第48話 甘え方について
先に帰っていた三人は、夕飯を作るまでに時間があった。
何もすることがなく、着替えなどのやることは全て終えた後、それぞれが異なる寛ぎ方をしていた。
雪乃は借りてきた本を読むのに忙しそうで、日向はメモをしていた料理のレシピを見返していた。
再選挙前まではあんなにも忙しかったのに、終わった途端に放課後が暇になった。
昨日は少しだけ桐谷を手伝っていたけれど、あんなものは普段の一割にも満たない簡単な作業だ。
とにかく、暇になったのは間違いない。
暇なときは頭が回りにくい。なんたって必要としていないから。
そんな頭で千秋は千春に言われたことを振り返っていた。
(癒しが必要……か)
ふと立ち上がってみて、千秋から見て左寄りでソファーに座る日向にソファーの背凭れ越しになだれかかってみる。千春からされたように。
いきなり後ろから抱きしめられた日向の驚きは千秋の腕が十分なほど受け止めてみせた。
「え、えっ? 七くん…?」
「はは……俺からするのは珍しいか?」
「珍しいどころかあり得ないと思ってたくらい」
日向は千秋の腕をそっと包み込み、破顔して千秋を受け入れる。
「どうしたの? イヤなことあった?」
「そうじゃないけど、千春姉が『癒しも必要だ』って言うから」
「千春ちゃんには感謝しないとね」
「やめとけ。褒めるとすぐに調子に乗るから」
千秋が日向に注意しても日向ははにかむだけで、千春に報告するつもりのようだ。
本当に千春が調子に乗って他のことも日向に助言するようにならないといいが。
「そういえば、千春ちゃん遅いね?」
「どうせ七瀬先輩と一緒にいるんだろ」
「そうだといいんだけど。千春ちゃん、自分のことより皆のこと優先しちゃうから」
「そうか? 俺にはそうは見えないけど」
「それは千春ちゃんが……」
日向はその先を言いかけた口を手で塞いで、首を横に振る。
「そ、それより。七くんは後ろからそうしてるだけでいいの?」
「そうじゃないと日向の攻撃を避けれないからな」
「むぅ。明日は休みなんだし、七くんももうちょっとくらい甘えてもいいと思うんだよね」
「日向が甘やかしたいだけだろ」
千秋が日向を捕まえる腕を解くと、日向はソファーの上で千秋の方へ体を向ける。
「ソファーの上で膝立ちは危険だぞ」
千秋の注意に日向は耳を傾けることなく、そのまま腕を広げて抱き抱えられるのを待っている。
「七くんが素直になるまでわたしは動くつもりはないよ?」
「じゃあ、いつでも動けるってことか」
千秋が冗談半分に言うと、日向は頬を膨らませて広げていた腕で千秋を捕まえようとする。
だが、それは事前に距離を取った千秋を捕えられず、そのまま重心が前に揺れる。
「わ……」
「え? ぐえっ!?」
バランスを崩した日向はそのまま前に倒れていき、受け止めようとした千秋のお腹に頭突きを繰り出した。
「……だから危ないって言ったのに」
「ご、ごめん」
顔を上げて千秋に謝る日向。
千秋は日向をソファーに座らせようと肩に手を置くと、日向の腕がどこに伸びているのかを理解した。
「抱きつくまでが計算だったのか」
「抱きつこうとはしたけど、バランスを崩したのはたまたまだよ!」
「はいはい」
こうなってしまえば仕方ない。無理矢理引き剥がして距離を取るのは流石にできないし、このくらいの甘え方なら千秋としても嬉しいので、もう少しこのままにしておく。
「ぶつけたところは大丈夫だったか?」
「うん。大じょ……いや、あんまり受け止められた感じがなくて痛かったような…?」
日向は千秋を離すつもりはないらしく、代わりに千秋が頭を撫でて痛みがないかを確認してもらう。
「痛いところはない?」
「えあ、いや、大丈夫だよ!」
撫でてもらえたことにニコニコしていた日向はハッとして答えた。
痛みがなく反応がなかっただけか、撫でられることが嬉しすぎて痛さを感じないか、どちらか分からないが、あれだけ嬉しそうにしているなら大丈夫だろう。
しばらく日向を撫でていると、日向はじっと千秋を見つめてきた。
「……なんだ?」
「その……今日はいつもと違ってずっと撫でてくれるなぁと思って」
「…!」
言われてみればそうだ。いつも日向とはどこか距離を置こうとして、触れ合う時間を減らそうとしていた。だけど、今日はそんな気が起きず、ずっと甘やかしていた。
今日は調子が奮わない。やはり千春からのスキンシップがいまいち理解できなかったからだろうか。
……いや、違う。
この心に引っ掛かるような違和感はなんだ?
