大変らしいが、アルファードにとって知った事ではない。

 時間はある。しかし、弟子をとるのは一体何十年振りか――。


「何処に住んでいる?」

「へっ!?えぇっと…宿です。通りを一本行った所の…」


 宿。その単語から連想されたものに、アルファードの胸の内に苦い物が広がる。

 脳裏に浮かぶのは、朝から人の家に訪ねては意味の分からない事を喚き散らしたり、道端でたむろしたり、人とぶつかっておきながら謝らなかったり、モンスターを全滅させる勢いで狩りつくしたりする集団の事。

 それは、十年ほど前から現れた――


「…冒険者か」


 冒険者にはあまり良い思い出がない。無意識に眉を寄せながらアルファードが呟いた言葉に、青年は首を振った。


「ギルドには登録してないです。いろんな所で一日だけバイトして…」

「ほう?」

「いや、大変でしたよ。最初は服とポーション3つと、鉄の剣と少しのお金だけだったんですから」


 今までの態度は何処へやら。糸のように目を細めて青年は饒舌に身の上話を始める。初めてモンスターに出会った時の事、錬金術師を目指していると話して馬鹿にされた事――口を動かしながらも、本の手続きを進める手は止めない。

 本業の司書に比べると当たり前に青年の手つきは拙いし、遅い。だが、その時間を退屈と思わせないほどの話術。

 なるほど、確かにこの青年はアスティが気に入る程度には賢いらしい。


「――っと、言う訳で弟子入りさせてもらえませんか?」


 そう言いながら手続きの済んだ本を差しだされる。

 アルファードは受け取ったそれを無言でローブの中へ仕舞うと、青年にアルバイトの終了時間を尋ねた。




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