「わたしは七くんが気になっていることがなんとなく分かるよ」
「……そうか?」
「うん。ねぇ、七くん。わたしの隣に来て?」
分からなかった。今日までどうして日向と深く関わろうとしなかったのか。日向はいつでも触れ合えるところにいるというのに。
必要な感情に穴が空いているような、そんな気持ち悪さが心を渦巻いていた。
日向の腕が千秋を離すと、千春のときと同じような、少しだけ悲しい気持ちになる。
「その心の穴は、わたしが埋めてあげるから」
誘われるようにして、千秋がソファーを回り込んで日向と顔を合わせると、日向はソファーの空いているところを手でポンポン叩いて千秋に座るように促す。
千秋は促されるままソファーに座り、背中を背凭れに預けることなく、複雑な気持ちのまま背を伸ばす。
日向との距離は手のひら一つ分くらい。
その隙間を日向が千秋に向けて倒れてきて埋めてみせた。
「七くんは自分に厳しいから。わたしがその分を……その分以上に優しくしてあげないと」
日向は腰を浮かして千秋のすぐ隣に移動すると、上体の向きを変えて胸を千秋の方へ向けた。
そっと千秋の頬に手のひらを添えて顔を近づけたその時、優しくて甘い衝撃が千秋を襲った。
「……これはわたしの気持ち。わたしは今までも、これからも七くんの支えになるよ。だから七くんにも――」
その言葉の先は言わなくとも分かる。
だからこそ、日向もあえてその先は口にしない。
「わたしは七くんの味方だよ」
「ああ……もう」
日向は力なく倒れてくる千秋を受け止めて、頭頂部から後頭部にかけて優しく撫でる。
「俺が護られてどうするんだよ……」
日向は胸元で弱音を吐く千秋を撫でて愛でる。
自分を『好い人』と見せるために振る舞っていた婚約者が溜めたストレスを解消するために、そして今だけは自分だけを見てもらえるように。
しばらく千秋のことを撫でていると、ふと千秋が顔を上げて日向を見つめる。
日向は撫でる手を止めずに、こちらを向いた千秋に首をかしげてみる。
「日向は弱気な男は嫌いか?」
真剣な面持ちを浮かべた千秋の質問に、日向は考える間もなく返す。
「ずっと弱気なのはちょっと心配になるけど、七くんであれば無条件で大大大好きだよ?」
「俺の許嫁は可愛い上に激甘なのか……このままじゃ駄目人間にされる…!」
「いくらでもダメになっていいんだよ?」
「それは俺のプライドが許さない」
その体勢で言われても説得力はあまりないけれど、千秋の気持ちが本気なのは伝わってくる。
「ならわたしがそのプライドも埋めてあげるよ?」
冗談交じりに言ってみると、千秋が驚いた顔を一瞬見せたのを日向は見過ごさなかった。
「愛という毒が強すぎて溶けて埋められそうなんだが」
「わたしが七くんの一部になれるのならわたしは是非溶かしてあげたいな」
「やっぱり甘い毒だよ。それ」
千秋は体を起こして日向と距離を取るも、ソファーからは動かない。
「ちょっとは気が晴れた?」
「おかげさまで。甘えることの大切さがよく分かりました」
「えらいえらい」
「やっぱり甘え溶かすつもりだ」
日向はやんわりと微笑み、千秋へと腕を伸ばす。
千秋はそれを受け入れ、日向の長い亜麻色の髪に指を通す。
「日向のことも甘やかしたい」
千秋の我が儘に日向は楽しそうな声をあげて、ソファーの上で少しだけ腰を浮かせて離れた位置に移動すること二回。横向きのまま千秋の膝に向かって倒れることで、千秋の膝枕を確保した。
千秋の膝の上で体ごと回転させて千秋を見上げる日向の髪を千秋はそっと整える。
「七くんにわたしを満足させることはできるかな?」
「できるさ。日向は俺のことが好きすぎるからな」
そう言いきってしまった手前、千秋は引き下がることはできない。
やれることは手と足の指の数より多くあるが、何からしてみようか。
せっかく膝枕をしているので、それに準じた行為を積極的に行いたい。
まずは手始めに右手で日向の頭を撫でてみる。
日向はそれだけでとても嬉しそうな反応を示して、これだけでも満足しそうなくらいだった。
「ふふ……」
「…? どうしたの七くん?」
「いや、一つ一つの反応が可愛いからつい」
千秋が事実を真っ直ぐに伝えてあげると、日向は発言の嬉しさとからかわれたという気づきで、ぷくっと頬を膨らませる。そう。こういう動作一つ一つが可愛いのだ。
「膨らんだフグみたいになってる」
「わたしには毒はないよ」
「これがあるんだよな。愛という致死量の毒が」
「七くんにしか効かない毒だから、一般的には毒じゃないよ」
「なるほど。そういう捉え方もあるのか」
ちょっと感心しながら、千秋と日向は自然に指を絡ませて手を繋ぐ。千秋はこれで右手が日向を撫でるために、左手は日向の手を握るために塞がれた。
「ここから七くんはどうするのかな?」
挑戦的な目を向ける日向に、千秋は今になって自然に繋がった手を認識した。
「ここで撫でるのをやめたら?」
「わたしの満足ゲージはとても下がるよ」
「手を離すのは?」
「同じく下がるよ」
「それは困った」
次の動きを待っていてソワソワしている日向を撫でながら、千秋はどうしたら日向が満足するのかを考える。
雪乃を呼ぶのは手を使わず補助を得られる良い手ではあるが、日向がそれを見て満足するとは到底思えない。なるべく自己完結する行動で、日向を満足させるには……。
そこでふと、良い案を思い付いた。
「日向、ちょっと頭上げるぞ?」
「? うん。いいけど…?」
許可を取ったので、日向の頭を撫でていた手を日向の頭を支える位置に移動させ、日向の頭を上げると共に体も少し起こさせる。
そうして起き上がってきた日向の頬に、お返しのつもりでキスをした。
「ぴやっ…!」
可愛らしい悲鳴を発した日向は驚いた顔をして千秋へ振り向くが、そこには悪戯が成功して笑う千秋がいた。
「今のは俺の気持ち。さっきのお返しも含めて」
「……ずるい」
「え?」
唇を尖らせた日向は千秋にそう訴える。一体何が『ずるい』のか千秋には見当がつかず、思わず言葉が漏れた。
そんな千秋を見て、日向はムッとした表情で説得する。
「気持ちとお返しは別々にするべきだよっ」
要約すると、いきなりキスをされたのでもう一度してほしくて、次はちゃんと受け止めたい。ということだ。
あまりにも可愛い考えで思わず千秋も笑顔になる。
「わかったわかった。ほら、こっち向いて」
日向は千秋の膝の上で小さく丸まって、膝上でお姫様抱っこをしているような体勢を所望する。
一度手を離して、日向の膝裏から腕を通し、また手を繋ぐ。
「何も言わなくてもしてくれるなんて積極的だね」
「今日だけ特別。それに、俺もしたいから」
「……っ、その目、ずるい」
日向を支える二つの手には、それぞれ緊張と期待が感じられた。それは千秋も同じで、同じことを日向に知られているのが嬉しくも恥ずかしくもある。
「……きて? わたし、もう……」
焦らされた日向は儚い表情で、千秋に我慢の限界を訴える。そんな愛らしい顔に影をつくるように、千秋は日向に覆い被さる。
一つになっているような感覚に包まれ、二人はほんのちょっとだけ息苦しさを感じながら、その行為の幸せに浸る。
ずっとずっとこうしていたかったけれど、短く思えたとても長い時間は終わりを迎える。
目がとろんとした日向に求められるまま、再び二人だけの世界に浸かっていく。
そうして何度か息継ぎを挟んだ後、日向は千秋からの愛に耐えられずに千秋の胸板に頭を埋めた。
「満足した?」
こくりと小さく頷く日向。
それがいじらしくてつい頭を撫でる。
それは日向の決壊した愛の耐久をさらに削ぎ、日向は千秋の腕の中で身じろぎをする。
「ふ、ふふふ」
「今度はなに…?」
「いや……ふふっ。昔のことを思い出しただけだ」
「えっ、いつの?」
「初めてキスされたとき」
「そっ、それはっ」
何があったかと言うと、千秋たちが小学生低学年くらいの頃、日向は九条家の両親がいつも家を出る前にキスをするのを見て、どんな意味があるのかを疑問に思ったことがあった。
それは、当時、既に許嫁の関係にあった千秋に対して行ったことである。いつも通り一緒に遊んでいたときに、ふとキスの意味が気になり、突然1分近く息継ぎなしのキスを行ったのだ。
日向は両親以外にキスをするのは初めてで、当然、適度なやり方が分からなかったこともあったが、千秋も千秋で、直前に悪知恵の働いた千春から『キスされるときの心得』なるものを教えられていたために抵抗しなかったことも原因だ。
終わった後は上手くできたか心配になり、日向は今と同じように千秋の胸に飛び込んで身じろぎをしていた。
結果として千秋と日向のファーストキスは双方が正しい理解と成長を得ることなく終わり、千秋はちょっとだけ日向のキスを恐れる期間ができた。
今となっては甘えたいときや甘やかしたいときでキスを使い分けているくらいなので、かなり成長したと言える。
誰で成長できたかは言う必要もないだろう。
「あ、あれは事故だもん!」
「はいはい。でもやっぱり、甘えてくるのは変わらないな」
「……うん。だって、七くんのこと好きだもん」
その純粋な瞳が愛しくて、千秋は日向を抱き寄せて顔を合わせないようにした。
(七くん、絶対顔赤くなってる……)
日向は千秋にそんな感想を持ちながら、千秋を抱き返した。




